九条頼経(くじょうよりつね)/藤原頼経(ふじわらのよりつね)は、源実朝が暗殺された後、第4代鎌倉殿(鎌倉幕府第4代征夷大将軍)となるべく京から迎えられた人物です。
摂政関白を歴任した藤原北家九条流の九条道家の三男であり、人臣最高位というその高貴な血筋であり、また源頼朝の遠縁という関係から白羽の矢が立ちました。
九条家の生まれですので、九条頼経とも呼ばれます。
後に源頼家の娘である竹御所を室に迎え、名目上の鎌倉殿として鎌倉幕府の神輿となっていた幼い九条頼経でしたが、その成長に伴って政治への野心が芽生え、反得宗家勢力と協力することにより鎌倉幕府内での政争に巻き込まれていきます。
複数回の反得宗家運動に失敗し、遂には第5代執権北条時頼によって京都へ追放されています(宮騒動)。
本稿では、波乱万丈の人生を歩むこととなった第4代鎌倉殿(摂家将軍)九条頼経の人生について見ていきたいと思います。 “【九条頼経(藤原頼経・三寅)】得宗家に挑んで敗れ続けた摂家将軍” の続きを読む