【京極高次】お家取り潰し危機から一発逆転し若狭小浜藩主となった蛍大名

京極高次(きょうごくたかつぐ)は、京極家と言うエリートの家に生まれながら、家臣筋に囲われた後、織田信長の下に人質として送られるという辛酸をなめながら育った人物です。

その後,負け組となる明智光秀や柴田勝家に与するという命の危機を乗り越え,妹・竜子や妻・初の後ろ盾もあって出世を重ね(そのため,女の尻によって出世したとして蛍大名と揶揄されます。)、大津城籠城戦の武功から遂には若狭国一国を得る大大名にまで成り上がり、若狭国小浜藩の初代藩主となります。

本稿では、そんな波乱万丈の人生を生きた京極高次の生涯について見ていきたいと思います。 “【京極高次】お家取り潰し危機から一発逆転し若狭小浜藩主となった蛍大名” の続きを読む

【築山殿(瀬名姫)】悲劇の死を遂げた徳川家康の最初の正室

築山殿(築山殿)は、東照大権現・徳川家康の最初の正室であり、瀬名姫(せなひめ)とも言われています。

今川家の重臣の家に生まれて嫡男・松平信康を生みながら、謀反の疑いによって徳川家康の命により殺害されるという悲しい最期を遂げた人物でもあります。

この築山殿殺害事件は、余りにも有名な歴史的事件でありながらその詳細は実はよくわかっておらず、かつては織田信長の命令によるものであったとするのが一般的だったのですが現在では疑問を呈されており、謎多き事件と言えます。

本稿では、これらの前提を踏まえつつ、瀬名姫の人生を振り返っていきたいと思います。 “【築山殿(瀬名姫)】悲劇の死を遂げた徳川家康の最初の正室” の続きを読む

【井伊直政】外様大名ながら徳川四天王に上り詰めた出世頭

外様大名でありながら、徳川家臣団の中で最大知行を得るまで出生した井伊直政。

幼くして父の謀反の疑いに連座して殺されかけ、家臣団の取り計らいによって徳川家康に仕え、その後の武功・政治力により最終的に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主となり30万石の基礎を築いた大人物です。

井伊の赤鬼という渾名で知っている人が多いかもしれません。

本稿では、そんな波乱万丈だった井伊直政の人生について見ていきたいと思います。 “【井伊直政】外様大名ながら徳川四天王に上り詰めた出世頭” の続きを読む

【桑山重晴】賤ヶ岳の戦いで鬼玄蕃の猛攻に耐えた武功で和歌山城代となった武将

桑山重晴(くわやましげはる)の名を聞いたことがありますか。

正直マイナーすぎる武将ですが、実は数々の武功を挙げ、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の猛攻を耐えて豊臣方の勝利に貢献した武将でもあります。

以下、本稿では、そんな桑山重晴の生涯について見ていきましょう。 “【桑山重晴】賤ヶ岳の戦いで鬼玄蕃の猛攻に耐えた武功で和歌山城代となった武将” の続きを読む

【酒井忠次】背に目を持つ如しと評された徳川四天王筆頭

徳川家康の天下統一に最も貢献したのが徳川四天王ですが、その筆頭は何と言っても酒井忠次です。

何度も徳川家康の窮地を救った冷静沈着なブレーンです。

松平信康切腹事件の際には、究極の選択を迫られるなど苦しい立場も経験した苦労人でもあります。

本稿では、そんな徳川四天王筆頭・酒井忠次の人生について見ていきましょう。 “【酒井忠次】背に目を持つ如しと評された徳川四天王筆頭” の続きを読む

【本多忠勝】生涯57回の合戦で無傷の東国無双

歴史好きが戦国最強の武将を挙げる場合に名が多く挙がる本多忠勝。

徳川家康に従って大小57回もの戦に参戦し、一度も傷を負わなかったという化け物です。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などからもその武勇が称賛され、特に、徳川家にとっては、徳川家康の命を数多く救ってきたこともあり徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑などにも名が挙がる江戸幕府成立の最大の功労者とも言えます。

本稿では、そんな本多忠勝の生涯について見ていきましょう。 “【本多忠勝】生涯57回の合戦で無傷の東国無双” の続きを読む