【増田長盛】どっちつかずの立場をとって没落した豊臣政権五奉行の1人

増田長盛(ましたながもり)は、北近江長浜に入った木下秀吉(後の豊臣秀吉)に見出され、槍働で出世した後、兵站・外交などの内政分野でその能力を発揮した戦国大名です。

豊臣秀吉の最晩年には、政権中枢を支える五奉行の1人にも選ばれ、100万石を超える豊臣蔵入地の一括管理を担うほどの大きな力を持っていました。

もっとも、関ヶ原の戦いの際には、石田三成方に与しながら、徳川家康方に密告書を送るなどしてどっちつかずの態度を示した後、戦後に改易処分を受けて大和国郡山20万石を失う失態を犯しています。

その後、出家して蟄居生活を送っていたのですが、大坂夏の陣が始まると、敗北するのを知りつつ大坂城に入城し、戦後にその責任を問われて自刃して果てるという壮絶な最期を迎えました。

本稿では、意外と知られていない波瀾万丈の人生を送った増田長盛の生涯について簡単に説明したいと思います。 “【増田長盛】どっちつかずの立場をとって没落した豊臣政権五奉行の1人” の続きを読む

【山内一豊】土佐藩20万2600石の祖

山内一豊(やまうちかつとよ)は、生家が織田弾正忠家に滅ぼされて全国を放浪するになるまで没落したところから、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えて槍働きにより出世していき、豊臣秀吉死後にはいち早く徳川家康に取り入って土佐一国を治めて土佐藩を立藩するまでに出世した戦国大名です。

司馬遼太郎の著書「功名が辻」の主人公としても知られ、平成18年(2006年)度のNHK大河ドラマの主人公ともなりました。

また、妻・見性院の内助の功や、天正地震により一人娘を失った悲劇などの波乱万丈のエピソードでも有名です。 “【山内一豊】土佐藩20万2600石の祖” の続きを読む

【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名

宮部継潤(みやべけいじゅん)は、北近江の国衆から羽柴秀吉に降ることによって出世を果たし、最終的には但馬国を得て山陰の要衝である鳥取城主となった戦国大名です。

宮部継潤に対しては、後に天下人となる豊臣秀吉(当時の名は木下秀吉)が、後に関白となる豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質として差し出すほどの力と器量を有し、また羽柴秀吉による中国攻めの際には羽柴秀長と共に山陰方面攻略を成功させ、その後の豊臣政権下における対毛利家の最前線に配されるほどの信頼を勝ち得た有する人物でもありました。

本稿では、その功績が大きいにも関わらず、過小評価されてマイナー扱いとされている宮部継潤の生涯について、簡単に紹介していきたいと思います。 “【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名” の続きを読む

【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室

北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。

諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。

養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。 “【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室” の続きを読む

【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人

武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。

武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。

もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。

そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。 “【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人” の続きを読む

【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名

荒木村重(あらきむらしげ)は、摂津国の有力国人の池田家に仕える武士の子として生まれ、後に織田信長に下った上で池田家を乗っ取り摂津国全域を支配するに至った戦国武将です。

その才覚を高く評価されて織田政権下で重用されながら、織田信長に反旗を翻し敗れ全てを失った武将でもあります。

また、織田信長との戦いでは、妻を残して居城であった有岡城から脱出しこれを見殺しにしたため、後世すこぶる評判の悪い人物でもあります。

本稿では、その後に茶人として生き、利休十哲の1人にもなった波乱万丈の戦国大名・荒木村重の生涯について簡単に紹介していきたいと思います。 “【荒木村重】下剋上を果たして摂津国全域を支配した戦国大名” の続きを読む

【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将

片桐 且元(かたぎりかつもと)は、豊臣秀吉死後に豊臣家と徳川家との対立に翻弄された武将です。

若い頃は賤ヶ岳の七本槍の1人にも数えられるほどの武功を挙げるなどしていたのですが、豊臣秀吉からは官僚としての能力を買われて直参とされ、豊臣秀吉死後には家老として豊臣家を支えました。

もっとも、方広寺鐘銘事件に端を発した豊臣・徳川の対立の際に、徳川家康との内通を疑われて豊臣家から出奔し、徳川家臣として旧主家の滅亡を見届けることとなっています。 “【片桐且元】豊臣家と徳川家の板挟みとなって苦しんだ武将” の続きを読む

【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟

織田長益(おだながます)は、織田弾正忠家当主であった織田信秀の十一男として生まれた武将であり、織田信長の末弟にあたります。

織田信忠の下について織田家の勢力拡大戦に従軍したのですが軍才はなく、目立った武功は見受けられませんでした。

本能寺の変により織田信長が死亡した後は、織田信雄・豊臣秀吉・豊臣秀頼の臣下となったのですが、そこでも武将としての活躍はほとんどありませんでした。

もっとも、千利休に茶道を学んで利休十哲の一人にも数えられるほどの茶人となり、千利休の死後に自らの茶道流派である有楽流を創始するに至り、長益系織田家嫡流初代として織田家の血を後世に残すことに成功しています。

出家後に有楽(うらく)・如庵(じょあん)と号したことから、織田有楽斎(おだうらくさい)と呼ばれることもあります。 “【織田有楽斎(織田長益)】有楽流茶道創始者となった織田信長の弟” の続きを読む

【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男

織田 信雄(おだのぶかつ/おだのぶお)は、織田信長の次男です。

織田家による南伊勢乗っ取りのために南伊勢の北畠家に養子に出されて、同家で成長して見事に同家の乗っ取りを成功させ、織田家中も一門衆序列4位という高位に位置していました。

もっとも、武将としての評価は芳しいものではなく、織田信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に織田家を簒奪された上、その軍門に下って改易処分を受けるなど、その器量には大きな疑問符もつきます。

もっとも、数多く生まれた織田信長の息子のうち、江戸時代に大名として存続したのは織田信雄の系統だけであり、お家存続という成果を挙げたという意味では高く評価してもいい人物と考えます。 “【織田信雄】織田信孝との争いを利用されて羽柴秀吉の下剋上を許した織田信長の次男” の続きを読む

【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の弟

豊臣秀長(とよとみひでなが) は、豊臣秀吉の実弟です。

豊臣秀長は、超ブラック体質の織田家の武将として全国を飛び回されていた豊臣秀吉の代理としてその代わりを務めることができた稀有な人物であり、短期間で異例の出世を遂げる豊臣秀吉の傍らにあって、後の軍事・政治面で天下統一事業に大きく貢献した人物です。

温厚な人柄によって家臣団や諸大名との調整役を務めるなど豊臣政権にとってなくてはならない立場にあり、大成した後の豊臣秀吉に異を唱えてその制動を制御できる唯一の人物でもありました。

武官としても優秀であり、中国攻めでは山陰方面攻略を、四国征伐では総大将を務めてこれらを成功させ、最終的には、大和国・紀伊国・和泉国と河内国の一部に及ぶ110万石を超える石高を領する大大名となり、また従二位権大納言となって大和大納言と尊称される出世を遂げています。 “【豊臣秀長】豊臣政権の潤滑油であった豊臣秀吉の弟” の続きを読む