【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵・富士川の戦い東国支配木曽義仲追討→平家追討→西国支配→東北支配→征夷大将軍任命という過程を経て完成されます。

この中で、源頼朝の東国支配の経緯は従前説明しましたが、今回は平家追討後の西国支配の流れについて説明します。

源頼朝は、びっくり仰天の方法により西国支配を確立します。それは、鎌倉時代を学ぶ上で外すことができない「守護」と「地頭」の設置です。

学校では、守護は主に軍事力・警察力をもって治安維持を担い、地頭は主に土地を管理して年貢の徴収を行ったと学ばれた方が多いと思いますが、その詳細についてはあまり知られていないように思います。

そこで、本稿では、なぜ源頼朝が守護と地頭任命権を得たのか、またその任命権を得たことがどうして源頼朝(鎌倉幕府)の西国支配につながったのかについて簡単に説明します。 “【守護・地頭の設置】源義経追討名目で鎌倉幕府による西国支配権を確立した政治の天才源頼朝” の続きを読む

【庚午事変・稲田騒動】なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのか

今は兵庫県の一部として当たり前のように認識されている淡路島ですが、歴史的に見ると徳島県である方が自然だったということをご存じですか。

淡路島は元々は淡路国といい、明治時代初期までは徳島藩・蜂須賀家の領地だったため、歴史的に見ると淡路島は兵庫県となるよりも徳島県となる方が自然だったからです。

では、なぜ淡路島は兵庫県の一部となったのでしょうか。 “【庚午事変・稲田騒動】なぜ淡路島は徳島県ではなく兵庫県なのか” の続きを読む

【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊

足利義昭を奉じて上洛し、圧倒的な軍事力で次々と周辺勢力を取り込んでいった織田信長ですが、第一信長包囲網の最終期に浅井長政・朝倉義景を追って比叡山延暦寺を取り囲んだ際(志賀の陣)、各地で反織田信長の挙兵が続発します。

室町幕府15代将軍である足利義昭は、この反織田信長勢力の勢いを見て、これに便乗して自らに対する織田信長の影響力を相対的に低下させようと画策します。

足利義昭は、元亀2年(1571年)ころ有力大名等に反織田信長の決起を求める御内書の宣下をし、これに呼応する形となる抵抗勢力と織田信長とのいたちごっこが始まります。 “【第二次信長包囲網】反織田信長勢力の結集と崩壊” の続きを読む

【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と包囲網形成の経緯

織田信長は、足利義昭を奉じて上洛して畿内の実権を握った後、抵抗勢力との果てしない戦いを繰り広げることとなります。

本稿では、信長の上洛と、その後の第一次信長包囲網に至るまでの経緯について簡単に紹介したいと思います。 “【第一次信長包囲網】織田信長の畿内制圧と包囲網形成の経緯” の続きを読む

【方広寺鐘銘事件】豊臣家滅亡のきっかけは徳川家康の言いがかりか?豊臣秀頼の落ち度か?

方広寺銘鐘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、方広寺の鐘に記された銘文に徳川家康が激怒し、その後の大坂の陣・豊臣家滅亡の切っ掛けとなったとされる事件です。

この鐘は現存しているため、見たことがある方も多いのではないでしょうか。少なくとも、誰もが学校の教科書で一度は目にしていると思われます。

本稿では、歴史を変えた方広寺銘鐘事件(読み方:ほうこうじしょうめいじけん)について、そのあらすじを簡単に説明したいと思います。

なお、方広寺という寺号は、江戸時代中期以降に自然発生的にそのように称されるようになって定着したものであり、江戸時代初期までにその寺号はないことから、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」といわれることもあります

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