【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つであり、推古天皇が即位して飛鳥豊浦宮に都が置かれた推古天皇元年(593年)から奈良盆地に平城京を造営して遷都する和銅3年(710年)までの117年間を飛鳥時代と言うのが一般的です。

この117年の間には、一時的に難波宮・大津宮に都が置かれていたことがあるものの、主に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に都が置かれていたことからその名称が付されました。

飛鳥時代は、大別すると蘇我氏独裁政権時代(前期)・唐と新羅からの侵攻対策に追われた混乱時代(中期)・律令国家形成時代(後期)の3つの時代に区分されます。

以下、これらを順に見ながら飛鳥時代の概要について説明していきたいと思います。 “【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略” の続きを読む

【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む

【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団

遣隋使と遣唐使は、いずれもヤマト政権が、先端技術や制度を学ぶなどの目的のために中国に派遣した朝貢使のことであり、中国が隋王朝の時代に派遣されたのが遣隋使、唐王朝時代に派遣されたのが遣唐使です。

遣隋使派遣の1世紀前にも倭の五王による朝貢記録があるのですが、そのときとは異なり、遣隋使・遣唐使は冊封を受けない対等外交であったという点に違いがあります。

遣隋使・遣唐使は、正式な外交使節や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止するという渡海制(とかいせい)を採用していたヤマト政権(古代日本)の下で、中国の最先端技術や文化を持ち帰ったという共通成果をもたらしてはいるのですが、その派遣目的はときの東アジア情勢の変化に対応して異なっていますので、時期毎の目的を理解することが重要です。

以下、遣隋使・遣唐使派遣の経緯・目的・その成果などについて、簡単に説明していきます。 “【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団” の続きを読む

【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都

藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。

壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。

それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。

また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。 “【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都” の続きを読む

【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】

618年に建国された中国王朝の唐は、建国直後から朝鮮半島への軍事的野心を示し、朝鮮半島北部の高句麗と対立すると共に、朝鮮半島南部新羅と組んでその他地域の侵攻を試みます。

この結果、7世紀の朝鮮半島は、唐からの軍事侵攻にさらされる戦いの世紀となったのです。

そして、この唐と朝鮮半島諸国家との戦いに、朝鮮半島南部国家であった百済からの援軍要請に応じたヤマト政権(倭国)も参戦します。

もっとも、海を渡ったヤマト政権軍は、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、朝鮮半島内の拠点を全て失って倭国(日本)に逃げ帰ります。

それだけなら良かったのですが、超大国である唐に喧嘩を売ったヤマト政権としては、その報復として唐・新羅連合軍からの侵略の危機に晒されるという、国家存亡の危機を迎えることとなったのです。

そこで、ヤマト政権は、この後に内政・軍事・外交というあらゆる面でその対策に追われることとなってしまいました。

本稿では、白村江の戦いの敗戦後にヤマト政権が、迫り来る唐・新羅軍の侵攻の脅威に備えてどのような対策を取ったのかについて説明していきたいと思います。 “【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】” の続きを読む

【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター

乙巳の変(いっしのへん)は、皇極天皇4年(645年)に大極殿の中かつ天皇の面前で起こった暗殺劇です。

中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼした政変として余りにも有名ですが、起きた理由や首謀者については諸説あり、古代ロマンを掻き立てるクーデター劇です。

乙巳の変の後に、中大兄皇子が体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行していますので、大化の改新の第一段階とも言えるかもしれません。 “【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター” の続きを読む