【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団

遣隋使と遣唐使は、いずれもヤマト政権が、先端技術や制度を学ぶなどの目的のために中国に派遣した朝貢使のことであり、中国が隋王朝の時代に派遣されたのが遣隋使、唐王朝時代に派遣されたのが遣唐使です。

遣隋使派遣の1世紀前にも倭の五王による朝貢記録があるのですが、そのときとは異なり、遣隋使・遣唐使は冊封を受けない対等外交であったという点に違いがあります。

遣隋使・遣唐使は、正式な外交使節や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止するという渡海制(とかいせい)を採用していたヤマト政権(古代日本)の下で、中国の最先端技術や文化を持ち帰ったという共通成果をもたらしてはいるのですが、その派遣目的はときの東アジア情勢の変化に対応して異なっていますので、時期毎の目的を理解することが重要です。

以下、遣隋使・遣唐使派遣の経緯・目的・その成果などについて、簡単に説明していきます。 “【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団” の続きを読む

【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都

藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。

壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。

それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。

また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。 “【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都” の続きを読む

【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】

618年に建国された中国王朝の唐は、建国直後から朝鮮半島への軍事的野心を示し、朝鮮半島北部の高句麗と対立すると共に、朝鮮半島南部新羅と組んでその他地域の侵攻を試みます。

この結果、7世紀の朝鮮半島は、唐からの軍事侵攻にさらされる戦いの世紀となったのです。

そして、この唐と朝鮮半島諸国家との戦いに、朝鮮半島南部国家であった百済からの援軍要請に応じたヤマト政権(倭国)も参戦します。

もっとも、海を渡ったヤマト政権軍は、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、朝鮮半島内の拠点を全て失って倭国(日本)に逃げ帰ります。

それだけなら良かったのですが、超大国である唐に喧嘩を売ったヤマト政権としては、その報復として唐・新羅連合軍からの侵略の危機に晒されるという、国家存亡の危機を迎えることとなったのです。

そこで、ヤマト政権は、この後に内政・軍事・外交というあらゆる面でその対策に追われることとなってしまいました。

本稿では、白村江の戦いの敗戦後にヤマト政権が、迫り来る唐・新羅軍の侵攻の脅威に備えてどのような対策を取ったのかについて説明していきたいと思います。 “【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】” の続きを読む

【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター

乙巳の変(いっしのへん)は、皇極天皇4年(645年)に大極殿の中かつ天皇の面前で起こった暗殺劇です。

中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我宗家を滅ぼした政変として余りにも有名ですが、起きた理由や首謀者については諸説あり、古代ロマンを掻き立てるクーデター劇です。

乙巳の変の後に、中大兄皇子が体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行していますので、大化の改新の第一段階とも言えるかもしれません。 “【乙巳の変】中大兄皇子・中臣鎌足によるクーデター” の続きを読む