【大宰府】軍事拠点として誕生し統治機関へと変化した西の都の歴史

大宰府(だざいふ)は、律令制度確立期に西海道(現在の九州地方)を統治するために筑前の国に設置された統治機関です。

大王の勅を司ることから、和名では「おほ みこともち の つかさ」と言われます。

政治・行政機関として機能した大宰府は、元々は中国・朝鮮に君臨していた王朝から古代日本を守るための軍事施設として成立した軍事都市であり、中国・朝鮮との関係が改善して侵略される危険が薄れたことから、次第にその役割を政治都市に変えていったという歴史的経緯があります。

本稿では、軍事都市兼政治都市として反映した西の都・大宰府の歴史について見ていきたいと思います。

軍事都市としての大宰府誕生

大宰府の立地

大宰府は、大陸に成立した巨大王朝から古代日本を守るための軍事要塞として誕生したのですが、まずは現在の北九州・福岡平野にこのような軍事要塞が築かれることになった経緯から見ていきましょう。

大宰府建設に至る理由は、立地にあります。

倭国と呼ばれていた頃の古代日本に侵攻して来る可能性がある外国とは、中国・朝鮮を意味しており(その他の国は遠すぎて、日本に侵略してくる可能性はありません)、当然ですが、島国である日本に侵攻するためには兵や物資を海路で運ばなければなりません。

そして、羅針盤が開発される以前の造船技術・航海技術の未発達時代では陸地を見ながらでなければ航海をすることが出来ず、中国・朝鮮半島から日本に行くためには、朝鮮半島→対馬→壱岐→博多以外の選択肢はありませんでした。

このことは、兵站の点から見ても異論はありません。

なぜなら、日本に侵攻する場合には大軍を動員する必要があるのですが、その進軍のためには大量の武器や食料が必要となり、当然これらは1回運んで終わりというわけではなく、戦いが続く間、常に前線にこれらの物資を供給し続ける必要があります。

そして、これらの物資は朝鮮半島経由で海路にて運ばれますので、多くの船から積荷の陸揚げができる港が必要です。

また、兵糧を運ぶための兵糧も必要となり、またその距離が長ければ長いほど敵襲や自然災害によって少なくない量の物資が失われることとなるため、その距離はできる限り短い必要があります。

そこで、朝鮮半島から侵攻してくる侵攻軍にとって、最短経路である兵站基地となりうる場所は博多(博多湾)しかなかったのです。

さらに、博多にはヤマト政権水軍の拠点も存在しており、博多を放置して他の場所へ上陸しようとすると、途中でヤマト政権水軍の攻撃に晒されることとなりますので、制海権の観点からしても博多以外の場所に外敵が上陸する選択肢はありえません。

そのため、古代日本に侵攻して来る外敵の第1次攻撃地点は北九州博多湾沿岸であることが確定しており、それが明らかであるからこそヤマト政権としても博多湾・福岡平野を整備することとし、その防衛のための拠点として築かれたのが大宰府だったのです。

なお、交通に便利なはずの博多湾沿岸ではなくそこから約15km南東の福岡平野の南端であった理由は、博多湾から福岡平野から筑後平野を結ぶ幅1.2~1.5kmのくびれ状の低地を侵行して来る外敵に対し、大宰府と博多湾との間に防衛施設を設けてこのくびれ状の場所を巨大な桝形として迎撃することが効果的であったからです。

大宰府の前身機関

大宰府の北側に設けられた水城の放射性炭素年代測定により、これらの層が3層に分かれ、最下層が2~4世紀頃・中間層が4~6世紀頃・最上層が510~730年頃に構築されたものであることが明らかとなっていますので、これにより守られる大宰府の前身施設がこの最初期頃に設けられたものと考えられ、倭国と呼ばれた時代の古代日本の外交を担っていたものと考えられます。

そして、その前身施設が、時代の経過とともに発展し、ヤマト政権による朝鮮半島侵略作戦での軍事基地(ヤマト政権の出先機関)としても機能したものと考えられます。

また、始まりの時期は不明ですが、大宝律令施行後に「大宰府」という表記が用いられる前の段階では、「筑紫大宰」と呼ばれるのが一般的でした。

防衛施設として大改修(663年~)

対外国最前線基地として建設された大宰府ですが、さらなる防衛力強化が求められる事件が起こります。

それは、天智天皇2年(663年)8月、白村江の戦いに敗れて逃げ帰ったヤマト政権は、唐・新羅軍からの報復のための追撃攻撃を受ける具体的危機が生じたことでした。

白村江の戦いで主力軍を失ったヤマト政権に唐・新羅と正面から戦う水上・陸上戦力は残されていませんので、急ぎ防衛施設の整備を行い、唐・新羅側の予想進軍ルートを遮断する必要に迫られます。このときのヤマト政権の国防策については、別稿:白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策を参照ください。

このとき、ヤマト政権では、都を本丸と見立て、その上で北九州を第1次防衛拠点(外曲輪)、瀬戸内海を第2次防衛拠点(内曲輪)と定め、これらに様々な防衛策をとっていきました。

まずは朝鮮半島から侵攻してくるであろう唐・新羅軍に対する、上陸部隊に対する防衛拠点となる大宰府防衛の強化から始めます。

その上で、ヤマト政権は、唐・新羅軍を北九州にて防戦できるよう、本丸を大宰府に定め、いち早く進軍状況を確認した上で、大宰府の周囲に出城として配した朝鮮式山城と城壁と見立てた連山と水城で守るという一体的な防衛構造を作り上げました

(1)烽の配備(664年)

唐軍・新羅軍の侵攻があった場合、その情報をいかに早く知ることができるかでその戦局が変わります。

そこで、天智天皇は、これらの侵攻があった場合に一刻も早くその事実を知ることができるよう、唐・新羅軍の侵攻ルートとなる対馬島・壱岐島・筑紫国などに烽火(とぶひ)を配備します。

なお、烽火とは、ヨモギや藁などを穴に入れて焼くことで煙を上げ、それを離れたところから確認することによって情報を伝達する手段であり、いわゆる狼煙です。

(2)朝鮮式山城築城

また、大宰府防衛拠点となる大宰府の周囲には大野城・阿志岐山城・基肄城、また対馬国に金田城、肥後の国に鞠智城といった朝鮮式山城(山城周囲を取り囲むように城壁を配した古代の城)が築城されました。

なお、文献上は、北九州に大野城・基肄城・鞠智城・金田城、瀬戸内に長門の城・屋嶋城、畿内に高安城がそれぞれ築城されたとされているのですが、長門・茨・常・三野・稲積の5城についてはその所在地は明らかとなっていません。また、岡山にも城(鬼ノ城?)が築かれたと考えらえられていますが詳細は不明です。

① 大野城築城(665年)

大野城は、亡命百済人である憶礼福留と四比福夫による指導の下、大宰府の北側に存する大城山・大野山(現在の福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町)築かれた朝鮮式山城です。

「日本書紀」天智天皇四年(665年)八月条に、「築 大野(大野城)及椽(基肄城)二城」と記されています。

② 基肄城築城

基肄城は、亡命百済人である憶礼福留と四比福夫による指導の下、大宰府の南側に築かれた朝鮮式山城です。

③ 阿志岐山城築城

阿志岐山城は、大宰府の東側に築かれた朝鮮式山城です。

もっとも、阿志岐山城についての文献記録はなく、このときに築かれたのか、または元々あった城を改修したのかについては明らかではありません。

④ 鞠智城築城

鞠智城は、以上の3城のはるか南側にある丘陵(現在の熊本県山鹿市・菊池市)に築かれた朝鮮式山城です。

⑤ 金田城築城(667年)

金田城は、対馬国下県郡の城山(現在の長崎県対馬市美津島町黒瀬)に築かれた朝鮮式山城です。

朝鮮半島から進軍して来るであろう唐・新羅軍に対する最前線防衛拠点とされる城となりました。

(3)水城建設(664年)

水城(大水城・水城大堤)は、筑紫国・福岡平野の四大寺山(大城山)と牛頸地区にある台地との間を塞ぐ形で築かれた全長約1.2km×高さ9m×基底部の幅約80m・上部の幅約25mの二段構造の土塁と外濠をあわせもつ防塁です。

朝鮮半島から侵攻してくるであろう唐・新羅軍から大宰府を守るための防壁とするために築かれました。

その東西端には門(東門・西門)が設けられ、博多方面から2道が通過していました。

また、大水城の他に、その西方にも丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構が築かれ、これらは大水城と一連の構造物として大宰府防衛の役割を果たしており、「小水城(しょうみずき)」と総称されます。

この中心機構を山地の朝鮮式山城と平地の水城で防衛する構造は、百済の泗沘都城に倣ったものと考えられていることから、白村江の戦いに敗れて滅亡後に亡命してきた百済人の指導の下で構築されたと考えられます。

(4)防人の配備(664年)

以上のとおり整備された防衛設備ですが、これを運用する人がいなければ機能することはありません。

そこで、ヤマト政権では、公地公民制を原則とする律令国家制度に従い、労役の一環として国内から多くの農民を徴兵し、これを防人(さきもり)と呼んで北九州各地に配備しました。

政治都市へ都市機構が変化

軍事都市から政庁に変化(701年~)

前記のとおりの国防策の整備に加え、ヤマト政権側において、唐との関係改善を進めるために百済駐留中の唐軍のご機嫌伺いをするための遣唐使を派遣したこと、高句麗を滅ぼして朝鮮半島を制圧した唐と新羅がその支配を巡って争い始めたためその双方にいい顔をして時間を稼ぎその間に百済人を登用するなどして軍事力(北九州・瀬戸内・畿内の整備)・政治力(律令法に基づく中央集権化)を高めていったことなどから、唐・新羅軍による日本侵攻の危機が低下していきました。

そうすると、今度は、西海道各国の内政統治が急務となっていきます。

その理由としては、北九州地域は、同地域にて継体天皇22年(528年)11月に起こった磐井の乱に代表されるように元々ヤマト政権への服属意識が低い地域であった上、白村江の戦いの敗戦とその後の軍事的負担により疲弊していたことから、いつ反乱の機運が高まってもおかしくない状況であったからです。

そこで、大宰府の機能についても、それまでの防衛力重視の立場から内政重視の立場へとシフトしていくようになります。

統治機関としての政庁などの整備

大宰府に行政機関としての機能を持たせたいヤマト政権としては、人事や政庁・区画などを順に整備していきます。

(1)名称

まず、それまで専ら「筑紫大宰」と呼ばれていた機関名について、「大宰府」や「宰府」と表記を用いるようになります(唐名は都督府)。

(2)人事

次に、人事については、長官を大宰帥(唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」)と定め、任期は5年、最終的には従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官とされました。なお、長官名については、推古天皇時代は筑紫大宰、大化年間は筑紫大宰帥、天智天皇時代は筑紫率、天武~持統天皇時代は筑紫大宰、文武天皇時代は筑紫総領と呼ばれており、大宝律令施行後に大宰帥と呼ばれるようになっています。

もっとも、平安時代以降になると、大宰帥に親王が任命されて実際には赴任しないことが常態化し(遥任)、実際には次席である大宰権帥が実務を取り仕切るようになります。

(3)五畿七道の中で異質の扱いとされる

大宰府は、西国の国家機関として国防(防人司・主船司)・外交・貿易などを任せられると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)、その他3島(壱岐、対馬、多禰)の掾以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管しました。

また、大陸の脅威にさらされる西海道には、中央政府の命令なしに機動的に動ける必要性が求められますので、大宰府はある程度の中央からの独立性を与えられました。

具体的には、西海道各国では、行政・財政上の報告書(正税帳・調帳・朝集帳・大帳)について、中央の監査を受けることなく大宰府で監査され、上申書(府の解)を添えて中央に送られる扱いとなっていました。

また、他の諸道では国から直接都に送られるようになっていた調・庸も、西海道では一旦全て大宰府に納められ、その一部が京進される扱いとなっていました。

さらに、大宰府に、西海道各国の掾以下の国司および郡司の詮擬権(仮任命権)が認められるなど、他の諸道に比して強い独立性を保持していました。

他の五畿七道とは異なるこれらの特別な権限と都と同様の都城制・条坊制を備えた巨大な都市構造から、西海道統轄機関に過ぎないはずの大宰府は、「遠の朝廷」とも呼ばれました。

失脚貴族の左遷先となる

以上のように性格の異質性から強い権限を与えられた大宰府(及びその長官である大宰帥)でしたが、政治の中心である大和国や山城国からは遥か遠方に位置していることから、大宰府への赴任は中央貴族には嫌われます。

そのため、いつしか大宰府への赴任は、失脚貴族の左遷先扱いとなってしまいました。

左遷例としては、菅原道真や藤原伊周などがおり、大宰府転任を恨んだ藤原広嗣が反乱を起こす事態にまで発展したこともあります。

大宰府の構造

大宰府の構造や区画について正確なところは必ずしも明らかとなっていませんが、北端に位置する政庁を中心として、これを中心として時代の経過によって段階的に拡張していったものと考えられています。

もっとも、その後の西の都としての基礎は、大宝4年(704年)に遣唐使として唐に派遣されていた粟田真人が日本に戻ってきて、唐の都であった長安の発展ぶりや優れた政治制度をときの朝廷に報告したことに始まるとされています。

このとき、粟田真人から唐の都の構造について聞かされた朝廷は、当時の中央の都であった藤原京の構造をただすために平城京遷都を決断したのですが、それに加えて大宰府もこれに倣った都市構造とすることに決めます。

そこで、この後、大宰府の大改修工事が行われ、政庁中央から南へ伸びる中央大路が敷かれてその周囲に町が構築され(この時点での東西方向への伸展は乏しい)、10世紀頃に一区画8反基準とする条坊制が採用され、東西各12条(約2.6km)、南北23条(約2.4km)に亘る条坊域・面積約25万4000㎡という広大な都市が出来上がったものと考えられます(観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から)。

また、前記の条坊制に加え、大宰府の区域北端に政庁が置かれていることから都城制をも採用していたと評価され、条坊制・都城制を備えた一大都市となりました(日本史上最古とされる藤原京より古い時代の条坊制・都城制の都市である可能性が指摘されています。)。

そして、その中には、政庁・学校・蔵司・税司・薬司・匠司・修理器仗所・客館・兵馬所・主厨司・主船所・警固所・大野城司・貢上染物所・作紙・観世音寺・国分寺・国分尼寺などが設けられたとされています。

政庁地区

発掘調査の結果により、大宰府の政庁地区には異なる3つの時期の遺構が存在したことがわかっています。

第1期は、7世紀後半から8世紀初頭にかけてのものであり、律令制度に基づいて政庁が整えられた創生期のものと考えられる掘立柱建物群でした。

第2期は、8世紀初頭から10世紀中頃までのものであり、律令制度が確立し政府機関としての整備が図られていった時期のものと考えらえる朝堂院形式の礎石建ち瓦葺き建物群でした。この頃の政庁規模は、東西約111.6m・南北約188.4m(回廊規模は、東西約111.1m・南北約113.8m)であったと考えられています。

第3期は、10世紀中頃から12世紀頃までのものであり、律令制度が終焉を迎える時期のものと考えられる朝堂院形式の礎石建ち瓦葺き建物群です。在庁官人の増加により、第2期の政庁規模では足りなくなっていったためにその規模が拡張されていることにその特色があります。

(1)学校院

大宰府政庁と観世音寺の間に、官人養成機関である学校院が建てられていました。

学校院には、西海道中から学生が集められ、大宰府政庁で勤務するための基礎となる政治・算術・文章術などの役人としての基礎の学びの場となっていました。

なお、現在、観世音寺と大宰府政庁との間には学業という地名が残されており、かつての名残が偲ばれます。

観世音寺

観世音寺は、白村江の戦いの大本営とするために現在の福岡県朝倉市にあった朝倉橘広庭宮を造営し、同地で崩御された第37代斉明天皇を弔うため、その子である天智天皇を開基として大宰府政庁の約500m東側に創建された寺院です(続日本紀)。

その後、天平宝字5年(761年)に観世音寺に「戒壇院」が設けられ、僧に授戒をすることが許された3寺(天下の三戒壇:大和東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺)の1つとして西海道(九州)の仏教寺院の頂点となる大寺院となり、「府の大寺」とよばれるほどの隆盛を誇りました。

隣接地域

(1)国分寺

大宰府政庁の約2km西側には、筑前国国分寺が創建されました。

なお、筑前国分寺跡は、現在は、公園として整備されています。

また、大宰府政庁の周囲には複数の瓦窯があったのですが、国分寺の約250m東側には国分瓦窯があり、現在その跡が国分瓦窯跡として整備されています。

(2)鴻臚館

また、博多湾沿岸に海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館が配されました。

大宰府廃止

藤原純友の乱で焼失(941年)

10世紀中頃、藤原純友が中央政府に反発して瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、天慶4年(941年)5月上旬に大宰府を陥落させたのですが、その際大宰府政庁は全て焼失してしまいます。

その後、大宰府政庁が再建され、寛仁3年(1019年)に勃発した刀伊の入寇の際には、大宰権帥・藤原隆家が大宰府にて総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮し応戦・撃退しています。

政治的中心が博多へ移る

その後、平安時代後期になって私貿易である日宋貿易が発展してくると、西海道の政治的中心地は、内陸部の大宰府からより交通の便の良い沿岸部の博多へ移っていきます

この傾向は、保元3年(1158年)に平清盛が大宰大弐に就任(遙任)するとさらに顕著になります。

その結果、直接的な交易実益を失って大宰府権門は没落し、大宰権帥・大弐などの官職もまた有力国人の名誉職と化していって大宰府官人の土着化が進んで行きます。

統治機関としての大宰府の解体

また、律令制度に基づく朝廷による統治機関であった大宰府は、朝廷の力が減退してその政治力を武士に奪われていった鎌倉時代には、古代以来の政治・行政機関としての機能が失われ、解体・廃絶したと考えられています。

その結果、古代政庁以来の「大宰府」という名のみが九州北部の有力国人に利用され、嘉禄2年(1226年)には筑前・豊前・肥前守護兼鎮西奉行となった武藤資頼が大宰少弐に任じられ、以降、大宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗るようになります。

そして、鎌倉幕府の命により大宰府には宰府守護所が置かれたのですが、行政機関としての大宰府の機能は完全に失われてしまいました。

その後、九州(西海道)では、大名家により勢力争いが長年に亘って繰り広げられるようになり、その中で、大宰府の名残はほぼ失われてしまいました。

福岡藩による調査(1820年)

文政3年(1820年)、福岡藩によって大宰府跡地の調査が行われ、約350個の礎石の配置状況が丘陵や河川などの当時の地形と共に絵図(文政三庚辰年三月観世音寺村之内旧跡礎現改之図)に記され残されました。

その後、ほぼその遺構は埋もれてしまっていた。

そして、昭和43年(1968年)から学術調査が実施されるようになり、現在に至るまでの間に考古学見地から様々な発見がなされています。

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