【奈良奉行所】大和国に築かれた江戸幕府の繋ぎの城

奈良奉行所は、江戸幕府が地方の主要都市に設置した遠国奉行の1つであり、奈良廻り八カ村の行政・訴訟、大和国内の寺社支配を職掌とする役所です。奈良町御奉行・南都町奉行・南京奉行とも呼ばれます。

慶長18年(1613年)に中坊秀政が奈良奉行に任命されたのをはじめとして江戸末期まで42代に及ぶ奉行が任命されました。

有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていたため、その他の地域の奉行所と比べても異常なほどの巨大な要塞でした。

大和国の難治性

戦国大名の大和国侵攻

大和国は、京・と共に三都と呼ばれる商工業の発展した都市だったのですが、古くから武士の統治から外れた独自の強大な経済力・軍事力を有する宗教勢力によって支配されていました。

特に、東大寺・興福寺などの勢力は絶大であり、武士の立場からすると大和国は難治の国とも呼ばれていました。

もっとも、戦国時代末期になると、この大和国の利権を手にすべく、三好長慶松永久秀・織田信長などの様々な戦国大名が大和国に進出していきます。

徳川家康による大和国直轄化

その後、豊臣秀長の代官であった井上源五による支配期などを経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、豊臣家の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などを次々と直轄化する政策をとり始め、その一環として、同年9月に大和代官として大久保長安を派遣し、大和国の直轄統治を始めます。

奈良奉行所の設立

奈良奉行所設置(1613年)

慶長18年(1613年)4月25日に大久保長安が死去すると、同年8月29日、その後任として大和土豪であり興福寺被官として筒井家(筒井騒動により慶長13年/1608年6月に改易)に仕えていた中坊飛騨守秀政が登用されます。

大和国を直轄領として統治するためには、南都の強大な仏教勢力との折衝が不可欠となるのですが、その担当者として興福寺の衆徒である中坊秀政を採用しなければならなかったところに江戸幕府の苦労が垣間見えます。

中坊秀政登用に際し、幕府直轄領となった大和国(奈良)一国を統治するために奈良奉行(南都奉行)の職名が付されることとなり、またそのための庁舎と宿舎を兼ねる場所として奈良奉行所が置かれることとなりました。

そして、中坊秀政が奈良奉行となった当初は、現在の奈良市椿井町にあった中坊秀政の自宅を奉行所として運用されました。

奈良奉行所移転

もっとも、その後に中坊秀政の手により本格的な奈良奉行所の造営が進められることとなり、奈良奉行所は、中坊秀政の自宅から現在の奈良女子大学のある場所に移転されることとなりました。なお、中「坊」秀政の「屋敷」ごと奉行所が移転されたため、移転地の一部は、現在も奈良市「坊屋敷」町という地名となっています。

移転された奈良奉行所の敷地は、南北93.5間(約164m)・東西93間(約165m)・総面積は約8695坪(約2万8000㎡)もある日本一広い奉行所であり、またその周囲には幅11.5~17mの堀と土塁を巡らせ、それらに二重の土塀を配するなど強固な守りを持つ施設として建造とされました。

この大きさは他の奉行所と比べても際立って大きく二条城と同規模を誇り、大坂町奉行所が2960坪、堺奉行所が約5000坪・京都町奉行所が5327坪であったことなどと比べてみてもその巨大さがわかります。

このように巨大な奉行所が建てられた理由としては、この当時、江戸幕府直轄の城郭を持たなかった大和国の防衛拠点とするため、城に代わる防衛拠点(いわゆる繋ぎの城)として築かれたためにこのような巨大なものとなったと言われています(日本城郭大系においても城郭跡として紹介されています)。

奈良奉行所の本格始動

寛永15年(1638年)11月9日、中坊秀政の後を継いだ中坊時祐が奈良奉行となると、奈良奉行所の整備・拡充、春日大社の造営や神事の奉行、興福寺や東大寺の監視などが進められ、奉行所としての機構や機能が整備されていきます。

また、慶安3年(1650年)頃になると、与力6騎・同心30人・牢番1人が配置されるなどして、奉行所としての実体も強化されていきました。

大和国の統治機関となる(1664年)

寛文4年(1664年)4月4日、旗本であった土屋利次が奈良奉行に着任するに際して奈良代官所が新設され、これにより奈良奉行所は、大和一国の行政・裁判を取り扱うようになりました。

これにより、奈良奉行所は、設立から約半世紀を経て、奈良町の支配のみならず、興福寺、春日大社・東大寺・多武峯・吉野郡を除く、大和一国の寺社支配・大和の治安維持や所領間争議の裁決をするようになり、地方行政機関として確立していきました。

奈良奉行所の縄縄張り

明和4年(1767年)に描かれた御役所絵図によると、奈良奉行所は、東側に正門(長屋門)を設け、南東側に政庁建物が、北東側には奈良奉行とその家臣の住居・台所・武具蔵などの生活建物が配置されたとされています。

他方、西側は役所的機能をもたない庭園が配されました。

なお、同絵図、享和3年(1803年)作成の奈良女子大学所蔵の南都御役所絵、発掘調査結果などを踏まえた復元模型が奈良市立資料保存館に展示されていますので参考になります。

奈良奉行所内

(1)外曲輪

① 北門

② 南門

③ 正門前通路

奉行所の東側には、南北路と西側を突当路とする丁字通行路があり、これらの道は他の通行路と比べて広い道幅が設けられていました。

この道だけ広くされた理由としては、奈良奉行所に入る前に門前で行列を整えるために必要であったからとも言われています。

④ 与力屋敷

与力屋敷は、奉行所東側に設置された丁字通行路沿いに建てられた屋敷群です。

主に、奈良奉行所の与力屋敷として用いられていました。

なお、奉行所の東南向かいには、かつての旅籠として使用されていた建物(寺川道具店跡・2021年取り壊し)があったのですが、奉行所を除くことが出来ないようにするため同建物2階西側には窓が設けられていませんでした。

⑤ 外堀

⑥ 公事人溜り

(2)曲輪内

① 大手門(長屋門)

長屋門は、奉行所の入口にあった門です。

現在の奈良女子大学の正門がある位置に存在していました。

② 政庁建物群

奈良奉行所の政庁は、南東部にありました。

奈良奉行所は裁判所でもあり、長屋門を入った後、二度のクランクを経て白洲に引き出され、そこで奉行の裁きを受けるという形で裁判が行われていました。

なお、奈良奉行所で使用された建物は、そのほぼ全てが現在までに失われているのですが、唯一、牢舎(いわゆるギス監)のみが明治4年(1871年)に運用が開始された旧奈良監獄署(大正11年/1922年に奈良刑務所の名称変更、昭和21年/1946年に奈良少年刑務所の運用変更の後、平成29年/2017年3月31日廃庁)に行刑史料と移され残されています。

③ 生活関連建物群

④ 庭園部

奈良奉行所外

(1)牢屋敷

牢屋敷は、奈良奉行所運営開始当初は、初宮神社(南門南側)の近くにあったのですが、中坊時祐が奈良奉行であった時代(1638年~1663年)に奉行所北側である現在の奈良市北魚屋西町に移転されたと言われています。

(2)牢屋

(3)火葬場

(4)代官所(1664年~1737年)

代官所は、現在の西笹鉾町にあるマンションや天理教の塀が続いている一画に置かれていた、年貢の徴収や吉野地方の寺社に関わる裁判を行う機関です。

寛文4年(1664)4月4日に旗本であった土屋利次が奈良奉行に着任するにあたって新たに代官所が新設され、この代官所が大和国幕府領を支配することによって奉行と代官という二元支配が行われることとなり、奈良奉行所が大和一国の行政・裁判を取り仕切る幕府地方行政機関として確立するに至りました。

もっとも、奈良代官所は、元文2年(1737年)11月に代官であった山下藤十郎が死去したことを契機として廃止されて支配高10万石が周辺各藩や代官に預けられることとなり、その後、寛政7年(1795年)に大和国宇智郡・吉野郡、紀伊国伊都郡内8万石を支配する代官にその一部が引き継がれています。

なお、代官所跡には、明治時代に監獄所が置かれたのですが、明治41年(1908年)に監獄所が旧奈良監獄に移転したため空き地となります。

そして、昭和16年(1941年)にその跡地に県警察学校が置かれ、昭和42年(1967年)まで使用されました。

その後、警察学校として使われていた本館や道場が保存され、現在は天理教会として利用されています。

(5)明教館(奈良奉行所学問所)

明教館は、天保3年(1832年)、国学者でもあった当時の奈良奉行であった梶野良材により現在の奈良女子大学北東角の交差点の西北角に設立された奈良奉行所学問所です。

初代教授は儒学者であった滝世脩であり、当初の受講生は、与力・同心の子弟が主体でした。

もっとも、弘化3年(1846)に奈良奉行に就任した川路聖莫が、その門戸を広げ、市中の寺子屋に命じて子弟を集めて講義を行うなどしたため、奉行所与力・同心の子弟のみならず、広く奈良全域の教学の中心地になっていきました。

明治時代になって奈良奉行所が廃止されると、新しい学制のもと、明治5年(1872年)に現在の鼓阪小学校の前身として再スタートしています。

奈良奉行所廃止

奈良奉行所廃止(1868年)

明治元年(1868年)、奈良奉行所は廃止されて興福寺による町政がなされた後、大和鎮台(後の大和国鎮撫総督府)が設置され行政区画が奈良府となります。

跡地に奈良女子大学設立(1908年)

明治41年(1908年)、奈良奉行所跡地に奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)が設立され、現在に至ります。

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