野崎城(のざきじょう)は、大阪府大東市にあった日本の城です。
超マイナーで歴史マニアでもほとんど名があがることのない城です。
もっとも、実は小楠公・楠木正行が散った四条畷の戦いの舞台となり、最初の天下人三好長慶の本拠地の出城となった城でもありますので、もう少し取り上げられてもいい城だと思います。
本稿では、そんな歴史に埋もれた野崎城について簡単に説明していきます。
【目次(タップ可)】
野崎城築城
野崎城の立地
野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山にある標高114.4mの飯盛山南西の尾根を削平して築かれた山城です。
野崎城の北には東西に延びる清滝街道が、すぐ西側には南北に延びる東高野街道が、少し南側には東西に延びる奈良街道がある陸上交通の要衝に位置しており、野崎城はこのうち特に東高野街道を牛耳るために築かれました。
今でこそ平地の奥にあるようなイメージですが、上図のとおり、かつては、眼前に深野池(ふこのいけ)が広がっていましたので、最も尾根が突き出ている野崎城の位置が、西側の深野池とで東高野街道を挟み込む上で、治政的に最も都合がよかったのです。
記録上の初見
野崎城の記録上の初見は、正平3年(1348年)1月5日の四条畷の戦いの際、北朝軍の縣(あがた)下野守が、ここに陣を置き、南朝軍の楠木正行と対峙したというものです。
もっとも、このときの野崎城は、恒久的な城であったのかどうかは不明で、戦時体制の下で臨時に建てられた陣城であった可能性が高いと考えられています。
野崎城築城
正確な記録が残されていないため、恒久的な城として野崎城がいつ築城されたか正確にはわかりません。
確実なのは、戦国期の記録(尋尊大僧正記や後法典院記など)に野崎城の名が出てくる15世紀中頃の室町期で、この頃には恒久的な城として存在していたことはわかっています。
その後、河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城を畠山義豊が攻めたという記録がありますが、野崎城の詳細な歴史についてはよくわかっていません。
また、さらに後には、河内国守護代として河内国北半分を治めたの遊佐氏が拠点の若江城の支城として、野崎城を位置付けたようです。
飯盛山城の出城となる
東高野街道を牛耳る上で重要拠点となっていた野崎城ですが、その規模が小さかったために防衛力が不安視されました。
そこで、河内国守護・畠山義堯臣下である守護代・木沢長政が、天文年間(1528〜32年頃?)に北側の飯盛山に飯盛山城を築いて東高野街道の備えとすると、野崎城は、三箇城と共に飯盛山城の出城(支城)となったと考えられています。
野崎城の縄張り等
曲輪配置
野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山にある標高114.4mの飯盛山南西の尾根削平して築かれ、尾根の頂上部に本曲輪を設けてその東側を10m以上の堀切を配して守り、西側を尾根の斜面に沿って設けられた4つの曲輪で守る構造となっています。
城址は、現在公園化されていますが、城の名残りとして高い位置にあるため、足が悪い方には厳しい場所かもしれません。
西曲輪(北側)
西曲輪(中央)
西曲輪の中央部は、西側から登ってきた際に最初に現れる曲輪です。
現在では、階段を登ってきた先に位置しますので、休憩所が設置されています。
また、この曲輪には、永仁2年(1294年)に建てられた74字の金石文を基礎に刻する高さ3m30cm・花崗岩製の北河内最古の層塔があります。
西曲輪(南側)
本曲輪西側出曲輪
本曲輪
本曲輪が3段階層となっており、頂上に城址碑と案内板が設置されています。
頂上部(上段)は、現在広場となっています。
ここからは、平野部が一望できました(当時は、面前に東高野街道が走り、その先には深野池が広がっていました。)。
本曲輪中段には、休憩所が設置されており、眺めを堪能できる造りとなっています。
なお、中段と山頂(上段)でも相当の高低差があり、見上げるとこんな感じになります。
道が切られていること、S字となっていることから、ここが虎口となっていたことが推定されますね(右側のものは当時のものでしょうか?)。
本曲輪東側堀切(空堀)
その他
以上の他にも、多数の削平地が見られますが、これらが野崎城の曲輪だったのか否かについてはわかりませんでした。
野崎城廃城(1576年)
三好長慶死後に発生した、三好家の内紛で三好三人衆に敗れた松永久秀と当主である三好義継が織田信長の軍門に下ります。
その後、三好三人衆も織田信長に駆逐され、飯盛山城とその支城も織田信長の手に落ち、畠山秋高に与えられたのです。
もっとも。後に遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害されると、これに怒った織田信長が、天正3年(1575年)、遊佐信教の籠る高屋城や飯盛山城を含むその周囲の諸城を攻撃してこれを攻略します(第1次高屋城の戦い)。
そして、河内国を平定した織田信長は、天正4年(1576年)、河内国内の諸城の破却を命じたため、飯盛山城もこのときに廃城となりました。
正確な文献は残っていませんが、このときに本城である飯盛山城と共に支城である野崎城も廃城となったと考えられています。