阿野時元(あのときもと)は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男・嫡男として生まれた源氏武士です。
サラブレッドとして将来を嘱望されながら、父・阿野全成が第2代鎌倉殿に対する謀反を疑われて粛清されたことに連座して阿野荘への隠棲を命じらた後、約16年後に挙兵して討ち取られたと言われています(もっとも、この阿野時元の挙兵には諸説あり、その真偽は不明です。)。
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阿野時元の出自
出生(生誕日不明)
阿野時元は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男として生まれます。尊卑分脈によると、阿野隆元(あのたかもと)とも呼ばれていたようですが、本稿では阿野時元で統一します。
阿野時元の生誕日は不明であり、父の阿野全成と母の阿波局が出会った治承4年(1180年)から阿野全成が粛清された建仁3年(1203年)6月23日のいずれの日であるかとしかわかっていません。
阿野時元には、阿野頼保(よりやす)、阿野頼高(よりたか)、僧籍に入った播磨房頼全(らいぜん)という3人の兄がいたのですが、母である阿波局が北条時政の娘(北条政子・北条義時の姉妹)という高い血筋であったために阿野家の嫡男とされました。
父・阿野全成粛清(1203年6月23日)
建久3年(1192年)、阿野時元の母である阿波局が源頼朝の次男・千幡(後の源実朝)の乳母となったため、父である阿野全成が源実朝の乳母夫兼養育係となります。
この後、鎌倉幕府内での御家人間の勢力争いが勃発し、鎌倉幕府内で源頼家の後ろ盾である比企能員と源実朝の後ろ盾である北条時政の対立としていったのですが、阿野全成は、当然妻の実家である北条家に加担しており、北条時政と共に、源頼家を廃して源実朝を擁立するための画策を行います。
この北条時政・阿野全成らの動きに危険を感じた源頼家は、北条時政の力を削ぐため、建仁3年(1203年)5月19日子の刻(深夜0時頃)、武田信光に命じて阿野全成を謀反人として捕縛して御所に閉じ込めた後、同年5月25日に阿野全成を常陸国に配流します。
そして、阿野全成は、建仁3年(1203年)6月23日、源頼家の命によって常陸国を治める八田知家により誅殺されます。
阿野荘にて隠棲
父である阿野全成が粛清されたということは、通常、その嫡男である阿野時元も連座して殺害されるのが一般的です。
もっとも、阿野時元は、謀反人とされた阿野全成の子である一方で、御家人最大の力を持つ北条家の人間でもありますので、外祖父・北条時政や伯母・北条政子の計らいにより助命されることとなりました。
そして、阿野時元は、亡くなった父・阿野全成からその遺領である駿河国の阿野荘を相続し、そこに移って隠棲しすることとなります。
阿野時元挙兵(1219年2月)
源実朝暗殺(1219年1月27日)
建保7年(1219年)1月、阿野荘で隠棲を続ける阿野時元の下に、鶴岡八幡宮において第3代鎌倉殿であった源実朝が源頼家の次男・公暁に暗殺されたとの報が届きます。
この報を聞いた阿野時元は、鎌倉殿が暗殺されるという大事件により鎌倉幕府内が大混乱に陥っていることから、この混乱に乗じて鎌倉に復帰できるかもしれないと考えます。
もしかすると、謀反人の子として隠棲されられているとは言え、阿野時元は源頼朝の弟の嫡男であり、血筋として申し分ない阿野時元としては、暗殺された源実朝には実子が無くまた継嗣も定まっていなかったため、第4代鎌倉殿になれるかもしれないと考えた可能性まであります。
また、同年2月2日、源実朝暗殺の報は、加藤次景廉によって京にも伝えられ、軍兵が群れ集まる事態に発展して京が騒然となったのですが、「禁制」を出して素早く京を鎮静化した後鳥羽上皇に何らかの調略を受けた可能性があります。
阿野時元挙兵
欲が出た阿野時元は、建保7年(1219年)、御家人として復権するために鎌倉を目指す兵を募ります。
真偽は不明ですが、このときの阿野時元は、朝廷から鎌倉殿就任の宣旨を与えられて鎌倉幕府を乗っ取ってしまう正当性を有しているとも噂されていました。
もっとも、源氏の血を引くと言っても源頼朝の嫡流ではないこと、謀反人の子であること、既に鎌倉が北条義時に牛耳られていたことなどから北条時元に味方する勢力は少なく、北条時元の下に兵が集まらなかったため進軍は捗りません。
阿野時元の最期
阿野時元の最期(1219年2月11日)
他方、鎌倉においても、源実朝の次である第4代鎌倉殿の選定が急がれたのですが、御家人から信奉を集めやすい源氏一門から鎌倉殿を選ぶと北条一門による独裁が脅かされる可能性があります。
そこで、北条義時・北条政子は、飾りの鎌倉殿を京から迎え、それと並行して源氏将軍の可能性を潰すために源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清していくこととします。
阿野時元も、この一環として粛清対象となります。
阿野時元が、兵を募っていたこともいい口実となりました。
北条義時は、建保7年(1219年)2月3日、金窪行親に兵を預けて鎌倉を出発させ、同年2月6日から阿野時元を攻撃させます。
そして、同年2月11日、ついに阿野時元を討ち取ってしまいます(承久記では自害とされています。)。
その後、阿野時元は、静岡県沼津市の大泉寺に葬られ、現在も父・阿野全成と並んで祀られていますので、興味がある方は是非。
なお、吾妻鏡では、北条時元が謀反を企てために粛清されたと記していますが、実際のところは、鎌倉幕府に標的とされて決起したものの及ばず敗れたと考えられるのではないかと思われます。
補足(後日談)
阿野全成・阿野時元と2代に亘って鎌倉幕府により誅殺された阿野家でしたが、阿野家が滅亡した訳ではありません。
阿野全成の娘(阿野時元の姉妹)が京の貴族であった藤原公佐に嫁ぎ、その間に生まれた藤原実直が中御門姓または阿野姓を称したため、阿野家は京の貴族として残ったからです。
そして、後に、この阿野家から阿野廉子が生まれ、その阿野廉子を側室として寵愛した後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすに至っています。