【淀城】東海道を東進する西国大名を迎え討つための徳川譜代大名の城

淀城(よどじょう)は、江戸時代初期、木幡伏見城廃城後に手薄となった京の守りとして山城国久世郡淀(現・京都府京都市伏見区淀本町)に築かれた城です。

京街道という陸運のみならず、淀川水運の要衝地であった淀の地に、桂川・宇治川・木津川を天然の堀として守る近代城郭として完成し、戊辰戦争の際に時代を動かす一大事件の舞台となった城として有名です。

残念ながら、現在は本丸石垣と堀の一部が残るのみで、遺構のほとんどが失われていますが、本稿ではありし日の淀城について解説していきたいと思います。

淀城築城

淀の立地

淀の地は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる標高10m前後の氾濫原にあり、古代から物資を京に運ぶための荷上地として商業的に栄えた湊町でした。

なお、淀という地名は、奈良時代に山陰道が河川を横切る地点に置かれた与等津【よどつ】を語源とするとも、三川が頻繁に氾濫して同地で滞留し水が澱むことからその名がふされたとも言われますが、正確なところは不明です。

また、軍事的な意味では、北西側の天王山と南東側の男山に囲まれた狭隘地となっていたために、南側(河内国・摂津国・大和国方面)から京に入るための要衝地でもあり、戦国期までは東西に亘る勝竜寺城・淀古城・槇島城の三城をもって京の南側の守りを担っていました。

淀古城廃城(1595年)

前記のとおり、戦国期以前にも淀に城が築かれていたのですが、それは、現在の場所の約500m北側に城が築かれた別の城でした(本稿にいう淀城と区別するためにかつての淀城を淀古城とも言い、豊臣秀吉の側室であった淀君の居城として有名です。)。

この淀古城は、豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際(秀次事件)、淀古城の城主であった木村重茲が連座して処罰されたことに伴い、文禄4年(1595年)年、廃城とされました。

また、室町幕府が滅亡する際に起こった戦い(槇島城の戦い)によって槇島城も廃城となっていましたので、淀古城廃城後の京の南西側の防衛は、伏見城が担うこととなりました。

また、このとき、豊臣秀吉は、大坂・京・伏見・大和郡山を中枢とする首都圏構想を持っていたために、淀や槇島から交通・防衛機能を伏見に集約させたのです。

淀城築城の必要性(1619年)

もっとも、江戸幕府が、元和5年(1619年)に豊臣秀吉の影響力を排する意味もあって木幡山伏見城を廃城としたため、西国大名への備えとなる京(山城国)の防衛力が低下します。

そこで、江戸幕府としては、東海道五十七次を東進してくるかもしれない西国大名を食い止めるための防衛力を高める必要が生じ、伏見城に代わる新たな城が求められ選ばれたのが、かつて城(淀古城)が置かれていた淀の地だったのです。

淀城築城開始(1623年)

江戸幕府2代将軍・徳川秀忠は、新城の選地として桂川・宇治川・木津川の三川が合流する中洲を選び、同地に松平越中守定綱を初代淀藩主として所領3万5000石で淀への入封を命じ、江戸幕府の援助によって新たに河村右衛門の屋敷跡に新城の築城を命じます(淀下津町記録)。

淀に入った松平定綱は、元和9年(1623年)8月、新城の築城に着工します。

なお、築城に際しては、大坂城の縄張りを参考として、堀や門の取り付けについては当時の貿易国であったオランダ人によってヨーロッパの築城技術が採り入れています。

淀城完成(1625年)

淀城の築城については、廃城となった伏見城の資材を転用し、また二条城の天守を移築しつつ行われ、寛永2年(1625年)に完成します。

新たに完成した淀城は、山城国唯一の大名家の居城として徳川譜代大名によって治められ、かつての淀古城との対比で淀新城とも呼ばれるようになりました。

淀城の縄張り

淀城の縄張りは、本丸とそれに繋がる北側に二の丸、その北東部の三の丸を、西側に西の丸を内曲輪とし、東側に配置された馬出曲輪で内曲輪を守る構造となっています。

そして、そのその外に外曲輪を配置して町屋や侍屋敷を配置して城下町を構成し、それぞれの曲輪を桂川・宇治川・木津川を天然の堀として囲んだ上でこれを堀や土塀で固める総構え構造となっています(なお、三川の合流地点は、当時【城の東側】と現在【城の西側】とでは位置が違いますので注意が必要です。)。

そのため、淀城の城郭構造は梯郭式平城と言えます。

なお、現在の位置関係と合わせると、上のような感じです。

外曲輪(城下町)

淀城の主要曲輪は内曲輪を構成する本丸・二の丸・三の丸・西の丸であり、これを防衛するために京街道側に馬出しとなる東曲輪が設けられています。

そして、この東曲輪の周りを沿うように京街道が巡らされて城下町となり(淀宿)、これが淀城の外曲輪となっています。

淀城城下町(外曲輪)は、淀城完成に際して三川の中洲にある湿地帯を干拓して設けられた新興町であり、当初は、京街道沿いに池上町・下津町の2町の町屋区画(その他の外曲輪は侍屋敷)が開かれました。

その後、寛永14年(1637年)から同16年(1639年)にかけて行われた木津川付け替え工事によって京街道沿いの南側に新町が新たに開かれ、かつての池上町・下津町に新町をあわせて淀三町(城内三町)と呼ばれる町屋街となり、外曲輪の町屋以外の場所には侍屋敷が配置されました。

なお、外曲輪は、北側の納所地区とは淀小橋で、南西部の美豆地区とは淀大橋で繋げられています。

東曲輪(馬出曲輪)

東曲輪は、京街道をクランクさせるために内曲輪の東側に張り出すように設けられた曲輪です。

この東曲輪の京街道側に大手を設け、内曲輪側から京街道へは三方向に飛び出せるようになっているため内曲輪の馬出しとしての役目を果たす曲輪となっています。

内曲輪

(1)西の丸・三の丸

西の丸は本丸及び二の丸の西側に、三の丸はその東側に設けられた曲輪です。

東曲輪・外曲輪を突破して内曲輪になだれ込んでくる敵を最初に迎え撃つ曲輪なっています。

(2)二の丸

二の丸は、本丸のすぐ北にある本丸前の最終防衛ラインにある曲輪です。

二の丸には、藩主のための殿舎が設けられ、政庁及び藩主の居所として使用されました。

(3)本丸

本丸は、言わずと知れた淀城の最重要曲輪です。

本丸南東角に天守が設けられ、大手からの進入にも天守で対応できる構造となっています。

また、本丸には伏見城から殿舎の一部が移築されたとされていますが、本丸殿舎は徳川家光が上洛の際に宿泊したことがあったため、以後、淀藩主が本丸殿舎に住居を構えるのをはばかり、二の丸に殿舎を構えて使用したと言われています。

天守(非現存)

当初、伏見城の天守が移築される計画であり、本丸南東隅部に、伏見城天守の大きさに合せた穴蔵式の天守台を普請したのですが、計画変更によって急遽伏見城の天守は二条城に移され、その替わりに小ぶりな二条城の天守が淀城に移築されることとなったのです。

そして、実際、寛永元年(1624年)の二条城改修に際し、二条城天守(元々は、大和郡山城の天守)が、淀城に移築されました。なお、淀城天守の構造は、連立式五重五階地下一階の望楼型天守であり、二重の大入母屋屋根の上に三重櫓を乗せ、外壁は白漆喰総塗籠の壁であったと見られています。

もっとも、二条城天守は伏見城天守よりも小ぶりであったため、伏見城天守用に築いた天守台に二条城天守を乗せると余白ができてしまいます。

そこで、淀城では、天守台の余白を埋めるため、天守台の四隅に二重櫓を配し、その間を多聞櫓または多聞塀で連結することで問題を解決しました。

なお、この四隅にある櫓は姫路城からの移築であるという伝承から、「姫路櫓」と呼ばれていたのですが、その真偽は不明です。

その後、淀城天守は、宝暦6年(1756年)の落雷で消失したため、江戸幕府が淀藩に、天守再建目的で1万両を淀藩に貸し付けたようですが、結局、天守や本丸御殿の再建はなされませんでした。

余談(水車)

淀城は、周囲に二重三重の堀を張り巡らしていたのですが、二の丸の居間や西の丸の園池などに水を取り入れるため、城の北部と西南の二か所に、直径九間(約8m)もの大型水車を設けていました。

この水車は淀城の名物となっており、「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」とうたわれるほど有名でした。

また、明和元年(1763年)から翌年にかけて来日した第11次朝鮮通信使の一員(従事官の書記)であった金仁謙(キム・インギョム)は、その旅行記である著書「日東壮遊歌」において、大坂から京に向かう途中で見た淀の水車の巧妙さに感嘆し、母国でも見習って作りたいものだと記しています。

淀城廃城

歴代淀城主

寛永10年(1633年)に松平定綱が備中国へ移封された後で、永井尚政が10万石で入封し、城下町の拡張と侍屋敷の造営が行われます。

その後、寛文9年(1669年)に石川憲之、正徳元年(1711年)に戸田光熈、享保2年(1717年)に松平乗邑が6万石で入封した後、享保8年(1723年)5月に稲葉正知が下総国佐倉から淀に移り、以降稲葉家10万2000石の居城となり幕末を迎えます。

そして、淀城の名を一気に有名にしたのは、戊辰戦争時に、鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとした旧幕府軍を追い返し、官軍の勝利に一役買うことになったことなのですが、城の紹介ではありませんので、本稿ではエピソードの紹介にとどめます。

遺構の破壊

淀城は、明治維新に伴って明治3年(1871年)に廃城となり、その後、明治36年(1903年)までに宇治川が現在の流路に移されたことにより三川の合流地点が西に移動することによりかつては城の東側にあったはずの合流地点が現在の位置である城の西側に変更されました。なお、この宇治川の流路変更に伴って氾濫原の埋め立てが行われて出来た土地に、大正14年(1925年)、京都競馬場が建設され、現在に至っています。

また明治43年(1910年)の京阪電車開通による土木事業など、時代の変遷に従ってその遺構は徐々に破壊されていきました。

また、昭和8年(1933年)から昭和16年(1941年)にかけて行われた巨椋池の干拓工事によって淀頭部の地形が大きく変えられたため、淀城の遺構も、本丸の一部を除いてすべて破壊されました。

今日では、京阪電気鉄道の淀駅高架化事業に伴い淀城公園も再整備される計画があり、在りし日姿の復活が期待されています。

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