牧宗親(まきむねちか)は、鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の継室である牧の方の父または兄として有名な人物です。
もっとも、牧宗親自身のエピソードではなく、源頼朝の浮気をとがめた北条政子の命令に従って後妻打ち(うわなりうち)に協力したために、源頼朝から辱めを受けるという悲しいエピソードで名を知られることとなった御家人です。
本稿では、鎌倉殿の浮気に翻弄された御家人である牧宗親の生涯について見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
牧宗親の出自
出生
牧宗親は、藤原宗兼を父として生まれたとの説もありますが、正確には不明です。また生年もわかっていません。
別名を三郎といい、北条時政の継室である牧の方の父(愚管抄)または兄(吾妻鏡)と言われています。
平清盛の継母であり、源頼朝の助命嘆願をした池禅尼の兄弟の藤原宗親が、牧宗親のことであるという説もありますが、正確なところはわかっていません。
青年期
成長した牧宗親は、京で院の武者所に出仕する武士となります(愚管抄)。
また、牧氏が同氏を開発領主とする駿河国駿河郡大岡牧(現在の静岡県沼津市)を平清盛の異母弟である平頼盛(池禅尼の子)寄進した関係から、牧宗親は、平頼盛の下で、大岡牧の荘官を務めることとなりました(後白河法皇が大岡牧の本家、平頼盛が領家となりました。)。
なお、平治の乱の後、牧宗親の上司の母である池禅尼の命乞いによって源頼朝の命が助けられたという関係から、源頼朝は牧宗親に対しても一定の配慮を必要とする微妙な関係が出来上がります。
北条時政に接近(1182年ころ)
その後、源頼朝の挙兵に従って源頼朝と共に鎌倉に入った北条時政が、寿永元年(1182年)ころまでに、牧宗親の娘(または妹)である牧の方を継室として迎えたことから、牧宗親と北条時政とが急激に接近します。
なお、この後、大岡牧が一旦平家没官領に含まれたのですが程なく平頼盛に還付され、文治2年(1186年)6月2日に平頼盛が没した後は八条院領となり、同地の地頭は北条時政が務めることとなりました。
亀の前事件
源頼朝による亀の前寵愛
鎌倉に腰を据えて勢力を高めつつあった源頼朝は、寿永元年(1182年)の春頃、伊豆国での流人暮らしの頃から寵愛していた侍女の亀の前を鎌倉に呼び寄せ、再びこれを寵愛するようになりました(なお、亀の前は、柔和な性格で容貌すぐれてとされています、吾妻鏡)。
その後、源頼朝の正室である北条政子が妊娠中であった寿永元年(1182年)6月、源頼朝は、亀の前を小坪(逗子市)の中原光家の宅に呼び寄せ、その後、さらに亀の前を飯島(逗子市)の伏見冠者広綱の宅へ移して寵愛を続けました。
北条政子による後妻打(1182年11月10日)
ところが、北条政子は、寿永元年(1182年)8月12日に万寿(後の源頼家)を出産した後、継母である牧の方から、源頼朝が亀の前を寵愛して通い詰めていると聞かされ激怒します。
北条政子は、寿永元年(1182年)11月10日、牧宗親に命じて、亀の前を匿う伏見広綱宅を破壊する後妻打ち(うわなりうち)を行います。なお、この牧宗親による破壊行為に対し、亀の前は伏見広綱に連れられ、命からがら鐙摺の大多和義久の宅へ逃れました。
激怒した源頼朝が牧宗親の髻を切る(1182年11月12日)
ところが、今度は、愛妾・亀の前が貶められたことを聞いた源頼朝が激怒し、寿永元年(1182年)11月12日、遊興にことよせて鐙摺(亀の前が避難していた大多和義久邸)に出向き、牧宗親を呼び出します。
鎌倉殿の怒りに触れた牧宗親は顔を地にこすりつけて平伏したのですが、怒りの収まらない源頼朝は、「御台所の指示に従うことは当然だが、頼朝へ内々に相談もせずに狼藉を働いたことは不埒である」と言って牧宗親を叱責します。
そして、源頼朝は、自ら牧宗親の髻(武士の象徴ともいえる頭の上に集めてたばねた髪)を切るという辱めを与えます。
この結果、プライドを傷つけられた牧宗親は、涙を流しその場から逃亡したと言われています。
北条時政が抗議のために伊豆国へ帰る
ところが、今度は、妻の父(または兄)である牧宗親が、源頼朝に恥辱を与えられたことに激怒した北条時政が、源頼朝による牧宗親への所業に対する抗議として、北条義時を除くその他の北条一族を率いて鎌倉を発ち、伊豆国へ帰ってしまうという騒動に発展します。
なお、吾妻鏡の寿永2年(1183年)が欠文となっているため、寿永元年(1182年)12月10日に亀の前が小坪の中原光家の宅へ移され、同年12月16日に怒りが収まらない北条政子により伏見広綱が遠江国へ流罪とされたのを最後に、その後、この騒動や亀の前がどうなったのかは不明です。
その後の牧宗親
辱めを与えられた牧宗親でしたが、その後も、鎌倉幕府の御家人として、また北条時政の側近として活動し、鎌倉勝長寿院や建久6年(1195年)の東大寺大仏殿の落慶供養に随兵として列参しています。
また、建久3年(1192年)には自宅が火災に遭い、箏を火中から取り戻すために左の髭を焼いてしまう災難に遭っていることもわかっていますが、その他、牧宗親が具体的にどのような立場にあり、どのような活動をしていたのかは具体的にはわかっていません。
後に起こった牧氏の変に対する関与の有無や、牧宗親の死亡時期も不明です。