中先代の乱(なかせんだいのらん)は、鎌倉幕府滅亡に際して死亡した第14代執権・北条高時の遺児である北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱です。
先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれています。
中先代の乱は、建武の新政の崩壊、南北朝時代の始まり、足利尊氏による室町幕府成立などのきっかけとなった極めて歴史的意義の大きな戦いです。
【目次(タップ可)】
中先代の乱に至る経緯
鎌倉幕府の滅亡
元弘3年(1333年)5月、挙兵した後醍醐天皇に同調した足利尊氏による六波羅探題攻略と、その後の新田義貞による鎌倉攻略によって、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡します。
このとき、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)をはじめとする北条一族の多くは自害ないし討ち死をしたのですが、北条高時の遺児・北条時行は、鎌倉から逃亡して信濃国に逃れ、諏訪神社の神官として諏訪を治める諏訪頼重に保護されます。
建武の新政(1333年7月)
鎌倉幕府滅亡後、これを打ち倒した後醍醐天皇を中心として建武政権が成立します。
150年ぶりに武士から政権を取り戻した後醍醐天皇は、平安時代中期に醍醐天皇・村上天皇により行われた天皇親政である「延喜・天暦の治」を理想として、それまでの武家体制の解体と、新秩序の構築を推し進めます(建武の新政)。
建武政権に対する北条家の不満
もっとも、実務を知らない後醍醐天皇が、自身の意思のみに基づいて行われた政治は、公家・武士・庶民の全てから不満が噴出します。
そして、建武2年(1335年)6月、貴族による政権転覆の陰謀が起こります。
鎌倉時代に関東申次を務めるなどして北条家と深い繋がりがあった公家の西園寺公宗らが、後醍醐政権の転覆を企て、京都に潜伏していた北条高時の弟である北条泰家(時興)を匿った上で、持明院統の後伏見法皇を擁立する形で全国に散らばる北条家残党に檄を飛ばしたのです。
この企ては、西園寺公宗の弟である西園寺公重の密告により明るみに出たため、同年7月、西園寺公宗らが後醍醐天皇に誅殺されることにより終息します。
もっとも、西園寺公宗が処刑されても、同人により焚き付けられて燃え上がった北条家残党による反乱の火は消えません。
誅殺の手を逃れた北条泰家が挙兵を呼びかけた結果、全国各地に散らばっていた北条残党が反建武政権勢力を取り込む形で蜂起します。
今度は、公家ではなく武士(北条家残党)の蜂起です。
中先代の乱
北条時行挙兵(1335年7月14日)
ここで、信濃に潜伏していた北条時行が、建武2年(1335年)7月14日、御内人であった諏訪頼重や滋野氏らに擁立され、北条泰家に呼応する形で挙兵します。北条時行からすると、一族復興と父の弔い合戦です。
また、北条時行の信濃挙兵に呼応して、北陸でも北条一族の名越時兼が挙兵します。
このときの鎌倉は、後醍醐天皇の皇子である成良親王を長とし、足利尊氏の弟・足利直義を執権としてこれを補佐していた鎌倉将軍府が置かれていたため、挙兵した北条時行は、諏訪を発ち、途中で足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破るなどして勢力を拡大しながら武蔵国に入った後、鎌倉将軍府の攻略を目指して鎌倉に向かって進軍していきます。
この動きに対し、京の建武政権では、反乱軍が北条時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったこと、反乱軍が木曽路から尾張国に抜けて京へと向かうと予想していたことなどから対応が後手に回り、何らの対応もしませんでした。
北条時行の快進撃
建武政権の無策を尻目に、勢いに乗る北条時行軍は、建武2年(1335年)7月20日頃、女影原(埼玉県日高市)で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護小山秀朝の軍を打ち破り、進軍を続けます。
また、北条時行軍は、井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から迎撃に来た足利直義軍をも打ち破ります。
敗れた足利直義は、北条時行軍の勢いを見て鎌倉を維持できないと判断し、同年7月22日、まだ幼い足利尊氏の嫡男・足利義詮、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を放棄する決断をします。
このとき、足利直義は、建武政権内で失脚し鎌倉で幽閉されていた後醍醐天皇の第三皇子である護良親王(前征夷大将軍)を、どさくさに紛れて殺害しています(同年7月23日)。
連れて逃げるには邪魔になるのですが、鎌倉に置いていくと北条時行に担がれ、対抗勢力の神輿になる可能性があったからです。
その後、同年7月24日、足利直義の去った鎌倉将軍府では、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて北条時行への最後の抵抗を試みたのですが佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死し壊滅します。
北条時行の鎌倉奪還(1335年7月25日)
鎌倉将軍府の残存勢力を掃討した北条時行は、建武2年(1335年)7月25日、満を辞して鎌倉入りしこれを占拠します。念願の旧領回復です。
その上で、北条時行は、逃げる足利直義を追って追撃隊を出し、駿河国手越河原で足利直義軍に追いつき、これを撃破しています。
敗れた足利直義は、さらに西に向かって逃げ、足利家の守護国であった三河国矢作まで到達します。
ここで、足利直義は、鎌倉将軍府壊滅の一部始終を伝える使者と成良親王を京に送り、反撃の体制を整えます。
足利尊氏出陣(1335年8月2日)
鎌倉将軍府陥落の事実を知らされた建武政権では、対応の協議がなされます。
このとき、足利尊氏が、後醍醐天皇に対して、武家政権設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請した上で、北条時行討伐の許可を求めます。
ところが、後醍醐天皇は、建武政権に不満を持つ武士勢力を取り込んでいる足利尊氏がこれ以上の権力を得ることを危惧したため、足利尊氏の要請を拒否します。
自身の要請を全て拒否された足利尊氏でしたが、放っておいては弟・足利直義の命が危ないと考え、建武2年(1335年)8月2日、後醍醐天皇の勅状を得ないまま北条時行討伐に向かうため京を立ちます。
足利尊氏のこの勝手な出陣に後醍醐天皇は焦ります。
一大勢力を持つ足利尊氏が後醍醐天皇の許しなく勝手な行為をしたばかりでなく、そのような行為をした足利尊氏に多くの武士が付き従ったからです。後醍醐天皇の面目丸つぶれです。
後醍醐天皇は、急ぎ、足利尊氏に征東将軍の号を与えてあたかも自分が足利尊氏に鎌倉討伐を命じたかのような体裁を整えました(もっとも、このことが、後醍醐天皇による足利尊氏に対する不信感を増幅させることとなります。)。
足利尊氏が足利直義と合流
京を出て鎌倉に向かって進んで行く足利尊氏は、途中、三河国矢作で体制を整えていた足利直義の軍勢と合流します。
そして、この後、足利尊氏・足利直義兄弟は、東に向かって進軍を開始します。
足利尊氏軍と北条時行軍の戦い
そして、足利尊氏軍は、建武2年(1335年)8月9日に遠江国橋本、同年8月12日に小夜の中山、同年8月14日に駿河国清見関・国衙、同年8月を17日に相模国箱根、同年8月18日に相模国相模川で北条時行軍を順次撃破して鎌倉に迫ります。
足利尊氏が鎌倉を奪還(1335年8月19日)
そして、建武2年(1335年)8月19日、足利尊氏が相模国辻堂で北条時行軍を打ち破り、北条時行が逃亡したことにより中先代の乱は終わります。
なお、このとき北条時行の庇護者であった諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害したのですが、諏訪頼重は、主君の北条時行を逃すため、共に自害することとなった43人の死体の全てから顔を剥ぎ取り、その中に北条時行がいないことがわからないように工作してから果てています。
中先代の乱の戦後
足利尊氏の建武政権からの離反
鎌倉に入った後足利尊氏は、目的であった攻略を果たしたにも関わらず、鎌倉に居座ったまま京に戻ろうとはしませんでした。
そればかりか、足利尊氏は、建武2年(1335年) 9月27日、北条時行討伐に功のあった武士たちに、新田義貞の領地を勝手に没収するなどして恩賞を与えるための袖判下文を発給し始めます。
恩賞を与えるのは建武政権・恩賞方に限るとの政治方針をとっていた後醍醐天皇は、足利尊氏が勝手に武士に恩賞を与えているのを聞いて激怒し、直ちに足利尊氏に対して京に戻って弁明するよう命じます。
これに対し、足利尊氏は、帰京を拒否し、新田義貞を討つとの名目を付けた上で建武政権軍と戦うための兵を集めます。
これらの行為を朝廷に対する反逆行為と見た建武政権は、足利尊氏を朝敵として討伐命令を発し、後醍醐天皇と足利尊氏との長い戦いが始まります。
中先代の乱後の北条時行
他方、鎌倉から逃れた北条時行は、各地に潜伏して逃亡生活を続け、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田軍や北畠顕家の軍などに属して足利方と戦います。
そして、正平7年/文和元年 (1352年)に足利方に捕縛され、翌正平8年(1353年)5月20日に鎌倉・龍口の処刑場において処刑されたとされています。