【新撰組の4つの屯所】幕末の人斬り集団・壬生狼本拠地の変遷

 

京に上った新撰組は、文久3年(1863年)2月から伏見奉行所に移る慶応3年(1867年)12月まで京を拠点として活動します。

この間、新撰組は、その屯所を2度変更しており、また最初の屯所が2つありましたので、新撰組には合計4つの屯所があったこととなります。

以下、この4つの新撰組屯所を順に説明します。

八木邸・前川邸(1863年3月〜1865年3月)

文久3年(1863年)3月4日に清河八郎に率いられて徳川家茂の護衛目的で江戸から京に上洛してきた浪士組のメンバーは、将軍に先行して京に到着し、壬生村の10箇所の宿が割り当てられます。

このとき、後の新撰組の主要メンバーとなる近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田左之助、藤堂平助・井上源三郎らと、芹沢鴨・新見錦・平間重助・野口健司・平山五郎ら計13人に八木源之丞邸が割り当てられ宿所とします。

ところが、京に到着したその日の夜、清河八郎が、将軍上洛の警護でなく尊王攘夷の先鋒を唱え始めて江戸に戻ること言い始めます。

これに対し、八木邸を宿所としていた13人は突如意見を変えた清河八郎と袂を分かち、京に残ることを決めます。

そして、ここに他の宿所の残留者が加わり、また現地で新たに隊員を採用して、有志計24人で壬生浪士組が結成されます。

壬生浪士組が24人もの大所帯となり、八木邸だけでは手狭になります。

そこで、壬生浪士組のうち、近藤勇をリーダーとする近藤派が、八木邸の道路を挟んだ東側向かいにある前川荘司邸に移ります。なお、このとき芹沢鴨をリーダーとする芹沢派は八木邸に残ったため、壬生浪士組は八木邸と前川邸に分宿することとなりました。

このとき近藤勇らが移った前川邸は、総坪数443坪の土地に273坪もの平家建建物(12間)が建つ大邸宅でした。古高俊太郎の拷問や、山南敬助の切腹が行われた建物でもあります。

その後、壬生浪士組は、文久3年(1863年) 8月、八月十八日の政変の警備に出動して働きを評価され、新たな隊名「新撰組(新選組)」を拝命します。

また、評価の高まりに伴い、新撰組への入隊者も増えていきました。

現在、八木邸は京都市有形文化財に指定されて内部公開がされており、同年9月に土方歳三らによって行われた芹沢鴨暗殺劇の際についた刀創などを見ることができます。

他方、前川邸は個人の居宅となっていますので非公開です。

元治元年(1864年)2月、京において徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者が団結し、朝廷(孝明天皇・二条斉敬・中川宮朝彦親王)を後ろ盾にして政治力を強めると(一会桑政権)、新撰組もその統制下に入って正式に見廻り担当エリアを割り当てられることとなり、それまでのあいまいな市中警邏担当者という立場から正式な幕府機関として認められていくようになりました。

西本願寺(1865年3月〜1867年6月)

壬生の八木邸・前川邸に分宿していた新撰組でしたが、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件で一躍脚光を浴びたこと幕府からの支援も厚くなったことなどから、隊士が急増し、一気に200人を超える大所帯となります。

そのため、壬生の八木邸・前川邸が手狭となった新撰組は、新たな屯所を探します。

ここで、新撰組は、蛤御門の変(禁門の変)の際に逃げ込んだ長州藩士を匿ったとして西本願寺本堂に火を放とうとしたときに、西本願寺門主が何でもするので本堂を焼かないで欲しいと言っていたことを思い出します。

新撰組は、何でもすると言った門主の言葉を基に、西本願寺に屯所移動の交渉を持ちかけます(実際は、武力に基づく強要です。)。

西本願寺側としては、悪名高い新撰組に居座られてはたまりませんので、贈り物や多額の金銭交付、島原での接待攻勢などを繰り返して何とか新撰組屯所とされるのを回避しようと試みたのですが、新撰組に押し切られます。

結果、新撰組は、西本願寺の北東部にあった集会所(しゅうえしょ)と太鼓楼に屯所を移転します。

なお、西本願寺・集会所は、全国の門徒が集う際のみに開放される600畳の建物で、明治6年(1873年)に兵庫県姫路市にある亀山本徳寺の本堂として移築されています。

また、太鼓楼は、時間を告げる太鼓を配した北東角にある時刻の報告や法要の合図のために打たれていた太鼓を備えていた重層の楼閣であり、現在も往時の姿を見ることができます(重要文化財)。

不動堂村(1867年3月〜1867年12月)

西本願寺に屯所を置いていた新撰組ですが、西本願寺に移転して以来、境内で大砲や小銃を連発する訓練や、死刑・切腹・捕縛者の連行、豚の飼育などの行為などを繰り返し行います。

西本願寺側としては、本来は仏の教えを広め、地域における教育・福祉・文化の拠点となるはずの境内で血生臭い行為が繰り返されることに我慢できませんでした。

困り果てた西本願寺は、土方歳三の指示下の吉村貫一郎と交渉の末、建築費・諸経費などの一切を西本願寺が負担することを条件として不動堂村(現在の京都市下京区松明町)に新撰組の使い勝手のいいよう設計された建物を新たに建築し、新撰組に移ってもらうこととしたのです。

新撰組としては、人の金で、自分達の思い通りの建物を建てて貰うという好条件に大満足し、慶応3年(1867年)6月15日、建物の完成を待って屯所を不動堂村に移します。

新屯所の広さは1万平方メートルあり、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋が配置され、大風呂は30人が一度に入れた程であり、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったそうです。

なお、新撰組が不動堂村に移ってすぐに大政奉還があり、さらに同年11月18日には元隊士である伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清劇(油小路事件)も行われました。

その後(伏見奉行所へ)

その後、慶応3年(1867年)12月9日、王政復古の大号令により徳川慶喜・松平容保らが京を去ると、それに従って新撰組も不動堂村の屯所を引き払って伏見奉行所へ転出することとなります。

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