【邪馬台国論争の本質】邪馬台国は天皇家の祖と言い得るのか?

邪馬台国はどこにあったのでしょうか?

古代日本史の最大のミステリーです。

江戸時代から散々議論されながら現在まで結論の出ない邪馬台国論争ですが、直接証拠がない上、間接証拠についてはそれぞれに齟齬があるため確定判断に至りません。

そのため、色々な説があり、邪馬台国のあった場所であると主張される地は50以上にも上っているのですが、現時点では邪馬台国がどこにあったのかは、わかっていません。

では、このような不確定な内容がなぜ大きな問題となるのでしょうか。

邪馬台国論争の本質

邪馬台国とは

魏志倭人伝の時代には日本列島内に約100ヵ国あったとされています。

そして、これらの国のうちの20〜30国が、その構成国のうちの1つである卑弥呼が治めていた国(奴国)を盟主として連合国を形成して名乗った名称が邪馬台国です。

こうしてできた邪馬台国は、当時の中国にあった魏の国(実際には、魏の国ではなく、その朝鮮半島出先機関であった帯方郡)に出向いて朝貢を申し出たことで魏志倭人伝(三国志第30巻・魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条)にその名が記録された結果、その存在が知られることとなりました。

邪馬台国が重要視される理由

もっとも、魏志倭人伝の記載の本質は、239年に倭国(邪馬台国)女王が、朝鮮半島にあった魏国の出先機関であった帯方郡に使者・難升米を遣わして挨拶をしたという程度の小さな話に過ぎず、歴史的には大した意味のない内容です。

では、なぜこの話が大きな問題とされているのでしょうか。

それは、このとき使者を遣わした邪馬台国というのが、現在の天皇家に繋がるヤマト政権と同一の可能性があるからです。

すなわち、仮に、邪馬台国=ヤマト政権とすると、魏志倭人伝がヤマト政権史上の最も古い記録としうるからです。

当時の日本にはまだ文字が存在していませんでしたので、日本側には同時代資料がなく、ヤマト政権の始まりを文献で明らかにすることは出来ないため、現時点では、前方後円墳の始まりとその伝播を考古学的に検討して推認するにとどまっています。

この点、考古学的にみると、当時のヤマト政権が纏向(現在の奈良県桜井市)にあったことはほぼ間違いありません。

そして、中国には、魏志倭人伝に倭国に邪馬台国があったとされ、その場所まで記載されているため、これと現在の天皇家の祖となるヤマト政権とが繋がる可能性が検討できるはずです。

そして、邪馬台国がヤマトに存在していれば邪馬台国=ヤマト政権となり、邪馬台国がヤマト以外に存在していれば邪馬台国≠ヤマト政権と考えられるということとなるがポイントです。

すなわち、現在の天皇家の祖が邪馬台国に繋がるのか否かを特定するため邪馬台国の場所が重要となる。これが邪馬台国論争の本質です。

魏志倭人伝に記された邪馬台国の場所

そこで、邪馬台国の場所を特定するため、魏志倭人伝に記された邪馬台国の場所を検討する必要があります。

(1)里数で記載されたルート

帯方郡から邪馬台国に向かうルートのうち、帯方郡→狗邪韓国→対馬国→壱岐国→末盧国→伊都国→奴国→不弥国のルートは里数で記されているため、その特定は比較的問題がなく、このルート最後の不弥国が現在の福岡県糟屋郡宇美町付近であることについては概ね間違いないと考えられています。

① 帯方郡→狗邪韓国:海岸に沿って水行7000余里

② 狗邪韓国→対馬国:一海をわたり1000余里

③ 対馬国→壱岐国:南に一海をわたり1000余里

④ 壱岐国→末盧国:一海をわたり1000余里

⑤ 末盧国→伊都国:東南に陸行して500里

⑥ 伊都国→奴国:東南行して100里

⑦ 奴国→不弥国:東行して100里

(2)方位と日数で記載されたルート

問題は、不弥国を出た後の不弥国→投馬国→邪馬台国のルートです。

このルートは、なぜか方角と日数で記載されているため、問題が生じることとなりました。

福岡県糟屋郡宇美町付近と考えられている不弥国から、文字通りに南に陸行で60日、船で30日行けば九州のはるか南海上(フィリピン沖)に出てしまうからです。

そこで、この不弥国→投馬国→邪馬台国のルートの解釈を巡って様々な見解が出され、いわゆる邪馬台国論争へと発展していったのです。

⑧ 不弥国→投馬国:南行して水行二十日

⑨ 投馬国→邪馬台国:南行して水行十日、陸行一月

歴史学からのアプローチ

以上のとおり、魏志倭人伝に記された邪馬台国は、明らかに事実と整合性のない誤った記載となっているのですが、その真偽を検討するため、なぜこのような記載となっているのかを検討する必要があります。

この点、魏志倭人伝の下となる三国志は歴史書であるところ、全ての歴史書は単なる事実の記録ではありません。

全ての歴史書は、明らかな目的をもって作成されています。

それは、そのときの為政者の正当性を基礎づけるためということです。

そのため、三国志(その中にある魏志倭人伝も同様)もまた、この目的で作成されました。

そこで、邪馬台国の場所の謎を紐解くために、まずは三国志(魏志倭人伝)の作成目的から検討していきます。

魏における曹真の活躍

魏志倭人伝は、三国志の中の魏書の中にありますので、まずは三国時代の魏の歴史的事情の検討から進める必要があります。

3世紀頃の魏では、曹操の甥である曹真と、司馬懿が大きな力を持って政治闘争を繰り広げていました。

この点、曹真は、蜀との国境紛争で名を挙げると共に、遥か西側にあったクシャーナ朝ペルシア(西側のササン朝ペルシアと交戦中であったため東側の魏と交戦するわけにいかなかった)を魏に朝貢させることに成功させる大成果を挙げていました。

この点、クシャーナ朝ペルシアは、魏から1万2000里という遠方にある1万戸を要する大帝国でしたので、これを朝貢させた曹真の政治力は大きくなったことは想像に難くありません。

このような大帝国が朝貢してきたため、魏ではその地位を高く評価して、クシャーナ朝ペルシア王は、魏に対して「親魏」大月氏王という特別に格の高い商号が与えました。

魏における司馬懿の対抗策

(1)司馬懿の策

他方、曹真の政敵であった司馬懿は、237年に遼東の地で自立し燕王を称した公孫淵を討伐して名を挙げると共に、公孫淵に朝貢していた邪馬台国を魏に朝貢させることに成功させました。

ここで問題となったのが、クシャーナ朝ペルシアと邪馬台国との比較です。

今になって見ると、邪馬台国はクシャーナ朝ペルシアと比べると近くて小さな国だったことがわかっているのですが、司馬懿としては、政敵・曹真によるクシャーナ朝ペルシア朝貢に匹敵する実績が必要となりますので、新たに朝貢することとなった邪馬台国の規模を大きく見せる必要に迫られたのです(なお、魏に邪馬台国の存在を知るものなどいようはずがありませんので、邪馬台国の内容を大きく盛ったとしても発覚する可能性はありません。)。

(2)司馬懿の説明

そこで、司馬懿は、魏王に対し、自身が朝貢させることに成功した邪馬台国が東の超大国であると説明します。

このときの説明内容について、魏志倭人伝の記載を基に当時の中国の世界観から説明します。

当時の中国の世界観としては、都・洛陽を中心とした半径5000里=一辺一万里四方(方万里)で囲まれた四角形を中華の範囲と考えていました。

そんな中華に対し、司馬懿は、邪馬台国が帯方郡の東南約1万2000里という位置にある一辺5000里の大きさを誇り、人口75万人(15万戸)を抱える超大国であると説明しました。

当然ですが、当時の日本列島の一部を治めていたに過ぎない邪馬台国がこのような規模であったはずがありませんが、魏王がそのような事実を知るはずがありません。

(3)魏王の誤認

以上の結果、邪馬台国は、西側のクシャーナ朝ペルシアと対をなす遠さと規模を誇る大国であると認識され、魏国の中で、邪馬台国が東側の大帝国として位置づけられたのです。

(4)魏志倭人伝の記載

そして、魏志倭人伝が含まれる「三国志」が、陳寿によって、西晋による中国統一後の280年以降に書かれた歴史書であることがさらに邪馬台国を過大評価します。

すなわち、三国志が書かれた西晋は、司馬懿の孫である司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年~316年)であり、必然的に司馬一族の業績を過大に記す必要があったのですが、邪馬台国を朝貢させた司馬懿の業績を高くするためには邪馬台国が大国であればあるほど、また遠方の国であればあるほど都合がよかったのです(遠方の国にするために、不弥国→投馬国→邪馬台国のルートを方角と日数で記載するという裏技を使ったのです。)。

また、魏志倭人伝は、全体約37万字のうち約2000字ものボリュームを割いて邪馬台国のことを記すこととなり、ほぼ一見に近い遥か遠方の小国の記載にしては不自然に多い分量の記載となっている上、その内容も最大盛られた記録となってしまいました。

その結果、邪馬台国の女王・卑弥呼には、クシャーナ朝ペルシア王と同等のは、「親魏」倭王という特別に格の高い商号が与えられたのです。魏に朝貢した国の中で「親魏・・王」の称号を与えられたのは、クシャーナ朝ペルシア王と邪馬台国女王卑弥呼しかいないという破格の待遇となったのです。

(5)結論

以上のとおり、邪馬台国は、司馬一族の業績を過大に評価するために魏志倭人伝に記された盛られた記録であり、最初から正確に記録しようなどという意図はありませんでした。

できる限り遠く、できる限り大きくなるように盛られた記録となったのです。

そして、このできる限り遠くするために事実を誤魔化す必要が生じたことから不弥国→投馬国→邪馬台国のルートについて方角と日にちという抽象的な記載がさられることとなったのです(このルートを里で記載すると嘘がバレてしまうため)。

そのため、元々正確に記載するつもりもなかった魏志倭人伝の記載内容を正確に読み解いて分析してみても邪馬台国がどこにあったのかについての答えが出てくることはありません。

歴史書の作成目的は、ときの為政者の正当性を基礎付けることであり、事実を正確に記すことではありません。

そのため、歴史書を読む際にはそのことを理解した上で読み進める必要があるのです。

つまり、邪馬台国の所在を文献により特定することは不可能ということです(以上の事実を踏まえた上での推認材料として使える程度の信用性しかありません。)。

考古学からのアプローチ

以上のとおり、確定的な文献がないことから、古くから考古学的分析での邪馬台国の所在地特定の議論が進められてきました。

この点、魏志倭人伝の時代に日本国内で最も大きな勢力を有していたのは、ヤマト政権が置かれていた纏向(現在の奈良県桜井市)です。

それは、纏向遺跡から巨大な王宮跡が見つかり、また当時の遺跡のうちで最も多くの搬入土器(外から持ち込まれた土器)が発掘されているからです。

巨大な王宮跡は、そこを治めていた権力者の力が大きかったことを意味し、搬入土器の多さは全国各地の豪族が纏向に役人を派遣していたことを意味するのです。

すなわち、纏向に巨大な権力機構があり、地方豪族がこれに従っていたことを意味します。

他方、この当時の日本国内(北部九州を含む)には纏向に匹敵する規模の都市遺跡はないため、この当時の最大勢力が纏向に本拠を置いていたヤマト政権であったことは間違いありません。

問題は、邪馬台国=ヤマト政権なのか、邪馬台国≠ヤマト政権なのかということです。

もっとも、この点については、邪馬台国とヤマト政権とを結びつける証拠もまた発見されていません。

邪馬台国論争解決の可能性

以上、色々述べてきましたが、いずれも決定的な証拠がないため、確定判断に至ることができません。

それが面白いところでもあり、またモヤモヤするところでもあります。

この問題を解決する可能性がただ1つだけ存在しています。

それは、魏の皇帝が卑弥呼に贈ったとされる「親魏倭王」の名が記された金印です。

この金印は卑弥呼しか持っていないはずですので、この金印が当時の地層から発見されれば邪馬台国論争が決着することとなるのです。

現在まで発見されていないものですので、今後発見される可能性は高くありませんが。

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