塩尻峠の戦いをご存知ですか。
塩尻峠の戦いは、上田原の戦いの大敗で信濃国衆の信頼を失って信濃侵攻作戦を中座させられた武田軍が、負けイメージを払拭して武田軍健在を印象付けて信濃侵攻作戦が再開できるようになった極めて重要な意味を有する一戦です。
以下、塩尻峠の戦いに至る経緯と、塩尻峠の戦いの経過について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
上田原の戦いの大敗北(1548年2月14日)
甲斐国一国を治める武田家当主となった武田信玄は、信濃国への侵攻を開始し、瞬く間に、信濃国の諏訪郡・伊那郡北部・佐久郡を征服し、小県郡に迫ります。
ここで武田信玄に立ちはだかったのが、葛尾城を本拠とし信濃国北部一帯(埴科郡、高井郡、小県郡、水内郡)を治める猛将・村上義清でした。
天文17年(1548年)2月14日、小県郡を狙う武田軍と防衛しようとする村上軍が激突し、武田軍は700人とも1200人とも言われる多数の兵と、重臣の板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らを失う大敗を喫します(上田原の戦い)。
上田原の戦いに破れた武田信玄は、上田原の地で20日以上も踏みとどまった後撤退を開始し、同年3月5日に信濃国諏訪郡の上原城に、同年3月26日甲斐国の躑躅ヶ崎館に帰り着きます。
武田信玄による信濃侵攻作戦の中断
武田軍は、上田原の戦いの敗北により小県郡への侵攻の足掛かりを失うのですが、それのみならずこの敗戦によって武田軍の信濃侵攻作戦自体の危機が訪れます。
武田軍の敗北の報が、武田軍の侵略・占領を受けていた信濃国内の国衆達を活気づけ、国衆達が次々と武田家に反旗を翻したからです。
武田軍の信濃国諏訪郡への支配力低下
天文17年(1548年)4月、上田原の戦いで武田の敗北を知った小笠原長時は、諏訪郡に対する武田家の支配力が衰えたと判断し、武田家から離反した藤沢頼親(小笠原長時の娘婿)、仁科盛能、村上義清らと示し合わせて諏訪下社へ侵攻を開始します。
諏訪郡代を務めていた板垣信方が上田原の戦いで敗死したため、以降は板垣信方の弟である室住虎登が引き継いでいたのですが、相次ぐ反乱に追われて諏訪郡の統治さえままならない状況に陥っており、十分な対応ができません。
また、小笠原長時は、同年7月1日、諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族矢島氏、花岡氏らに武田に反旗を翻させたため、諏訪下社近辺が大混乱に落ち入り、武田家による諏訪郡支配が危うくなります。
小笠原長時は、この反乱に乗じて諏訪郡へと勢力を拡大するため、本拠地である林城から5000人の兵を率いて諏訪郡に向かって進軍し、塩尻峠付近に布陣します。
武田軍の信濃国佐久郡への支配力低下
また、佐久郡にも武田家の危機が迫ります。
武田信玄が、全軍を撤退させて甲斐国の躑躅ヶ崎館へ戻ったため、天文17年(1548年)4月25日、村上義清が手薄となった信濃国佐久郡に侵攻を開始し、武田家の居城であった内山城を焼き払います。
そして、同年6月、村上義清は、田口城を攻略して田口長能を復帰させ、大井行頼と共同して旧領の佐久・岩尾城を回復するなど、その触手が伸びていきます。
塩尻峠の戦い
塩尻峠の戦い直前
諏訪郡・佐久郡の危機を知った武田信玄は、天文17年(1548年)7月11日、まずは諏訪郡に危機をもたらしている小笠原長時を諏訪郡から追い払うべく3000人の軍勢を率いて躑躅ヶ崎館を出発します。
このとき、武田信玄は、小笠原長時の油断を誘うためわざと行軍を遅くし、大井ヶ森(現在の北杜市長坂町)に同年7月18日まで滞在を続けます。
兵が数に勝る小笠原長時は、この武田軍のゆっくりとした行軍に、武田軍が軍備に手こずっているものと判断し完全に油断します。
ところが、天文17年(1548年)7月18日、武田信玄は、武田軍の行軍を一変させます。
武田信玄は、この日の夕刻、突然全軍を全速で北に向かって進軍させて上原城に入って軍を整えさせます。
そして、そのままその日の深夜にひそかに全軍を更に北に向かって進軍させ、夜陰に紛れて小笠原軍5000人の陣が敷かれた塩尻峠の近くまで進めて朝を待ちます。
塩尻峠の戦い(1548年7月19日)
そして、天文17年(1548年)7月19日早朝、武田信玄は、夜が明けるのを待って全軍に総攻撃の指示を出し、小笠原長時の陣を急襲します。
前日夕刻に大井ヶ森にいた武田軍が、翌日早朝に攻撃してくると思っていなかった小笠原軍は、軍勢の過半数はまだ就寝中であり、また起きている兵もそのほとんどが武具を解いている状態であったため、武田軍の奇襲を受けて大混乱に陥ります。
そして、小笠原軍は、総崩れとなって1000人ともいわれる戦死者を出す大敗北を喫し、小笠原長時も命からがら本拠地の林城に逃げ帰ります。
なお、この武田軍の勝利には、小笠原方であった三村長親、西牧信道らが武田軍に内応して背後から小笠原長時を襲い、また戦いの最中に小笠原家の一門衆である仁科盛明が戦後の恩賞条件として小笠原長時に下諏訪の領主になることを願い出たが拒否されたため戦わずして戦線を離脱したことも原因があったとも言われており、武田方の調略による勝利の要因もあったようです。
塩尻峠の戦い後
武田軍は、小笠原長時軍を壊滅させた勢いのまま、諏訪・西方衆を追撃して西方衆の家々に火をかけ、またそのまま小笠原長時の本拠地・林城付近まで押し寄せて周囲を焼き払った後、同年7月25日上原城に帰陣します。
そして、武田軍は、上原城で軍を整えるとすぐさま佐久郡に向かって進軍し、同年8月18日、先行する小山田信有軍が田口城を包囲します。
その後、武田信玄も出陣し、同年9月11日には前山城を攻めて田口長能を初め数百人を討ち取り、近辺13城を攻略します。なお、同年9月12日には5000人ほどの首をとり、無数の男女を生け捕ったとされています。
また、翌年には、武田軍が、佐久郡の桜井山城に入った後、平原城を占拠するなどして佐久郡の失地の回復も果たしています。
なお、塩尻峠の戦いで大敗した小笠原軍では、戦線離脱していた仁科盛明らが武田に寝返るなど戦力も衰退し、以後武田軍の進入を止めるだけの力を失って、徐々に侵食されていきます。
塩尻峠の戦いの意味
上田原の戦いの大敗によって信濃国衆の信頼を失って度重なる離反と、侵攻を受ける立場に甘んじるようになった武田信玄でしたが、この塩尻峠の戦いの大勝にてこの評価を一変させることとなりました。
塩尻峠の戦いは、上田原合戦の前の強い武田軍のイメージを信濃国衆に植え付けることに成功し、一旦は中座させられた武田軍の信濃侵攻作戦が再開できるようになった、武田信玄にとって極めて重要な意味を有する一戦です。