日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に始まり、翌明治28年(1895年)4月17日に終結するまでの間、日本と清国の間で行われた一連の戦争です。
朝鮮半島で起こった甲午農民戦争と奇貨として、日清両国が朝鮮半島に派兵し、朝鮮の事情を無視した両国が朝鮮半島の権益を巡って戦争に発展しました。
戦いを優位に進めた日本は、朝鮮半島の利権獲得のみならず、北京にまで攻め上ってこれを陥落させて清国を屈服させてしまおうという戦略目標を持ちながら日清戦争が進められていきました。
そして、日本が北京を陥落させるためには、兵站のための制海権の確保と、漢城から北京に向かう途中の各拠点の制圧が必須となるため、前者を帝国海軍が、後者を帝国陸軍が担うこと戦線が展開していきました。
本稿では、以上のとおり進んでいった日清戦争の戦線推移について、時系列に沿って簡単に説明していきたいと思います。
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日清戦争に至る経緯
朝鮮開国(1875年9月20日)
19世紀中頃までは、清国(中国)が宗主国として朝鮮を冊封体制下に置き、これを属国として扱っていました。
ところが、明治維新を経て近代化を進めていった日本が、朝鮮半島に対する野心を持ち、朝鮮を清国の支配下から独立させて自らの支配下に置こうと考え始めたため、日清間で朝鮮半島利権を巡る対立が顕在化していきます。
その後、日本は、明治8年(1875年)9月20日に起こった江華島事件を奇貨として朝鮮に圧力をかけ、朝鮮に対して、朝鮮を清国の冊封体制から離脱させる下地となる「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させた条約(日朝修好条規)を締結させることに成功します。
また、この不平等条約に基づいて朝鮮は開国を強いられることとなり、明治8年(1875年)に釜山、明治13年(1880年)に元山、明治16年(1883年)に仁川が続けて開港することとなりました。
開国後の朝鮮の混乱
以上のように、外圧により開国を迫られた朝鮮では、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と、改革に成功した朝鮮の近代化を目指す開化派とに世論が二分します(なお、開化派でも、崩壊の危機に瀕している清国支配から独立してなされるべきとする急進開化派と、清国との関係は維持しつつ改革を進めるべきとする穏健開化派がありました。)。
この点、守旧派は高宗実父の興宣大院君などが、急進開化派は金玉均や朴泳孝などの青年官僚が、穏健開化派は閔氏らがその中心となり、壬午事変(1882年)・甲申政変(1884年12月)など朝鮮国民の生活を無視した政争を繰り広げていきました。
そして、この朝鮮政府内の政争に清国や日本が関与したため、朝鮮政府は、朝鮮・清国・日本という三国の思惑が入り乱れた複雑な政治体制となってしまいました。
天津条約締結(1885年)
前記の甲申政変後の日清間の緊張関係を緩和するため、日清両国間で調整が続けられます。
その結果、日清間で、日清両国が朝鮮から即時に撤退し、以降朝鮮に対して軍事顧問は派遣しない、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知をするとの内容の天津条約が締結されました。
この条約により、軍事上は以後の朝鮮出兵が日清同等となったのですが、親清政権の誕生により朝鮮への政治的影響力は清国が優位に立っていました。
甲午農民戦争(1894年1月)
以上の状況下の明治27年(1894年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が、宗教結社の東学党の指導下で朝鮮全羅道において蜂起し(東学党の乱)、同年3月には大規模な農民反乱に拡大します(甲午農民戦争)。
この反乱に対し、同年5月30日に独力での鎮圧が困難であると判断した親清の閔氏政権が宗主国である清国の来援を求めたため、清国において朝鮮派兵の動きが始まります。
この動きを見た日本政府もまた、同年6月2日に朝鮮半島にいる日本人居留民保護を目的とし、天津条約に基づいて戦時編制の混成旅団8000人の派遣を閣議決定した上で、同年6月5日に参謀本部内に大本営を設置して形式上戦時体制に移行します。
そんな中、同年6月6日に清国が天津条約に基づいて日本に朝鮮出兵を通告したため、同年6月7日に日本もまた天津条約に基づいて清国に朝鮮出兵を通告します。
日清両軍が朝鮮半島上陸(1894年6月)
その後の明治27年(1894年)6月8日、葉志超総督率いる清国北洋陸軍2500人・山砲8門が朝鮮半島に上陸して牙山に集結します(その後、同年7月24日に約1300人増兵されて3880名に達しています。)。
他方、日本側では、同年6月10日に公使大鳥圭介が海軍陸戦隊・警察官430人を連れて首都漢城に入ります。
清国軍に続いて日本軍まで朝鮮半島に派兵してくると知った朝鮮政府は、このままでは朝鮮国内が清国と日本との戦場になる危険があると判断し、日清両国の武力介入を避ける目的で急いで東学党と和睦を行い、同年6月11日までに農民反乱を終結させ、軍隊の駐留の必要がなくなったとして日清両国に速やかな撤兵を求めました。
清国軍は、明治27年(1894年)6月12日にこの要請を無視して混成旅団8000人の兵を仁川に上陸させます。
もっとも、前日に朝鮮政府と東学農民軍が停戦していたために、派兵理由を失った清国軍は、漢城に入ることを控え、漢城南方に位置する牙山に布陣して動きませんでした。
他方、天津条約上の派兵理由を失った日本軍は、同年6月15日に日清共同による朝鮮内政改革案を清国側に提示したのですが、清国政府に拒絶されます(清国は日清両国の同時撤兵を提案)。
そこで、日本軍もまた同年6月16日に混成第九旅団の半数である4000人が仁川に上陸させた上で、朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないと主張して、安全保障のための内政改革の必要性を唱えて朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送るに至りました。
日清戦争開戦直前
漢城での日清両軍の対峙(1894年7月16日)
日本側は、明治27年(1894年)6月30日、8000名の部隊をソウル周辺に集結させます(前記先遣隊に加えて追加部隊も朝鮮半島に派遣されています)。
この状況に至り、イギリスが調停案を日清両国に提示したのですが、同年7月9日、清国がこれを拒否します。
また、このタイミングでこれ以上のロシアの介入もないとの報を受けた日本政府は、同年7月11日、清のイギリス調停案拒絶を非難するとともに、清国との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定します。
そして、同年7月14日に二度目の絶交書を清国側に送付したことから、同年7月16日には漢城近郊に布陣する約2500人の清国軍と一触即発の状態で対峙することになりました。
日英通商航海条約(1894年7月16日)
この点、日本政府は、明治維新直後から各国との不平等条約の改正交渉を至上命題としていたのですが、明治27年(1894年)7月16日、ロシア帝国の南下政策に対抗するために日本と結ぶ決断をしたイギリスが日本との間で不平等条約の一部改正(領事裁判権の撤廃・関税自主権の部分回復・最恵国待遇を相互のものとする)を認める決断をしたため、日英間で日英通商航海条約を締結されました。
この条約により、日英間の不平等条約改正がなされたのですが、同時に、イギリスが日清間の紛争に中立的立場をとる(イギリスは介入しない)ことが確認されました。
この結果、清国との紛争に至っても欧米列強からの批判を受けることがないと判断をした日本政府は、同年7月17日に清国との開戦を閣議決定し、同年7月20日に駐朝公使大鳥圭介が朝鮮政府に対して最後通牒を突きつけます(回答期限22日)。
清国攻撃の大義名分獲得(1894年7月23日)
最後通牒に定めた期間を過ぎた明治27年(1894年)7月23日、漢城付近に展開していた日本軍は、朝鮮王宮に侵入してこれを占拠して朝鮮国王・高宗を捕え、日本に協力的姿勢を示す大院君が新政府首班となることを無理矢理認めさせてしまいました。
この結果、大院君が朝鮮国政総裁に就任し、同年7月25日に、大院君が清国との宗藩関係解消を宣言して日本に牙山に駐留する清国軍掃討を依頼する形をとったため、日本が清国を攻撃する大義名分を獲得しました。
わかりやすく言うと、日本は、外形的には朝鮮に頼まれて清国と戦うという形を整えたのです。
その上で、日本は、この外形的事実を利用して朝鮮半島を北上していき、北京にまで攻め上ってこれを陥落させて清国を屈服させてしまおうと考えたのです(戦略目標)。
そのためには、制海権の確保と漢城→平壌→遼東半島の制圧が必須となるため、前者を帝国海軍が、後者を帝国陸軍が担うこととなり、この流れに沿って戦線が展開していきます。
日清戦争経過(朝鮮半島での戦い)
豊島沖海戦(1894年7月25日)
以上の経過を経て、清国と戦う大義名分を得た日本軍でしたが、朝鮮半島と陸続きである清国とは異なり、日本は朝鮮半島と海で隔てられているため、戦争のためには海上兵站ルートを確保する必要があります。
兵・食料・軍事物資なしに戦争ができるはずがないからです。
また、追加で送られてくるであろう清国の兵站を遮断する必要もあります。
そこで、日本の大本営は、明治19年(1894年)7月19日に帝国海軍連合艦隊を編成し、これに朝鮮半島西岸の制海権、及び仮根拠地の確保と清国の輸送船団・護衛艦隊の撃破を命じます。
前記命令を受けた連合艦隊は、同年7月23日に長崎を出港し、朝鮮半島西岸へ向かいます。
そして、同年7月25日午前6時半、牙山泊地沖合安眠島付近にいた連合艦隊第1遊撃隊が豊島方向に2隻の艦影(清国海軍巡洋艦の済遠及び砲艦の広乙)を発見します。
これらの清国艦は、清軍が布陣中の牙山に援軍の陸兵を運ぶ輸送船を援護していた軍艦でした。
牙山への援軍を許すとその後の陸戦が不利となるため、豊島沖で日本海軍第1遊撃隊の吉野・浪速・秋津洲が清国軍艦への攻撃を開始します。
その後、逃走を図る済遠に対し、これを防ごうとする日本軍艦による追撃が始まりました。
ところが、この追撃戦の最中で、追撃していた吉野と浪速が、清国軍艦である操江と英国商船旗を掲げる高陞号と遭遇します。
高陞号もまた清国兵約1100人を輸送するための船であったため、浪速艦長であった東郷平八郎が停船を命じて臨検を行った上で拿捕しようと交渉をします。
ところが、最終的に交渉が決裂したため、東郷平八郎は高陞号の拿捕を諦め、これを撃沈します(高陞号事件)。
そして、この後、日本軍艦は、英国人船員ら3人を救助し、また清国兵約50人を捕虜にした上で、済遠・広乙を損傷させ、操江を鹵獲して豊島沖海戦が終わります。
この戦いは、日本側が船舶の損傷も死傷者も皆無の状態で、清国軍の増援を阻止するという完全勝利でした。
他方、イギリス商船旗を掲揚していた高陞号が撃沈されたことによりイギリス国内で一旦は反日世論が沸騰したのですが、イギリス政府が日本寄りだった上に、東郷平八郎の措置が当時の国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わったため、イギリス国内の反日世論はすぐに沈静化しました。
成歓の戦い(1894年7月28日)
豊島沖海戦に敗れた清国軍側は、増援が失われたのみならず兵站ルートが遮断されてしまったため、牙山に駐留していた軍(同年7月24日に1300人の増援が到着して3880人の部隊となっていました)が孤立してしまいます。
これを好機と見た日本軍は、明治19年(1894年)7月28日、牙城に篭る清国兵を攻撃するため出陣し、夜半に日清の陸戦が始まります。
同年7月29日午前8時30分、日本混成第9旅団が、88人の死傷者を出しながらも成歓の敵陣地を制圧した後、さらに南進して清国軍主力がいる牙山に向かっていきました。
その後、日本軍は、同日午後3時頃に牙山に到達したのですが、成歓での敗戦を聞いた清軍が既に撤退してしまっていたため、容易に牙山を確保することに成功します。なお、牙山から撤退した清軍は北上して平壌の部隊に合流しています。
以上の結果、日本側は、陸戦でも清国駐留部隊を駆逐して漢城周辺を確保するという状況を作り上げることに成功し、日本優位の状況から日清戦争が始まることとなりました。
日清両国の相互宣戦布告(1894年8月1日)
そして、明治19年(1894年)8月1日に日清両国が互いに宣戦布告することにより、正式に日清戦争が始まることとなりました。
同年8月26日、日本と朝鮮との間に大日本大朝鮮両国盟約が締結され、朝鮮が日清戦争を朝鮮の独立のためのものとして日本の戦争遂行を支援することとされました。
また、日本側大本営が参謀本部内から宮中移動を経て、同年9月13日に広島に移転しています(広島大本営)。
この後、日本軍は漢城に、清国軍は平壌にそれぞれ兵力を集中させ、両軍が対峙する形となりました。
平壌城の戦い(1894年9月15日)
1万人もの清国軍が平壌に集められているという情報を得ていた日本軍では、平壌に集結している戦局を左右しかねない1万人の大部隊を排除する必要があると判断します。
そこで、明治19年(1894年)9月1日、第五師団と第三師団とで第一軍を編成し、漢城を出て平壌に向かうこととなりました。
その後、同年9月12日、第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将からの命により、先行して仁川に上陸した第一軍第五師団が第三師団の到着を待たずに平壌攻撃を始めることとなりました。
そして、同年9月15日に日本軍により平壌攻略戦が始まり、同日午後4時40分頃に平壌城に白旗が立って休戦後に清軍が退却することとなって平壌の戦いが日本軍の勝利で終わります。
黄海海戦(1894年9月17日)
平壌から清国軍を追い出した日本軍でしたが、まだまだ清国からの援軍が来る可能性がある状況下であったため、これを防ぐために艦隊決戦により清国の北洋艦隊を完全に撃滅してしまおうと考えていました。
これに対し、戦局が不利になりつつあった清国側では、持久戦を展開して西洋列強の介入を待ち、その圧力によって講和に持ち込みもうと考えていたため、日本側が希望する艦隊決戦の機会がなかなか訪れませんでした。
そんな中、明治19年(1894年)9月16日午前1時、清国北洋艦隊が、前日の平壌の戦いでの敗北を取り戻すべく合計4000人の兵を乗せた輸送船5隻を威海衛から出航させ、これを護衛するために北洋艦隊(軍艦14隻及び水雷艇4隻)もまた大連湾を出航します。
そして、この清国北洋艦隊が、同年9月17日午前10時過ぎに黄海で索敵行動を行っていた連合艦隊と遭遇します。
清国北洋艦隊を発見した日本の連合艦隊は、艦隊決戦の好機が訪れたと判断してすぐさま連合艦隊を終結させ、清国北洋艦隊撃滅に向かいました。
そして、同日午後0時50分頃、横陣をとって走行する北洋艦隊と、単縦陣をとって距離約6000mに迫った日本海軍艦隊(第一遊撃隊4隻、本隊6隻、他2隻)との間で近代的装甲艦での最初の戦いとなる海戦が始まりました。
そして、最終的には、日本側は2隻大破の損害を被ったのに対し(沈没なし)、清国側は5隻沈没・3隻大破・2隻擱座という大損害を受け、日本側の圧勝で終わりました。
黄海海戦に敗れて多くの軍艦を失った清国では、残存艦だけで黄海を航行することが不可能となったために残存艦を威海衛に留めることとします。
この結果、清国は、黄海の制海権を失うこととなりました。
日清戦争経過(清国攻略戦)
鴨緑江の戦い(1894年10月25日)
清国が黄海制海権を失ったことにより、日本側では海路から清国兵が朝鮮に運ばれて後方から攻撃を受けたり、また海上から攻撃を受けたりする危険がなくなります。
そこで、平壌を陥落させて朝鮮半島全域を制圧していた陸軍が、清国内に侵攻するための進軍を開始し、第一軍が陸路から鴨緑江渡河を、第二軍が海路から遼東半島上陸を目指します。
この点、陸路(第一軍ルート)にて朝鮮半島から清国に入るためには、両国の国境を流れる鴨緑江を渡河する必要があるところ、清国側では国境となる鴨緑江に沿って約3万0400人の兵と大砲90門を配置して防衛していました。
明治19年(1894年)10月25日、山縣有朋率いる日本陸軍第1軍が鴨緑江の渡河作戦を開始したのですが、当初は抵抗を続けていた清国兵が日本軍の猛勢に恐れをなして相次いで逃走したため、日本軍は鴨緑江の渡河に成功し、虎山周辺の抵抗拠点を占領した後、九連城を無血で制圧するに至りました。
この後、第三師団が鴨緑江下流に向かって、同年10月27日に大東溝を占領した上で、同年10月30日に兵站司令部を開設し、同年11月5日に補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領しています(同年11月11日に兵站支部を開設)。
旅順要塞攻略(1894年11月21日)
また、陸軍第一軍が鴨緑江を渡河するのとほぼ同じタイミングの明治19年(1894年)10月24日、陸軍第二軍第一師団先行隊が金州城の東約100kmに位置する花園口に上陸します。
要塞近くでの上陸であった上に、地形上の問題から上陸に時間を要することが予想されたため相当の損害が出ることが予想された上陸作戦ですが、なぜか清国からの抵抗がなかったため、第二軍の上陸作戦は問題なく成功に至りました。
その後、遼東半島に上陸した第二軍は、さらなる兵站基地を確保するべく西進を開始し、30km西側に位置する港を糧食・弾薬揚陸地として選定した上で遼東半島攻略戦を開始し、同年11月6日に第二軍第一師団にて金州城を攻略します。
そして、第二軍は、同年11月14日、西南50kmに位置する旅順要塞攻略を目指して金州城を出発します。
旅順要塞に到達した第二軍1万5000人は、同年11月21日、清国兵1万2000人が篭る旅順要塞への総攻撃を開始します。
近代要塞化していた旅順要塞に対する攻撃については困難が予想されたのですが、清国兵の3/4が新兵であるなど清国側の士気が低かったために抵抗が弱く、わずか1日で旅順要塞が陥落します。
威海衛攻略(1895年2月中旬)
旅順口を攻略して勢いづいた日本軍では、翌春予定していた直隷(北京近郊)決戦を前倒しようという意見が出て来ます。
この意見に対し、第2軍司令官大山巌や連合艦隊司令長官伊東祐亨から、抜海湾の凍結による兵站の困難さなどから極寒期における直隷決戦は現実的ではないとの反対意見が出されます。
そこで、旅順攻略後にそのまま北京に向かうのではなく、黄海の制海権を完全に確保するため、明治19年(1894年)12月14日、山東半島の清国海軍基地破壊と北洋艦隊撃滅を先行することとなりました。
そして、日本軍は、陸海軍共同で残存北洋艦隊艦艇が閉じこもる威海衛に向かい、明治21年(1895年)1月20日、4艦の砲撃援護の下で山東半島先端に海軍陸戦隊等が、栄城湾に歩兵第16連隊等が上陸を始めるなどして威海衛攻略戦が始まります。
その後、同年1月30日にわずか半日の戦いで威海衛湾の南岸要塞が陥落した後、同年2月2日の北岸要塞などの無血占領を経て、日本軍が湾の出入口にある劉公島・日島を包囲し、停泊中の北洋艦隊に迫ります。
劉公島・日島守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は抗戦を続けたのですが、日本海軍船からの艦砲射撃・水雷艇による魚雷攻撃・日本軍が占領した砲台からの砲撃などにより北洋艦隊の被害が大きくなったため、同年2月中旬に北洋艦隊が降伏し、陸海軍共同での山東作戦が成功して日本が黄海・渤海の制海権を完全掌握するに至りました。
そして、日本軍が黄海・渤海の制海権獲得と山東半島に橋頭堡を築いたのに対し、清国がこれに対抗しうる北洋艦隊を失ったということは、日本軍が清国首都である北京や、その玄関口となる天津などへの攻撃が可能となったことを意味しました。
実際、日本軍では、直隷(北京近郊)決戦が本格的に進められることとなり、同年3月16日には直隷決戦のために参謀総長小松宮彰仁親王陸軍大将が征清大総督に任じられています。
講和交渉(1895年3月20日~)
この結果、清国は、近代化された日本軍による首都攻撃の危機に晒されることとなって一気に戦意が喪失します。
そこで、清国は、明治21年(1895年)3月19日、李鴻章に講和交渉の全権を委ねて日本の門司に派遣して講和の申し入れを行うこととし、同年3月20日から下関において日本優位の状況下で日清両国での講和交渉が始まります。
台湾割譲要求
明治21年(1895年)3月20日から下関で始まった日清戦争講和交渉において、日本側が清国に対して台湾割譲の要求をしたのですが、これに対して李鴻章が台湾本土に上陸もしていない状態で割譲を求めるなどありえない話であると反論したため、日本側は急ぎ台湾方面作戦を展開させることになりました。
戦局を優位に進める日本側としては、急いで清国と講和をする必要性がないため、さらなる領土獲得を目指して台湾海峡上の海上交通の要衝である澎湖列島を占領する作戦を立案します。
その上で、同年3月23日、陸海軍共同での澎湖列島への上陸作戦が始まりました。
日清戦争終結
李鴻章狙撃(1895年3月24日)
戦局を有利に進めていたために清国に最大限の譲歩を認めさせる着地点を探していた日本側でしたが、急ぎ清国との講和を進めなければならなくなる事件が起こります。
下関の引接寺に滞在していた李鴻章が、明治21年(1895年)3月24日、伊藤博文・陸奥宗光と講和会議の交渉会場である春帆楼との間の道(現在の李鴻章道)を通行していた際に、小山豊太郎に狙撃されて負傷するという事件が起こったのです。
講和交渉責任者が狙撃されるという前代未聞の事件発生により、世界の同情が清国に集まってしまいます。
この結果、日清戦争は、世界的な注目を集めることとなり、欧米列強諸国介入の危険が出て来ました。
そこで、列強の介入により戦局がひっくり返ることを恐れた日本側は、条件を緩和しての講和交渉を急ぐこととします。
澎湖列島占領(1895年3月26日)
そこで、日本側では、既に始めていた澎湖列島への上陸作戦を急ぐこととし、海軍陸戦隊が砲台を占領するなどして明治21年(1895年)3月26日に澎湖列島を占領します(なお、澎湖列島上陸前から日本軍兵内でコレラが蔓延しており、陸軍の混成支隊6194人のうち1945人が発病し、1257人もの死亡者を出す被害が出ています。
日清休戦条約調印(1895年3月30日)
そして、明治21年(1895年)3月30日に3週間の即時休戦条約が締結されて戦争が中断し、この間に講和条約のすり合わせがなされることとなりました。
講和条約締結交渉(1895年4月1日~)
日本側は、明治21年(1895年)4月1日、負傷した李鴻章に代わって欽差全権大臣となった李経方参議に対し、清国が朝鮮が独立国であることを確認すること、遼東半島・台湾全島及びその付属諸島嶼・澎湖列島を日本に割与すること、賠償金として3億両を支払うこと、日本に列強並みの最恵国待遇を認めること、従来の各開市港場のほか北京・沙市・湘潭・重慶・梧州・蘇州・杭州の各市港を日本臣民の住居営業のために開くこと、奉天府と威海衛を担保占領地とすることなどの内容の講和条約案を提示し、同年4月8日までに回答するよう求めました。
下関条約調印(1895年4月17日)
その後、日清両国間で条項の調整が繰り返された後、明治21年(1895年)4月17日、清国が朝鮮の独立を確認すること、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲すること、賠償金として2億両を支払うこと、日本に列強並みの最恵国待遇を認めることなどを内容とする下関条約(日清講和条約)が調印され、日清戦争が終結するに至ります。