【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史

倭とは、中国に朝貢していた時期である古代日本の呼び方です。

奈良時代に入るまでの日本には記録を残す文化がなく、現存する最古の書物である古事記ですら和銅5年(712年)に完成したものですので「倭」の時代を日本の同時代資料から確認することはできません。

そのため、主に中国に残された歴史書により、「倭」と呼ばれた古代日本について振り返っていきたいと思います。

「倭」と呼ばれる前の日本

原始小国家発生

考古学的に見ると、元々日本列島は大陸と地続きとなっていた時期があり、その頃に朝鮮半島やカムチャッカ半島から移ってきた人類が日本列島に住み始めたと言われています。また、南方から海を渡って来た人もいたと言われています。

当初は石器、続けて土器を用い、狩猟・採集・漁業を就寝手段として生活していました。

もっとも、これらの時代に日本列島に住んでいた者は文字を有しておらず、詳しい生活態様等は不明です。

その後、紀元前6~5世紀ころになると、北九州で水稲耕作が始まり、また青銅器・鉄器の使用も始まりました。

この水稲耕作の始まりにより、日本列島における生活態様が一変します。

耕作により大量の食糧を獲得することが可能になると、富の蓄積と貧富の差が起こります。

その結果、人々の間に経済力を基にした階級が生れます。

また、人々は、更なる経済力を求めて結集することにより原始小国家が誕生し、さらにこれらがさらなる経済力(肥沃な土地)を求めて争い始めるようになりました。

中国・朝鮮半島との交流

そして、1世紀ころになると、原始小国家の長の墓と考えられる銅鏡・銅剣・銅鐸・ガラス製大勾玉などの多くの副葬品がおさめられた甕棺群が見受けられるようになります(福岡平野の須玖遺跡など)。

銅鏡は漢製、銅剣・銅鐸は朝鮮半島製と推定されるため、1世紀ころの日本には既に海を渡って中国や朝鮮半島との交流を持つ勢力がいたことがわかります。

中国に朝貢し「倭」と呼ばれる

古代日本の記録を有する中国では、中華こそが天下の中心であるという中華思想を持っており、その周辺国についてはこれを蔑んで卑しい文字を充てるのが一般的でした。

具体的には、中国の東西南北に位置する異民族をそれぞれ東夷・西戎・南蛮・北狄と総称して見下したり、周辺国に「匈奴」や「鮮卑」などといった卑しい名称を付したりしていました。

「倭」もその一環であり、邪馬台国に「邪」、その女王卑弥呼に「卑」という賤字を使っているのも同様の考えによります。

この「倭」という文字は、小さい・従順などの意味がある明らかに良くない意味を持つ言葉であり、中国が元々日本列島のみではなく、中国東南の地域およびその住人を指す言葉として用いていました。

その後、次第に「倭(俀)」が日本列島やそこに住む人々を指す言葉となっていきます。もっとも、日本列島の諸勢力が自らを指す名として使用し始めるに至った理由については明らかとなっておらず、国名を聞かれた使者が「私の国」・「我が国」と答えたのを聞いた中国人が、「わの国」と解釈し、この「わ」に「倭」の字をあてて倭国としたとの説も有力です。

いずれにせよ、古代中国の歴史書では日本のことを「倭(わ)」と記しているのですが、漢字を使用していなかった日本(倭)では、賤字が使われていることが理解できず、中国において使用されていた「倭」という字をそのまま使用したため、古代の日本で自他ともに「倭」の国という名称を使用するに至っていたのです。なお、隋書本紀では「倭」、志・伝では「俀」と記載されておりその表記は統一されていません。

そして、以降7世紀に至るまでの間、自他共に日本のことは倭または倭国、そこに住む者は倭人と称され続けました。

小国乱立期(1世紀ころ)

(1)漢書地理志の記載

歴史上、初めて「倭」の文字が表れるのは、1世紀ころに班固(32年~92年)により編纂された「漢書」地理志です。なお、この頃の日本に文字はありませんので、倭についての日本作成の文書は存在していません(620年に聖徳太子と蘇我馬子が共同編纂したとされる「国記」と呼ばれる書物が存在し、そこに倭国の歴史・地理・風土が記されていたとする説があるのですが、これらは645年に発生した乙巳の変の際に蘇我蝦夷の邸宅と共に焼失したと言われています。)。

具体的にいうと、漢書・地理志に記された、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時をもって来たり献見すと云う」という記載です。

これによると、1世紀ころには、現在の北朝鮮辺り(漢の植民地であった楽浪郡)から南東に進んだ海の先に倭人が、100を超える国を形成してその中で暮らしており、定期的に前漢王朝(の出先機関であった楽浪郡)へ朝貢していたことがわかります。

すなわち、1世紀頃の「倭」とは、西日本における小国分立時代の国々の総称であり、倭国という1つのまとまりのある国家というわけではありませんでした。

(2)後漢書東夷傳の記載

① 倭奴国の朝貢(57年)

また、後漢書東夷傳にも同様の「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」との記載があり、これによると、57年に、倭奴国が後漢(の都であった洛陽)に使節を送って朝貢し、これに対してときの皇帝であった光武帝が印綬を与えたとされています。

このとき光武帝によって授けられた金印は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものであると言われており、当該金印には「漢委奴國王」と刻印されています。

なお、中国の史書では、倭奴国は倭国の旧称と記して倭奴国=倭国と考えているのですが、他方、日本では、これを「わのなこく」(倭の奴国)と読んだり、「いとこく」(委奴国=伊都国)と読んだりする説があり、その見解に争いがあります。

魏志倭人伝にいう「奴国」は、福岡平野(現在の福岡市・春日市)にあった須玖岡本遺跡周辺がその比定地とされています。その理由は、同遺跡から紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が、また後漢書東夷傳に記載された「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より出土しているからです。

また、「伊都国」は、糸島平野(現在の糸島市)にあった三雲南小路遺跡(糸島市)がその比定地とされています。その理由は、同遺跡から紀元前1世紀の王墓が検出されているからです。

② 倭国王帥升の朝貢(107年)

さらに、後漢書東夷傳には「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」との記載もあり、これによると、107年に倭国王であった帥升が、生口160人を献じて後漢皇帝に請見を願っていることがわかります。

このときの後漢書の記載が、歴史上初めて「倭国」を記した文言であり、また同時に帥升が「倭国王」を初めて称した人物でもあります。

後漢書は、この遥か後に編纂された歴史書ではあるのですが、中国の歴史書に107年に「倭国」・「倭国王」と記されていることから、1~2世紀ころには倭人をある程度代表し、対外的に倭国王を名乗る勢力が形成されていたものと考えられています(なお、倭国内の豪族がそれぞれ勝手に倭国王を名乗っていた可能性も否定できませんが)。

倭国大乱

1世紀頃の倭国の領域は特定されていないのですが、100余りの小国に分かれて支配されており、その後、2世紀後半頃(弥生時代後期)にこれらの小国間で大きな内乱が起きたとされています(倭国大乱)。

その規模や期間(倭国王帥升朝貢があった107年の70~80年後に勃発?)については諸説あり、詳しいことは不明です。

いずれにせよ、数年間に及ぶ倭国内において小国同士の争いがあって倭国内が大混乱に陥ります。なお、この倭国大乱については、古事記や日本書紀に記されている出雲の国譲り神話・神武東征伝承に比定する説も説かれていますが、その真偽は不明です。

いずれにせよ、大乱によって疲弊した倭国は、戦いを終えるために卑弥呼と呼ばれる巫女を女王に据え、これを女王とする連合王国を形成することにより大乱を終わらせたとされています(そのため、この頃の倭は、邪馬台国を盟主とする連合政権であったことがわかります。)。

邪馬台国を盟主とする連合政権期

(1)女王・卑弥呼統治時代

盟主となった卑弥呼は、大衆の前に姿を見せることはなく、夫もおらず、その政治(鬼道に仕え、よく大衆を惑わし)は弟の補佐によって行われたとされています。

その後、卑弥呼は、239年に親魏倭王の封号を与えられています。

その後、247年、邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦しているのですが、その際、魏から詔書と黄幢を贈られています。

そして、247年ないし248年に卑弥呼は死去し、100余人とされる徇葬者の奴婢と共に直径100余歩の墓に葬られました。

(2)新女王・壱与による朝貢(266年)

卑弥呼の死により邪馬台国で男王が立てられたのですが、国内から不満が出て争いとなり1000人余りが殺し合う事態になります。

そこで、当時13歳であった卑弥呼の宗女・壱与(壹與・イヨ、または台与/臺與・とよ)、女王として立てるとようやく国が治まります。

その後、266年、壱与は、倭の大夫・率善中郎将の掖邪拘ら20人を随行させて張政等を帰還させ、その際に、男女の生口30人・白珠5000孔・青大句珠2枚・模様の異なるいろいろな錦20匹を中国に貢いでいます。

中国の史書では、このとき壱与が行った朝貢(晋書倭人伝)の記載の後、一旦、倭(日本)に関する記載が記録からなくなります。なお、梁書諸夷伝には、壱与の後に男王が立ち、並んで中国の爵命を受けたと記された記載はあるのですが年代が書かれておらず、詳細は不明です。

空白の150年(266年〜413年)

266年の邪馬台国の女王台与の朝貢(晋書倭人伝)の後、倭の五王(宋書)までの150年間は、中国の歴史書に倭の記載が残されていません。

また、当時の日本は、まだまだ文化が発展しておらず、国内で記録が残されることもありませんでした。

そのため、この期間は倭についての記録は一切存在せず、記録上では日本国内がどのような状況となっていたのかは全くわかりません。

そのため、この期間を「空白の150年」と呼んでいます。

記録は存在していないのですが、この150年の間に当時の日本では文化・生活が一変しています。

(1)前方後円墳築造(3世紀中頃~)

最初の一番大きな変更点は、それまで小国の集合体であった邪馬台国を盟主とする連合政権が失われ、3世紀中頃にヤマト政権という巨大国家が生まれていることです。

中国の記録がないため、邪馬台国がヤマト政権となったのか、邪馬台国とは別の国がヤマト政権として邪馬台国などを滅ぼしたのかなど、その詳細は全くわかっていません。

この期間の歴史を辿るためには、考古学的な分析に頼らざるを得ず(後に記された古事記・日本書紀に神武東征の記載がありますが真偽は明らかではありません。)、それを集めて行う推認も限定的なものとなってしまいます。

もっとも、できる限り詳細な分析を行うために考古学的観点からこの時期を振り返ると、3世紀後半ころから九州北部・瀬戸内海沿岸・近畿地方を中心として前方後円墳の築造が始まったことがわかります(ヤマトで始まり、西日本に普及していきました)。

なお、現在判明している最古の前方後円墳は、纏向遺跡内の箸墓古墳とされており、邪馬台国畿内説を唱える人はこれが卑弥呼の墓であると主張することが多いです。

(2)ヤマト政権誕生

この頃に西日本全体に前方後円墳が築造され始めたことは、この時期の西日本にそれまで見られなかった強力な政治的支配者が出現したことを示しています。

なぜそのようなことが言えるかというと、まず、前方後円墳はそれまでの円墳・方墳と比較してとてつもなく巨大であることから、この頃に強力な権力者が誕生したことがわかります。

次に、前方後円墳では、その形状が統一されていること、被葬者の埋葬場所が後円部であること、石室の形が同一であることなどから統一規格が用いられていることがわかり、そのことからそれが存在する範囲内が同一グループであったことがわかるからです。

すなわち、考古学的に見て3世紀中頃に西日本全域に巨大な前方後円墳が広く築かれたことが判明していることから、この頃に西日本全域に強力な権力者が率いる政権(統一政権なのか連合政権なのかは不明です)が樹立されたことが明らかとなるのです。

この強力な権力者が率いる政権の中心が大和地方(現在の奈良県桜井市・橿原市近辺)にあったところ、同地域が三輪山の麓に位置していたことから、ミワ「ヤマ」ノフモ「ト」という意味でヤマト政権と呼ばれるようになったと考えられています。

そして、これが古事記・日本書紀にも記載されているヤマト政権であると考えられているのです。

なお、かつては大和朝廷と呼ばれることが多かったのですが、大和が律令制度により定められた国名であってこの時点で「大和」と表記することは妥当でなく、また後に作り上げられた天皇を朝廷とする政治機構とは異なる政治形態であったことから「朝廷」も妥当ではないと考えられることから、大和朝廷ではなく「ヤマト政権」と表記することが多いと言えます。

(3)ヤマト政権による朝鮮半島出兵(4~5世紀頃)

前記のとおり、空白の150年間は中国の歴史書に倭の記載がない時期であり、4世紀~5世紀初め頃の倭国の状況を記した書物はないのですが、中国・朝鮮の歴史からこの頃の倭国の状況が推認することができます。

この頃は、中国では晋が滅んで五胡十六国時代に入り、朝鮮では北部の高句麗と南部の諸国(馬韓から百済が、辰韓から新羅が興っています)とが争いを続けるなど東アジア地域の戦乱期であったことはわかっています。

この流れにヤマト政権も便乗しており、ヤマト政権は、朝鮮半島南部の任那(かつての弁韓から興った国であり朝鮮側では伽耶といいます)地域を攻略して同地の鉄を独占し、これを利用して倭国内でのヤマト政権の巨大化と朝鮮半島への侵攻を狙っていました。

なお、このことは、ヤマト政権時代の遺跡からこの頃に朝鮮半島で製造された鉄鋌が出土していることからも明らかとなっています。

そして、この倭国による朝鮮半島侵攻の動きが、413年9月に建てられた高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた広開土王碑(現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑)に記されています。なお、中国に行って広開土王碑を見るのは大変という方向けに、碑の文字を拓本から起こしたレプリカが大阪府八尾市内にある大阪経済大学キャンパス内に置かれていますので興味がある方は是非。

広開土王碑の記載を要約すると以下の内容であり、一言でいうと、ヤマト政権軍は百済と結んで任那から朝鮮半島に上陸した後、新羅を下してさらに北進していったものの、南下してきた高句麗に撃退されたという内容です。

399年、百済が先年の誓いを破って倭と結んだため、高句麗王が百済を討つため平壌に出向いた。

このタイミングで倭人が新羅に侵入して新羅王を捕らえた。

新羅が高句麗の救援を求めてきたため、高句麗王はこれを救援することに決めた。

そこで、400年、高句麗が、5万の大軍を派遣して新羅に向かったところ、倭人は新羅王都から退却した。

高句麗軍は、逃げた倭人を追って任那・加羅に向かったのだが、この隙をついて安羅軍が新羅の王都を占領してしまった。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたが、高句麗軍はこれを討って大敗させた。

倭の五王の時代(413年〜)

(1)宋書倭国伝

その後、空白の150年を経て、再び中国の歴史書に倭国に関する記載が出始めます。

特に、宋書倭国伝にその記載が多く現れています。

宋書倭国伝とは、中国南朝国家であった宋の歴史について書かれた本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる歴史書であり、479年に宋が滅んだ後の間もない時期である513年に記されたものですので資料的価値が高いものとされています。

この宋書のうちの「夷蛮伝」に倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢がなされたと記されています(もっとも、「夷蛮伝」は早くに散逸し、10世紀になってから補われた可能性が指摘されています)。

(2)倭の五王の朝貢

① 讃の時代

倭に関する復活記載の最初は、413年になされた高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師(讃?)が、安帝へ行った朝貢でした(晋書安帝紀、太平御覧)。

その後、讃は、421年に宋に朝献して武帝からおそらく「安東将軍倭国王」叙授の詔を受け、その後、425年・430年にも貢物を献じています(宋書文帝紀)。

② 珍の時代

讃の死亡によってその弟であった珍が即位します。

珍は、438年に自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して宋に朝献し、正式の任命を求めたところ、「安東将軍倭国王」に叙されています(宋書夷蛮伝)。

なお、珍は、自らの部下13人についても平西・征虜・冠軍・輔国将軍に叙されることを求め、認められています(宋書夷蛮伝)。

③ 済の時代

443年、済が、宋・文帝に朝献し、「安東将軍倭国王」に叙されたとされています(宋書夷蛮伝)。なお、済が珍と別人であったなら、その前に珍が没して済が即位したことになるのですが、宋書にその旨の記載がないため事実関係は不明です。

また、済は、451年に宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され(宋書倭国伝)、同年7月には「安東大将軍」に進号し(宋書文帝紀)、460年には孝武帝に貢物を献じています(宋書孝武帝紀)。

④ 興の時代

済の死亡によってその子であった興が即位します。

興は、462年3月に孝武帝に貢物を献じ、「安東将軍倭国王」に叙されています(宋書孝武帝紀、夷蛮伝)。

⑤ 武(雄略天皇)の時代

興の死亡によってその弟であった武が即位します。

武は、477年11月、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して(宋書順帝紀)、遣使し貢物を献じます(宋書順帝紀)。

また、武は、478年に自らを「開府儀同三司」と称しめ周辺の国を征服したことを述べた上で叙正を求めたところ、順帝は、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任じたとされています(宋書順帝紀、夷蛮伝)。なお、宋で、百済がこの時点で宋に朝貢していた国であったため、百済の支配権を除いて認めています。

さらに、武は、479年には南斉王朝樹立に伴い、これに朝貢して「鎮東大将軍(征東将軍)」に進号され(南斉書東南夷伝)、また502年には梁王朝樹立に伴い、これに朝貢して「征東大将軍」に進号されています(梁書武帝紀)。

前記叙任の結果、武は、倭国と朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認されることとなったのです。なお、このときの記載が、倭王「武」と明記したもの初出ですが、これ以降、推古天皇時代に遣隋使が派遣されるまで中国への遣使が見られなくなります。

これらの叙任は、倭国王が、朝鮮南部の諸地域を支配する上で有用であっただけでなく、倭国内で諸豪族を統合するための権威としても機能しました。

なお、倭王武については、第21代雄略天皇であるとする説がほぼ定説化しています。

これは、471年といわれる辛亥年に造られた稲荷山古墳出土鉄剣銘文に「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」、江田船山古墳出土鉄刀銘文に雄略天皇の和風諡号「オオハツセワカタケル(大泊瀬幼武/大長谷若建)」と記載されていることによるものです。なお、稲荷山古墳では追葬の可能性があります。

このことから、倭王武=雄略天皇が考古学で存在が確認された最古の天皇であるとされています。

中国と距離を置き始める(6世紀頃)

他方、471年に造られた稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に獲加多支鹵大王と記されていることは、大王号が「宋の皇帝に官職を求める」という行為をよりどころに成立しているわけではないことを示しています(武が宋から倭国王を名乗ることを許されたのは478年)。

この頃の倭国では、雄略天皇(倭王武・ワカタケル大王)の指導の下、帝の権威をよりどころに朝鮮南部の軍事的支配権を確立した上で、朝鮮半島北部にある高句麗との対立を続けていた一方で、関東から九州にいたる地方豪族を次々と傘下におさめていきました。

また、百済からやって来た渡来人を積極的に登用し、先進技術を学んで政府組織を整えていきました。

この結果、ヤマト政権内に、中国皇帝の権威によらない独自の国家意識が芽生えるようになり、中華思想から離れた独自の古代国家が形成される端緒となっていきました。

中国に対等を求めて「日本」と名乗る

中国との対等外交の指向(6世紀末頃)

6世紀末頃の推古天皇即位頃になるとヤマト政権の勢力も大きなものとなり、対内的には冠位十二階や憲法十七条を定めて豪族を官僚化するなどして、大王の権威が高められていきました。

そこで、対内的な意味で諸豪族を統合するために中国皇帝の権威の必要性が薄れていきました。

また、対外的に見ても、当時のヤマト政権は、前哨基地として有していた任那や加羅(加耶)諸国の滅亡により朝鮮半島南部への影響力を失っており、中国皇帝の権威をもって朝鮮半島を支配するという政策目標も失われていました。

その結果、この頃になると、ヤマト政権にとって中国に朝貢する実益がなくなります。

他方で、中国との貿易は経済的利益獲得や新技術導入をもたらしますのでこれを失わせることは妥当ではありません。

そこで、ヤマト政権としては、それまでの中国に対する従属外交ではなく、中国との間の対等外交を指向するようになります。

他方、中国からしても、当時の王朝であった隋は朝鮮北部の高句麗と敵対していたことからヤマト政権を敵に回して高句麗と結ばれることを危惧し、それまでのようにヤマト政権に強圧的態度をとれなくなっている時期でもありました。

遣隋使派遣(607年)

このタイミングを利用し、推古天皇15年(607年)、ときの摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が、「日出処天子至書日没処天子無恙云々」と記載した国書を遣隋使の小野妹子に預け、隋の皇帝・煬帝に届けさせています(隋書倭国伝)。

これは、中国との対等外交を求めるヤマト政権として、天子は中国皇帝しか認めないとする中華思想を否認してヤマト政権にも天子が存在するという内容であり、中国に対する挑戦的内容ともいえる書面でした。

当然ですが、この国書を受け取った隋の煬帝は激怒します。

もっとも、前記のとおり、高句麗との敵対関係を考えると、これと結びつく可能性があるヤマト政権を邪険に扱うことはできませんでした。

そこで、煬帝は、直ちにヤマト政権に対して敵対行動を取ることはせず、一応、礼を尽くして答礼使として裴世清を派遣しています。

「和(ワ→ヤマト)」

漢字に対する理解がなかったために「倭」が蔑称であることを理解できていなかった日本人も、時間の経過とともに漢字についての理解を深めていった結果、自他共に地域名・国名として利用していた「倭」の字が相応しくないものであったことを理解します。

そこで、「倭」という字の代わりとして同音好字の「和」が併用されるようになり、次第これが主流となっていきました。

そして、この「和」の字に大の字が付されて「大和」と記されるようになり、これが、「やまと」と呼ばれるようになって「大和=やまと」が日本を意味する表記となっていきます(そのため、古事記や日本書紀では倭=日本=やまとと表記されています。)。

また、日本を支配する王権が存在した場所(現在の奈良県)もまた、大和国と呼ばれるようになりました。

なお、朝鮮半島に対する野心を捨てきれなかったヤマト政権は、663年に百済の復興を名目として侵攻した戦い(白村江の戦い)に敗れ、朝鮮半島から完全撤退をしています。

「日本(ヤマト→ニホン)」(8世紀頃)

大化の改新後によってそれまでの大王と呼ばれていたヤマト政権の長の称号として「天皇」が求められるようになり、あわせて国名についても「日本」という呼び方が始まります。

そして、7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了し、おそらく持統天皇により、この頃に国号が「倭・和(ヤマト)」から「日本(ヤマト)」へ改められます。

そして、大宝2年(702年)に30年ぶりに派遣された大宝の遣唐使が、国号として初めて対外的に「日本」を使用しました。

その後、日本(ヤマト)が音読されるようになって、日本(ニポン・ニフォン・ニッポン・ニホン)と呼ばれるようになり、現在へと至っていきました。

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