【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。

鎌倉仏教前の仏教

日本導入以前の仏教概略

仏教は、インドにおいて釈迦が修行によってたどり着いた考え方であり、端的にいえば六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を永遠に繰り返すことによる苦しみ続ける生物が、その輪廻から解脱(悟りを開く)することによって苦しみから免れるという考え方です。

この釈迦の教えは、元々は、あくまでも出家をして修業を繰り返しその結果として到達できる個々人の自力救済の境地をいい、他人の救済を目的とするものではありませんでした(原始仏教)。

また、釈迦の始めた原始仏教はその救済要件があまりにも厳しく、大衆の救済という意味では意味を持たないものでした。端的に言うと、原始仏教はレベルが高すぎてほとんど人が体得できない高度すぎるものだったのです。

そこで、この原始仏教の救済要件を緩和する必要に迫られ、原始仏教がその方法を一義的に明らかにしていなかった悟りを広く方法について、解釈を重ねて行くことにより広く伝播させようという動きが起こります(大乗仏教)。

その結果、時代を経るにつれて次々と新たな解釈が生まれていき、それらが新たな経典となって拡散し(法華経・阿弥陀経・華厳経・涅槃経・大日経・般若経など)、これらが日本にも到達するに至りました。

飛鳥時代時代(導入期)の仏教

大乗仏教として広く伝播可能となった仏教は、中国・朝鮮半島を経て、538年(日本書紀では552年)ころに百済から日本に伝わってきたといわれています。

通常の宗教は民間信仰が先に発生してそれに公的権力が関与するという流れになるはずなのですが、日本の仏教は、百済王から天皇に対して仏像が贈られると共に、信仰の提案を受けるとういう特殊な形態で伝来したのです(公伝)。

この百済王による仏教導入提案に対し、当時の大和朝廷の2大勢力であった蘇我氏と物部氏が、政権内の勢力争いをそのまま仏教導入論争に転嫁させ、蘇我氏は容認の姿勢を示し、他方、物部氏は拒絶の姿勢を示したために大問題となりました。

蘇我氏は、仏教により仏教の思想とあわせて大陸の進んだ文化を取り入れることができるので国が発展すると主張し(崇仏派)、他方、物部氏は、この国には元々八百万の神がおり、そこに異国の仏を入れると災いが起きると主張したのです(廃仏派)。

この仏教論争は両氏の戦いにまで発展し、最終的には、用明天皇2年(587年) 7月に勃発した合戦(衣摺の戦い・丁未の乱)により、拒絶派の物部氏が滅亡することにより決着します。

仏教容認派の蘇我氏側が勝利したことにより導入が決まった仏教ですが、導入当初はその理解が進んでおらず、氏族の祖先崇拝が中心の氏族繁栄という現世利益のためのものと考えられました(氏族仏教)。

そのため、朝廷では、僧尼令を定めて僧侶や尼を現世の律令制度上の官僚組織の一員に取り込み、民間への布教を禁止します。

また、朝廷の許しなく勝手に出家した者は私度僧として弾圧しました。

他方、そんな中でも、一部で仏教理論の学問的な経典研究が進められ、仏教思想を学んだ聖徳太子による法華.維摩.勝鬘という3経典の注釈書である三経義疏が記されるなど次第に理解が深められていきました。

そして、その後、皇室自ら寺を建てるようになり(天武天皇の大官大寺・持統天皇の薬師寺など)、仏教は国家鎮護の道具として発展していきました。

奈良時代の仏教

(1)国家仏教として保護・統制

① 朝廷による保護政策

奈良時代に入ると、渡来僧を通じて仏教理論の理解や受容が進み、朝廷は鎮護国家の立場から仏教勢力を積極的に保護していきます。

具体的には、仏教関係者には免税特権(寺田は不輸祖・僧尼は不課口)が与えられるなどの特別な保護が施されました。

この結果、仏教が国内に定着し、その関係者の勢力が巨大化していきます。なお、仏教と従来の日本の神々との整合性を図るため、神は仏が化身として現れた権現であるという考え(本地垂迹説)が起こるなどしています。

そして、国家的保護を受けた宗教勢力はどんどん力を強めていき、特に平城京内において成立した教理研究を進める南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗)が大きな力を持つようになっていきました。

② 朝廷による統制政策

もっとも、仏法が盛んになってくると僧尼の数も増加し、それに伴って戒律などを無視する者が増え始めます。

そこで、仏教の発展に伴い僧尼令(律令)や僧綱・度牒制度により僧尼資格の要件特定が進められます。

そして、僧侶となるためには、朝廷が定めた寺院で、受戒する必要があるとした上で、朝廷が定めた受戒要件を満たす必要があるとすることで人事権を握り、朝廷がこれを統制することにします。

なお、受戒制度を確立するために唐から高僧・鑑真が招かれ、その手によって東大寺に戒壇が設けられることとなりました(その後、鑑真は唐招提寺を建立し同寺に入っています。)。

以上のとおり、僧侶となるために朝廷の許しが必要となったのですが、これを嫌って戒壇を受けることなく私的に出家したり、行基などの庶民を救うため仏教の民間布教をはじめたりする者が現れ始めます。

もっとも、これらの動きに対しては、朝廷による弾圧が行われました。

(2)仏教の民間への浸透

前記のとおり、奈良時代の仏教は朝廷による保護・統制下で行われる国家仏教(エリート層専用の宗教)でした。

そのため、奈良時代中期に藤原広嗣の乱や飢饉・疫病の流行などによって社会不安が増大していった際、聖武天皇は生じた国家的危機を鎮めるため、鎮護国家思想に基づいて国分寺建立や大仏造立を行おうとしました。

もっとも、これらの事業は多額の資金・多くの労力を要する難事業であり、朝廷の負担のみで成し遂げることは極めて困難でした。

そこで、朝廷では、民間の労働力や資本協力を得るため、市政で名声の高い行基の取り込みを図ります。

そして、朝廷は、行基に対し、それまで行っていた弾圧を取りやめ、そればかりか行基を律令制度上の最高位である大僧正に任命した上で、東大寺大仏造立の実質上の責任者とし、地方豪族や民衆の参加を促してこれらの難事業を成功へと導くことに成功します。

他方、これらの朝廷の施策により、僅かな規模ではあるものの、それまで一部のエリートのためのものであった仏教が一部の庶民層にも浸透していく結果となりました。

平安時代の仏教

(1)朝廷と奈良仏教勢力との決別

国家宗教として、うまく仏教を使いこなしていた朝廷でしたが、巨大化していった奈良仏教寺院群が政治と結びついて腐敗し、政治に介入してくるようになります。

そこで、延暦3年(784年)、ときの天皇であった桓武天皇は、奈良仏教勢力との政治的決別を図るため、奈良仏教勢力が居座る平城京を廃して山背国の長岡に遷都を行います。

その後、長岡京で造営責任者の死亡・天然痘流行・二度の大洪水などの不幸が相次いだため、建設中の長岡京は放棄され、延暦13年(794年)に山城国(このとき山背国と言っていたのを山城国に変更しています。)に再遷都がなされました。

桓武天皇は、平城京内での仏教勢力の強大化の反省を生かし、この平安京遷都に際し、例外的としての東寺と西寺を除き平安京内に寺を造らせることを許さず、政教分離がなされました。

(2)密教の導入

平安京に遷都直後、決別した奈良仏教とは異なる仏教を学ぶため、最澄や空海などが留学僧となって中国に渡り、そこで学んだ新たな仏教を日本に持ち帰ります。

このとき持ち替えられた仏教は、当時中国で流行していた加持祈祷によって現世利益をはかる修行中心の仏教(密教)であり、日本に戻った最澄はそれまでどおり比叡山を本拠として延暦寺(天台宗)、空海は嵯峨天皇から高野山を貰い受けて金剛峯寺(真言宗)という政府から独立した山林修行を基礎とする仏教教団を形成します。

これらの平安時代に興った仏教教団は、それまでのような国家的宗教ではなく、朝廷から独立した自主的勢力として成立したことにその特色があります。

そして、このときに空海により持ち帰られた密教は、現世利益や来世での往生を願う皇族や公家に大流行します。なお、最澄も唐で密教を学びましたが時間の関係で完全に習得するには至らなかったため、最澄の教えは顕教(密教以前の仏教の意味)と言われます。

(3)寺院が教育の場となる

中国から戻った最澄や空海の下には、全国各地からその教えを学び、仏の道を極めようとする僧が続々と集まってきます。

その結果、最澄の教団である比叡山延暦寺、空海の教団である高野山金剛峯寺などがこれらを受け入れて巨大化していきます。

そして、これらの巨大化した教団で学んだ僧が、その結果を全国各地にもたらしていきます。

なお、鎌倉時代に鎌倉新仏教を開いた高僧達も、比叡山でこの教えを学び、独自の宗派に取り入れた者達でした。

末法思想(1052年)

仏教では、釈迦入滅後には時間の経過とともに正しい教法が衰滅すると考えられており、正法(釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代)→像法(教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代)→末法(人も世も最悪となり悟りを開く人がいなくなる時代)に至ると考えられていました(末法思想)。

そして、日本では、正法と像法とがそれぞれ1000年間と考えられていたため、釈迦入滅の2001年後である永承7年(1052年)に末法が到来すると考えられていました。

そして、このころに続いた天災・人災により、人々の不安が深まって終末論的思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的思想として捉えられるようになります。

浄土教

この末法到来時期は、藤原摂関政治の全盛期にあたるところ、仏教の役割も現世での救済から来世での救済に変わっていき、極楽浄土の有り様を思い浮かべながら念仏を唱えるという浄土教と観想念仏が流行します。

そして、極楽往生を願う貴族により、観想念仏を再現するため、極楽浄土を模した寺(藤原道長の法成寺、藤原頼通の平等院など)が建立されていきました。

これにより、従来の顕密仏教とは異なる仏教の受け皿が現れることとなりました。

顕密仏教の世俗化

(1)仏教寺院の巨大化

さらに時代が進んで平安時代末期に入って社会不安が増大すると、国内で流行しまた多くの著名人を輩出していく寺院の力にあやかろうとする貴族達が、巨大寺院に金銭を寄付したり土地を寄進したりする動きが広がっていきます。

また、宗教勢力自身も、聖などの民間布教者の活動を通じて各地の武士や農民に積極的に働きかけて寺院への参詣や寄進を奨励し、その影響力の拡大を目指しました。

この結果、平安時代に主流となった顕密仏教は、荘園領主として民衆に君臨するポジションに位置し、国家支配をささえる存在になるほど巨大化していきました。

この結果、個人救済目的で成立したはずの顕密仏教が、荘園公領制のもとでの収奪体系を維持・安定させるという民衆を呪縛するものとして機能したのです。

(2)比叡山延暦寺の場合

この流れは、様々な高僧が集まる延暦寺に対して顕著に生じ、結果として仏教集団であったはずの延暦寺にも顕著に表れます。

経済力を手にした延暦寺は、自力救済を果たすために僧兵で武装を始めたからです。

この結果、経済力の強化とそれに伴う武装力の強化が長年に亘って繰り返された結果(自衛のための集団であった僧兵が、朝廷・他宗派寺院・その他勢力への武力行使手段となり)、延暦寺は、国の最高権力者でさえ口出しが出来なくなるほどの力を身につけてしまいます。

これを端的に言い表したのが、平安時代末期の白河法皇の言葉です。

白河法皇は、思い通りにならないものとして、①加茂川の水、②双六の賽、③山法師(比叡山の僧兵)を挙げ、比叡山に朝廷の政治力が及ばないことを嘆いています。

そして、比叡山の強大化は、その後も続き、戦国時代には、260箇所の領地をはじめとする様々な利権を保持し、また山下にある琵琶湖南西部にある当時の畿内有数の水運の要衝として栄えていた坂本に7つもの港を有して利用者から通行料をとるなどして莫大な利益を得るようになっていました。

これらによって得られた経済力を基に、比叡山は、朝廷・大名とは異質の一大権利機構となっていきました。

堕落した顕密仏教への反発

他方、平安時代末期頃になると、大きな力を持った比叡山延暦寺は、その内部で地位を巡って絶えず政治闘争が行われる俗人的世界となっていました。

純粋に仏の道を追求する僧侶たちは、世俗化し堕落した顕密仏教のあり方を批判し仏教本来のあり方への復帰をもとめる動きを進めたのですが、大きくなりすぎた比叡山延暦寺の構造を変えることはできませんでした。

この政治的・宗教的混乱期に比叡山延暦寺に見切りをつけた比叡山の僧侶たちの中から、自らの道を探し始める者が現れ、広がったのが鎌倉仏教です。

鎌倉仏教の興り

比叡山延暦寺に見切りをつけて比叡山を下りた者たちは、自らが信じる新仏教の概念を追求した結果、この時期に様々な特色を持った新仏教(鎌倉仏教)が次々に誕生します。

それまでの顕密仏教の縛りから独立しているため、鎌倉仏教では、大乗仏教を自由解釈し、それまでの時代では救済が得られなかったはずの一般庶民や武士階級にも救済の道を開くという自由な考え方を持ちました。

そして、一般庶民にも救済の道が生まれたことが、政治権力が朝廷から武士へと移り変わる時代の転換期であった時期に合致し、新たに生まれた新仏教が、新興勢力である武士や、武士政権下に組み込まれることとなって爆発的に広がっていきます。

その結果、日本史上、唯一この時期にだけ優れた宗教家の大量輩出がなされることとなったのです。

この大乗仏教の自由解釈により、様々な救済方法が編み出され、ある者は念仏、またある者は戒律や禅を救済手段と主張し、これらがそれぞれを信じる者の中に独自に浸透していきました。

そして、鎌倉仏教は、念仏・信心などの平易な修行を1つだけ選び出してそれに専修することで救われるとする他力本願派閥と、戒律と坐禅による修行により救済を求める自力本願派閥が生まれました。

このうち、他力本願系のパイオニアとなったのが、専修念仏を是とした法然であり、これに続いたのがその弟子である親鸞であり、さらにそれの後に一遍や日蓮が続きます。

他方、自力本願系のパイオニアとなったのが、

禅を是とした栄西であり、これに続いたのがその孫弟子である道元です。

他力本願系(一般大衆向け)

(1)浄土宗(法然)

まず鎌倉仏教のはしりとなったのは法然です。

比叡山延暦寺で修行に励んでいた法然でしたが、延暦寺の世俗化を嫌い、俗世と関わりを断ち切る隠遁の地として知られていた比叡山黒谷別所(大黒天出現の霊地である大黒滝があったため大黒谷、ひいては黒谷と呼ばれる比叡山西塔の北谷部)に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送っていました。

その後、承安5年(1175年)春、43歳となった法然は、善導が記した観無量寿経疏(観経疏)を読んで回心を体験したことにより、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと決意して比叡山を下ります。

比叡山を下りて南進して行った法然は、岡崎の地にたどり着き、そこを「くろ谷」と名付けて草庵(後の金戒光明寺)を結びます。

その後、法然は、東山の吉水に吉水草庵(吉水中房、現在の知恩院御影堂または安養寺近辺)を建てそこに入ります。

法然は、この岡崎や吉水の地において、阿弥陀信仰以外の方法を一切排除して阿弥陀仏のみが全ての人の極楽浄土への往生を平等に約束していると説き(他力本願)、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えること(専修念仏・称名念仏)によって極楽浄土への往生が保障されると説きました。なお、法然は、善根(善い行い)が極楽往生の要件ではないと述べているだけであり、善根自体を否認しているわけではありません。

長年比叡山に籠って修行を繰り返して仏教学を極めた法然のたどり着いた結論が、修行が不要であるというものであり、とても興味深く感じます。

この法然の教えはわかりやすい上、念仏を唱えるだけという実践容易なものであったため、爆発的に流行します。

他方で、旧来の仏教勢力からは、自力修行を否定する法然の考え方は受け入れられませんでした。

また、法然の弟子の中には、法然の教えを都合よく解釈し、悪行を行っても念仏さえすれば救われると考えて積極的に悪行に出る者が現れ始めるという弊害が出始めます。

法然は、そうした弟子の行状に頭を痛め、元久元年(1204年)に「七個条制戒」を出しているのですが改まらず、弟子の素行不良の責任を取らされる形で専修念仏停止を言い渡されると共に、主だった弟子たち共に僧籍を剥奪されて土佐に配流処分に処されました。

(2)浄土真宗(親鸞)

前記法然と共に配流処分を受けた弟子の中には、後の浄土真宗開祖である親鸞も含まれていました。

親鸞は、比叡山に登って延暦寺で20年に及ぶ厳しい修行を積んだのですが、自力修行の限界を感じ、建仁元年(1201年)春頃、比叡山を下山して専修念仏の教えを広めていた法然に弟子入りし、「綽空(しゃっくう)」 の名を与えられていたのですが、法然と共に還俗させられた上で、越後に配流処分に処せられました。

越後国国府(現在の新潟県上越市)に配流された親鸞は、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」 と名告って非僧非俗の生活を始めた後、建暦元年(1211年)11月17日に勅免の宣旨を受けて、建保2年(1214年)に家族・門弟と共に越後国を発ち、東国で布教活動を行うために信濃国善光寺から上野国佐貫庄を経て常陸国に向かいます。

そして、同年に「小島の草庵」(現在の茨城県下妻市小島)を、建保4年(1216年)に「大山の草庵」(現在の茨城県城里町)を結んだ後、笠間郡稲田郷吹雪谷に「稲田の草庵」を結び同地を拠点に20年にも亘る精力的な布教活動を始めます。

親鸞は、師である法然の考え方をさらに進め、念仏によって阿弥陀如来に極楽往生を求めることは人間の傲慢であり、人間による自力の念仏に意味はないと考えました。

そして、全ての救済は阿弥陀如来のはからいによるものであるとして、阿弥陀如来を信じることこそが重要であると考えました。

そこで、親鸞は、念仏を唱えようと思う信仰心を重視し、悪人であることを自覚して他力に頼りきるものこそが阿弥陀仏の救済対象であると説いたのです(悪人正機説)。

そして、建暦2年(1212年)頃に京に戻った親鸞は、寛元5年(1247年)頃までに補足・改訂を続けてきた「教行信証」を完成させています。なお、浄土真宗の立教開宗の年は、「顕浄土真実教行証文類(後の「教行信証」)」の草稿本が完成した元仁元年(1224年)4月15日とされているのですが、この日に定められたのは親鸞の没後でありこの時点では浄土真宗という宗旨名が用いられたことはありません。

(3)時宗(一遍)

文永11年(1274年)、全てを捨てて遊行の旅に出た一遍が、熊野本宮大社において夢の中で、白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)から、「一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されている、そこで、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず念仏札を配るように」とのお告げを受けます。

このお告げを聞いた一遍は、等しく劣った全ての人間が救済されるためには何らかの行為・思考は必要なく、偉大な存在である阿弥陀如来によって何もしなくとも極楽に導かれる(人間の往生は信不信・浄不浄の区別なく既に約束されている)と説きました。

すなわち、一遍は、親鸞の考え方をさらに進め、阿弥陀信仰に対する信心すら不要としたのです。

そして、一遍は、弘安2年(1279年)から、受け取った者を往生させるため、諸国遊行にて「決定往生/六十万人」と記した念仏札を配り歩くようになります(賦算)。

また、念仏札を配る手段として、平安時代に空也が始めた踊念仏(輪になって念仏を唱えながら踊る)を用い、人々に対して余計な考えは捨てて南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを勧めました。

(4)日蓮宗(日蓮)

日蓮は、12歳時に、初等教育を受けるために当時は天台宗寺院であった安房国の清澄寺に入ります。

同寺で得度した日蓮は、その後、各宗派の教義を検証するために比叡山延暦寺を主として、園城寺・高野山などに遊学し、建長4年(1252年)秋ころに遊学を終えて清澄寺に戻ります。

ここで、日蓮は、天台宗の中心経典である法華経こそが正しい教えであり、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」によってのみ救われると説きます(唱題行)。

そして、建長5年(1253年)に鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構え、念仏や禅宗ら妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯しているなどと主張して日蓮宗以外の宗教・宗派に対して徹底的な敵対姿勢を示しながら布教活動を開始しています。

自力本願系(武士階級向け)

鎌倉時代は、武士勢力が、皇族・貴族という既得権益から政治力・経済力を奪いとっていった時代でした。

すなわち、平安時代までは大きな力を持っていなかった武士勢力が平清盛や源頼朝の成長により大きな力を持っていったのですが、平安時代まで虐げられていた武士勢力にエリート層のたしなみであった仏教信仰はありませんでした。

もっとも、鎌倉時代に入って武士勢力がエリート層(支配層)となったことにより、仏教への親和性が成ったのですが、自らの力で権力を勝ち取っていった鎌倉武士にとっては、前記のような一般庶民向けの他力本願(念仏・信心系)ではなく、自らの修行によって悟りを開く様式である禅であるが好まれました。

(1)臨済(栄西)

栄西は、比叡山延暦寺に入って天台宗を学んでいたのですが、教えが形骸化し貴族政争の具となっていた仏教を再考するため、仁安3年(1168年)4月、当時の事実上の政権担当者であった平家の庇護を得て南宋に留学します。

当時の南宋では禅宗が大流行していたため、栄西もまた禅を学び、これを日本仏教の精神の立て直しに活用すべく学んで日本に持ち帰ります。

このとき栄西が持ち帰った禅は、戒律と坐禅を行いながら師からあたえられる公案という問題を一つ一つ解決することにより(公案問答)、悟りに達すると説くものでした。

もっとも、帰国後に既存の仏教勢力の強い京での布教は困難を極め、これに限界を感じて鎌倉に下向して鎌倉幕府の庇護を求めます。

そして、建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の庇護を受けて京に禅・天台・真言の三宗兼学の寺としての建仁寺を建立し、禅宗の振興に努めました。

このように、臨済宗は、ときの武家政権と強く結びつき、上級武士の信仰を集めたのが特徴的です。

(2)曹洞宗(道元)

正治2年(1200年)に京の公卿である久我家(村上源氏)という名家に生まれた道元は、幼くして両親と死別したことにより無常を体感します。

両親の死を悲しんだ道元は、仏の道にその癒しを求めます。

出家して天台宗を学んだ道元は、建保5年(1217年)に建仁寺において栄西の弟子である明全に師事し、貞応2年(1223年)に明全と共に南宋に渡って諸山を巡ります。

安貞元年(1227年)に帰国した道元は、栄西の教えをさらに進め、坐禅そのものを重視する教えを説き、公案問答などをすることなくただひたすら坐禅に徹することで悟りに達すると説きました(只管打坐)。

もっとも、新たな教えを広めようとした道元もまた既存の仏教勢力である比叡山延暦寺から弾圧を受け、寛元元年(1243年)に越前国の地頭であった波多野義重の招きで越前志比荘に移ります。

そして、寛元2年(1244年)傘松に大佛寺を開き、寛元4年(1246年)にこれを永平寺に改め、曹洞宗の中心寺院としています。

なお、道元は、坐禅そのものに意味を見出して政治権力に接近しないことを説きましたので、地方の中小武士・農民に支持されています(その意味で、上級武士に支持された臨済宗とは異なります)。

参考(旧仏教内での革新運動)

なお、余談ですが、この時期には、旧仏教内部で世俗化し堕落した仏教のあり方を批判する革新運動も興り、戒律の復興を説いた貞慶や高弁、戒律を民衆へ普及・非人救済など社会事業を進めた叡尊や忍性などの僧も現れています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA