【金戒光明寺】法然が開き江戸幕府が城塞化した浄土宗大本山

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗開祖である法然が比叡山延暦寺を下り最初に庵を結んだ場所に開かれた浄土宗の大本山寺院です。

比叡山を下りて石に腰かけた際に紫の雲が立ち上って大空を覆い光明が差したという逸話から山号を紫雲山、寺号を光明寺(後に光厳天皇から金戒の二字を賜ったことにより金戒光明寺)といいます。

浄土宗始まりの地として重要な寺であり、浄土宗の七大本山の1つ、かつ京都四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の1つに数えられています。

以上のとおり、浄土宗の始まりの地として重要な寺ではあるのですが、その後、江戸幕府によって要塞化され、幕末期に京都守護職が置かれた場所としても有名です。

そのため、金戒光明寺は、創建された鎌倉期、要塞に改造された江戸時代初期、京都守護職が置かれた幕末期にちなんだ時代の異なる歴史が混在する寺ですので、これらの時代背景を意識して観光いただければより一層楽しめると思います。

本稿では、金戒光明寺について、この時代背景に意識しつつ簡単に説明していきたいと思います。

金戒光明寺建立に至る経緯

法然の比叡山下山(1175年)

前記のとおり、金戒光明寺は、浄土宗開祖である法然が開山した寺院です。

長承2年(1133年)4月7日に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国の子として生まれた法然は、天養2年(1145年)に比叡山延暦寺に登って源光に師事しました。

その後、久安3年(1147年)に皇円の下で得度し、また天台座主行玄を戒師として授戒を受けています。

もっとも、この頃の比叡山延暦寺は、政治闘争に明け暮れた俗人的世界であったため、これを嫌った法然は、久安6年(1150年)に皇円のもとを辞し、俗世と関わりを断ち切る隠遁の地として知られていた比叡山黒谷別所(大黒天出現の霊地である大黒滝があったため大黒谷、ひいては黒谷と呼ばれる比叡山西塔の北谷部)に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送るようになります。

そして、承安5年(1175年)春、43歳となった法然は、善導が記した観無量寿経疏(観経疏)を読んで回心を体験したことにより、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと決意し、浄土宗の開宗を決めて比叡山を下ります。

草庵を結ぶ(1175年)

比叡山から南に向かって山を下りて行った法然は、岡崎の地にたどり着いたのですが、そこに大きな石があったためにそこに腰掛けます。

そうしたところ、その石から紫の雲が立ち上って大空を覆い、西の空に金色の光が放たれるという現象が起こったと言われます。

このとき、うたた寝をした法然の夢の中に、中国の唐時代の高僧であった善導大師が500年の時と国を越えて現れ(二祖対面)、法然の考えを肯定したそうです。

この経験により、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にし、この石のある地に草庵を結ぶこととします。

これが、金戒光明寺の始まりです。

なお、このとき法然が腰掛けたとされる石は、金戒光明寺の塔頭である西雲院に安置されています。

「くろ谷」の由来

法然が草庵を結んだ地は、岡崎と呼ばれており、元々は藤原顕時の別荘があった場所です。

この藤原顕時が叡空(法然の師)に帰依して同地を叡空に寄進したのですが、叡空が入滅に際して法然に与えたと言われています(寺伝)。

法然は、岡崎に庵を結んだ後、東山の吉水に吉水草庵(吉水中房、現在の知恩院御影堂または安養寺近辺)を建てそこに入ります。

そして、法然は、岡崎の地を弟弟子であった信空(金戒光明寺第2世)に与えたのですが、信空は比叡山黒谷別所の棒を岡崎の地に移したため、以降、白河禅房と呼ばれて白河門徒の念仏道場の拠点となりました。

また、この結果、比叡山黒谷を元黒谷、岡崎白河禅房を新黒谷と呼ぶようになります。

その後、新黒谷の新の字が取れ、岡崎の地が黒谷(くろ谷)と呼ばれるようになったのです。なお、比叡山黒谷本房もまた現在まで黒谷と呼ばれています。

また、建永2年(1207年)の承元の法難で讃岐国(現・香川県)に流罪となるまでの間同地で布教に努め、吉水と黒谷が浄土宗の中心地となりました。

金戒光明寺に改名

岡崎の地に建てられた草庵でしたが、金戒光明寺第5世・恵顗の時代に堂が整えられ、法然が体験した縁起にちなんで紫雲山「光明寺」と号されます。

その後、金戒光明寺第8世・運空が後光厳天皇に戒を授けたのですが、その際に金戒の二字を賜ったため、以降、「金戒光明寺」と呼ばれるようになりました(寺伝)。

もっとも、応仁・文明の乱(1467年~1477年)の戦火により金戒光明寺のほとんどの堂宇が焼失し(武家年代記)、衰退期に入ります。

江戸幕府による改修

徳川家康による城塞化計画

徳川家康が、関ヶ原の戦いに勝利して京を手中に収めると、まずは直轄地として二条城を築いて同城に京都所司代を置きます。

次に、自らが信仰する浄土宗の寺院の改修を始めます。

この浄土宗寺院改修の過程で、徳川家康は、知恩院と金戒光明寺の場所的優位性に着目します。

いずれも、二条城から約3kmの位置にあって連携が取りやすい上、小高い場所にあって京の町が一望できるだけでなく、淀・大坂城まで見渡すことができる上、背後に山があって守り易く、さらには両寺で東海道の挟みこんでいるというこれ以上ないくらいの立地だったからです。

そこで、江戸幕府の京の拠点であった二条城の支城たる防衛拠点として転用できるよう、いずれも1000人規模の兵が駐屯できる規模に拡大した上で、石垣で囲った城構えとすることとしました。

江戸幕府による改造

① 知恩院改造

徳川家康がまず手をつけたのは知恩院でした。

徳川家康は、慶長8年(1603年)に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進した上、翌慶長9年(1604年)には北に隣接する青蓮院の地を組み入れることにより知恩院の寺地を拡大すると共に諸堂の造営を行います。

この造影は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、3代将軍徳川家光時代である寛永18年(1641年)までにほぼ完成しています。

② 金戒光明寺改造

また、江戸幕府は、知恩院に続いて、金戒光明寺の改造にも着手します。

東海道がある南側に山門を設けた上で、そのさらに南東側の細い上り坂に小門(南門)を配し、東海道からやってくる敵軍が寺に押し寄せることができないようにします。

また、本城となる二条城がある西側には立派な高麗門が配されました。

そして、大小52の宿坊や大方丈などの多くの堂宇が、幕府兵の駐屯に適する構造に改修されました。

幕末に京都守護職本陣が置かれる

京都守護職本陣が置かれる(1862年)

以上の結果、金戒光明寺は、江戸時代を通じて城郭構造の寺院として存在することとなりました。

そして、幕末期になると江戸幕府の権威が低下し、京においては尊王攘夷派過激志士による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などの騒乱が横行する事態となっていました。

この事態に対し、江戸幕府は、京都所司代や京都町奉行だけでの対応は困難であると判断し、京(洛中)の治安維持及び御所・二条城の警備などを担わせるため、新たに京都守護職の設置を決めます。

いうなれば、京都守護職=特別警察です。

江戸幕府(徳川慶喜・松平春嶽)は、第9代会津藩主であった松平容保に対し、この京都守護職を就任を要請したのですが、松平容保は当初は藩財政や家臣の反対を理由としてこれを断っていました。

もっとも、松平春嶽が、会津藩祖である保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出して説得を続けたため、松平容保は、これを断りきることができず、文久2年(1862年)閏8月1日、ついに京都守護職の就任を受け入れます。

京都守護職となった松平容保は、京に上り、城郭構造を有していた金戒光明寺に入り、同寺を本陣とします。

京都守護職の運用

そして、松平容保は、藩兵1000人を金戒光明寺に常駐させ、これを1年おきに交替させるという運用により京都守護職を務めます。

京に入った松平容保は、当初は過激な攘夷志士との関係でも対話による調整を試みていたのですが、文久3年(1863年)2月22日に攘夷志士たちが足利将軍を徳川将軍に見立てて倒幕の意思を表明するという足利三代木造梟首事件が起こると態度を一変させます。

松平容保は、このときから過激な攘夷志士に対する厳しい取り締まりを始めたのです。

もっとも、京中に潜伏する攘夷志士を取り締まるためには会津藩士1000人では十分ではありませんでした。

そこで、松平容保は、江戸から上ってきた新撰組を京都守護職預かりとして使用するなどしてその不足を補う工夫をします。

もっとも、これにより京では攘夷志士と幕府側武士との対立が激化し、松平容保は維新志士の恨みを買っていくこととなりました。

京都守護職廃止(1867年12月)

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、大政奉還後の王政復古の大号令が発せられたことにより、京市中の支配権が薩摩藩・長州藩に移ります。

この結果、京都守護職はその役目を終えて設置後6年をもって廃止されました。

そして、会津藩士らは京から追放される形となったため、一旦、大坂城へ引くこととなり、慶応4年に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする明治新政府軍と戦って敗北するに至ります。

なお、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔うための会津墓地が金戒光明寺に置かれています。

なお、金戒光明寺は、昭和21年(1946年)に黒谷浄土宗として一派を立てて独立するも、昭和52年(1977年)に浄土宗に合流して七大本山の一翼を担っています。

境内

伽藍

(1)総門(高麗門)

金戒光明寺の惣門は高麗門構造となっています。

高麗門とは、正面左右の二本の本柱に切妻の屋根をかけ、これと直角に控柱を本柱の背後に立てて切妻屋根をかけた門のことであり、上部から門を通る敵兵を攻撃しやすいよう死角を減らす構造となっているため城門として使用されることが多い門です。

金戒光明寺の総門が高麗門構造となっているということから、金戒光明寺が攻撃を受ける可能性を前提として建てられていることがわかります。

(2)南門

南門は、東海道から金戒光明寺山門に向かう途中にある門です。

南門は、東海道からやってくる敵軍が寺に押し寄せることができないようにする目的で設けられているため、細い上り坂の上に設置された小さな門となっています。

(3)北門

(4)山門(楼門、京都府指定有形文化財)

元々存在していた山門(三門)は、応永年間(1398年~1415年)の定玄(金戒光明寺第9世)の時代に建立されたものだったのですが、応仁の乱で焼失し、以降山門が存在しない時代が続きました。

その後、江戸幕府の命により文政11年(1828年)から再建に取り掛かり、 万延元年(1860年)12月に禅宗寺院に見られる山門様式にて落慶されたものです(金戒光明寺と知恩院については、禅宗寺院でないにもかかわらず山門が三門形式で建てられています。)。

山門楼内壇上正面には、等身座像の釈迦三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)と十六羅漢の像が安置されています。

また、「浄土真宗最初門」と記された山門楼上の勅額は、第100代の後小松天皇の宸筆であるとされています。

(5)納骨堂(旧経堂、京都府登録有形文化財)

納骨堂は、元々は仏経典を納めるために建てられた経堂(経蔵)であり、現存するのは元禄2年(1689年)に再建されたものです。

中島重昌氏が寄贈した黄檗版一切経(2087冊)が納められていたのですが、平成23年(2011年)の法然上人八百年遠忌の記念事業に伴って行われた大修理以降、同寺に納骨されたお骨で造立された「骨仏」と呼ばれる阿弥陀如来坐像を安置する納骨堂として使用されるようになりました。

そのため、かつて納められていた黄檗版一切経は、現在は新経蔵(観音堂)に移されて保管されています。

(6)新経蔵

(7)鐘楼

鐘楼は、元和9年(1623年)に建立された梵鐘を吊るすための建物です。

奈良時代から続く日本寺院の伽藍配置の手法にのっとり、旧経堂(現在の納骨堂)と東西に向き合う形で建てられています。

なお、平成23年(2011年)に旧経堂が納骨堂となり、経堂の役割が新経蔵に移されたことから、旧来の伽藍配置が崩れています。

(8)阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)

阿弥陀堂は、恵心僧都源信の最終作と伝えられる阿弥陀如来を祀る堂です。

現存する阿弥陀堂は、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼により方広寺大仏殿の余材を用いて再建されたとされる堂であり、金戒光明寺の中で最古の堂宇です。

ここに祀られている阿弥陀如来像の作成後に源信が仏像彫刻を止め、仏像の彫刻に必要な「のみ」をその体内に収めたことから、「のみおさめの如来」・「お止めの如来」と呼ばれています。

(9)清和殿

(10)新清和殿

(11)寺務所

(12)食堂

(13)大方丈(講堂、国登録有形文化財)

大方丈は、御影堂の東北方に南面する桁行13間・梁間11間の6室から成る入母屋造桟瓦葺屋根の建物であり、金戒光明寺の法要を営むための場所です。

正面に広縁、両側と背面に畳縁、外周に切目縁を廻す。各部の比例が優れた上質かつ雄大な書院造で、蟻壁の横連子や天井等の細部も精緻である。

現存する大方丈は、昭和9年(1934年)の火災により焼失した後、昭和19年(1944年)に再建されたものです。

① 唐門(国登録有形文化財)

大方丈唐門は、昭和11年(1936年)頃に建立された大方丈の南側正面門です。

② 玄関(国登録有形文化財)

玄関は、昭和11年(1936年)頃に建立された、縦長平面の6室から成る大方丈の東側入口であり、寺務所と接続されています。

③ 築地塀(国登録有形文化財)

④ 紫雲の庭

⑤ 大池(鎧池)

⑥ 大方丈北庭

⑦ 紫雲亭(茶室)

(14)御影堂(国登録有形文化財)

① 御影堂(大殿)

御影堂(みえいどう)は、大殿(だいでん)ともいわれる金戒光明寺の本堂です。

内陣正面に法然75歳時の三昧発得姿の肖像(坐像)が、また本尊の阿弥陀如来坐像・中山文殊・吉備観音などが安置されています。

なお、元々存在していた御影堂は慶長17年(1612年)に焼失し(舜日記)、再建された御影堂もまた安永5年(1776年)及び昭和9年(1934年)に焼失していることから、現存するものは京都大学名誉教授であった天沼俊一博士の設計により昭和19年(1944年)に再建されたものです。

② 絹本著色法然上人像(京都府指定有形文化財)

法然上人像は、御影堂中央に安置されている法然75歳時の三昧発得姿の肖像(坐像)です。

毎日昼の法要時に御簾が開けられ、また毎年4月25日の御忌法要時に一般拝観がなされます。

③ 阿弥陀如来坐像

④ 中山文殊(京都市指定文化財)

中山文殊は、御影堂須弥壇脇に安置されている運慶作といわれる文殊菩薩像です。

元々は中山法幢時の本尊であったのですが、応仁の乱の戦火によって同寺が廃寺となったため、一旦は近くに小堂を建てて遷されたのですが、その後金戒光明寺の方丈に遷された後、金戒光明寺三重塔建立に際して本尊として迎えられたとされています。

なお、その後、平成20年(2008年)4月に御影堂左脇壇に遷座され、現在に至っています。

⑤ 吉備観音(木造千手観音立像・重要文化財)

吉備観音は、御影堂須弥壇脇に安置されている木造千手観音立像です。

飛鳥時代に遣唐使であった吉備真備が唐から持ち帰った栴檀香木を用いて作られたものと言われています。

元々は吉田寺の本尊であったのですが、寛文8年(1668年)に童子が廃寺となる際に、幕命によって金戒光明寺に遷されたとされています。

(15)法然上人御廟所(勢至堂)

法然上人御廟所は、法然の遺骨が祀られているお堂です。

建暦2年(1212年)正月25日に東山大谷禅房において80歳で死去した法然は、一旦は大谷の地に埋葬されます。

もっとも、嘉禄3年(1227年)6月に山徒による大谷廟堂破却の動きがあり、法然の遺骸は翌年に西山の粟生野で金戒光明寺第2世・信空により荼毘に付されます。

その後、信空が、法然の遺骨(分骨)を生涯肌身離さず身に着けていたために難を逃れ、信空の死後にその弟子たちによって法然の遺骨が同地に葬られ、廟を建てて祀られることとなりました。

その後、応仁の乱により廟が一度焼失したのですが、天正元年(1573年)に五輪塔が、延宝4年(1676年)に堂宇が再建され、現在に至っています。

(16)三重塔(文殊塔・重要文化財)

三重塔は、かつて江戸幕府2代将軍である徳川秀忠に仕えていた伊丹重好(豊永宗如堅斉)が、徳川秀忠の死後である寛永10年(1633年)に、その菩提を弔うために建立された塔です。

三重塔内部には、運慶作と伝えられる(実際の作者は不明)文殊菩薩半跏像を本尊とし、さらにその脇侍像が安置されていたため文殊塔とも呼ばれました。なお、文殊菩薩半跏像は、かつては中山宝幢寺の本尊であったために中山文殊ともいわれていたのですが、応仁の乱で中山宝幢寺が廃寺となった後、近くの小堂で祀られていたものが金戒光明寺に遷され、その後の三重塔の建立と同時に本尊とされたと伝えられています。

以上のとおり、近年まで三重塔内に安置されていた文殊菩薩ですが、平成20年(2008年)4月に御影堂左脇壇に遷座されています。

そして、現在の三重塔には、文殊菩薩の分身(浄鏡)を祀り、左右の脇壇には伊丹重好とその両親、金戒光明寺第28世・潮呑の木造が安置されています。

塔頭

(1)常光院

常光院は、天正5年(1577年)に金戒光明寺の塔頭として創建されました。

当初は明寿院といわれていたのですが、寛永21年(1644年)に常光院と改めています。

なお、江戸時代初期の音楽家として箏による演奏の基礎を作り上げたことで有名な箏曲家・八橋検校の菩提寺であることから、通称として「八はしでら」とも呼ばれています。

(2)金光院

(3)蓮池院(れんちいん)

① 熊谷堂

一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったことを悔いた熊谷直実が、同地に庵を結んでいた法然を訪ねて弟子入りし、出家した上で法力房蓮生となり庵を結んだ場所が蓮池院です。

熊谷直実にちなんで熊谷堂と呼ばれました。

江戸時代初期、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室であった「お江」の御台墓を建立した春日局が、蓮池に蓮を植えて堂を改修した際、蓮池院熊谷堂と改称しています。

② 蓮池(兜之池)

一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったことを悔いた熊谷直実が、同地に庵を結んでいた法然を訪ねて弟子入りし、蓮池で兜を置くと共に、弓の弦を斬って弓を池に架けたと言われています。

このときの由縁にちなみ、蓮池を別名「兜之池」と呼びます。

③ 極楽橋

また、蓮池に架ける橋を弦を切った弓に模したとされています。

その後、寛永5年(1628年)、春日局が江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室であった「お江」の御台墓を建立しそこに参詣することにしたのですが、それに際して池に蓮を植えて蓮池とした上で、木造の極楽橋を寄進しています。

また、その後、寛永10年(1633年)に徳川秀忠の菩提を弔うために三重塔が建立されると、寛永18年(1641年)、三重塔に向かうための極楽橋が石造りに造り変えられました。

(4)松樹院

(5)勢至院

(6)西雲院

法然が草庵を結ぶきっかけとなった紫雲石が金戒光明寺で保管されていたのですが、元和2年(1616年)に金戒光明寺第27世了的により宗厳に授けられました。

これに伴い、宗厳は、金戒光明寺の塔頭となる西雲院を創建します。

以上の経緯から、西雲院は通称「紫雲石」とも呼ばれます。

なお、幕末期に中間として侠客・会津小鉄(上坂仙吉)が金戒光明寺に出入りしており、その縁で西雲院に会津小鉄の墓が置かれています。

(7)栄摂院

(8)顕岑院

(9)龍光院

(10)永運院

(11)西翁院

(12)長安院

(13)瑞泉院

(14)西住院

(15)超覚院

(16)善教院

(17)浄源院

(18)光安寺

墓所等

(1)鎌倉時代ゆかりの墓所

① 熊谷直実(蓮生法師)の供養塔

熊谷直実供養塔は、法然に弟子入りして蓮生と名乗った鎌倉時代の武将である熊谷直実を供養する供養塔です。

② 平敦盛の供養塔

平敦盛供養塔は、一ノ谷の戦いで熊谷直実に討ち取られた平家の若武者である平敦盛を供養するために建てられた供養塔です。

討ち取った熊谷直実の供養塔と相対して建てられています。

(2)江戸時代前期ゆかりの墓所

① 崇源院(江)の供養塔

崇源院(江)の供養塔は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の正室であり、同第3代将軍・徳川家光の母であるお江の死後、3代将軍の座を巡ってお江と対立した春日局によって建立されたものです。

お江の墓自体は東京の増上寺にあるのですが、金戒光明寺の供養塔にはお江の遺髪が納められました。

② 徳川忠長の供養塔

③ 春日局の墓

(3)幕末ゆかりの墓所

① 会津藩殉難者墓所

京都守護職が置かれていた文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までの死者237名と、鳥羽伏見の戦いの死者115名の合計計352名の会津藩士の墓所です。

その他

(1)勢至丸像

勢至丸像は、山門北側に置かれた子供姿の石像です。

勢至丸とは、阿弥陀仏の右脇侍である勢至菩薩にあやかって名付けられた法然の幼名であり、この像は幼い頃の法然の姿を現した像です。

(2)五劫思惟阿弥陀如来石像

五劫思惟阿弥陀如来石像は、文殊塔に登る石段の左に位置している石像です。

法蔵菩薩(阿弥陀如来の悟りを開く前の姿)が螺髪が伸びきるほどの長い間(五劫)衆生救済を考えている姿を現していると言われます。

近年、長く伸びた螺髪をアフロヘアに見立て、「アフロ仏」と呼ばれています。

(3)直実鎧掛けの松

直実鎧掛けの松は、鎌倉時代の武将である熊谷直実が鎧を洗いそれを掛けたといわれている松です。

現在植えられている松は、平成26年(2014年)に植えられた3代目のものです。

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