高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)は、宮内庁によって安閑天皇陵に治定されている古市古墳群の最南端にある前方後円墳です。
学術的に見ると高屋築山古墳=安閑天皇陵とする点については疑問も残るのですが、そのことよりも戦国時代に河内守護畠山家の居城となった高屋城の主郭に転用されたことで有名です。
本稿では、この安閑天皇陵(高屋築山古墳)について、簡単に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
安閑天皇陵概略
宮内庁による治定
高屋築山古墳は、宮内庁が第27代安閑天皇の陵に治定している陵です。
安閑天皇は、継体天皇25年(531年)に即位し、安閑天皇2年(535年)12月に死去し、同月に古市高屋丘陵埋葬されたと記されています(日本書紀)。
すなわち、日本書記や延喜式において、安閑天皇陵=古市高屋丘陵と記しているところ、古市高屋丘陵=高屋築山古墳と考えられていることから、安閑天皇陵=古市高屋丘陵=高屋築山古墳されているのです。
もっとも、古市高屋丘陵=高屋築山古墳が必ずしも明らかではありませんので、安閑天皇陵=高屋築山古墳と言えるかについては疑問があります。
古市古墳群内にある他の古墳と間違えている可能性があります。
この点については、安閑天皇陵のみならず、古代天皇陵とされる古墳の多くに見られる問題です。
これは、歴代天皇陵の調査・治定作業が、江戸時代末〜明治時代に行われたのですが、当時の調査が古文献・各地の伝承・地名などを比較考証することで行われただけであり、現在の学問的水準から見れば問題が多いとされていることによります。
安閑天皇陵=高屋築山古墳とすることへの疑問
実際、安閑天皇陵=高屋築山古墳とする宮内庁の治定には、学術的な欠点があります。
日本書紀によると、安閑天皇は、皇后春日山田皇女及び天皇の妹である神前皇女らと共に3人で合葬されたと記されているのですが、宮内庁は、安閑天皇陵とは別に皇后春日山田皇女の陵(高屋八幡山古墳)を治定しており、理論的に破綻しているからです。
なお、宮内庁が安閑天皇陵とは別に皇后春日山田皇女陵を治定したのは、延喜式に別の陵であると記されているからなのですが、皇后春日山田皇女陵=高屋八幡山古墳とされていることについても疑問が呈されています。
以上より、学術的に見ると、実際の高屋築山古墳の被葬者は必ずしも明らかではありませんが、宮内庁が同古墳を第27代安閑天皇陵として治定していますので、本稿でもそれに従って進めていきます。
安閑天皇陵の構造
安閑天皇陵とされる現在の高屋築山古墳は、墳丘の長さ122m・前方部の幅100m・高さ12.5m、後円部は直径78m・高さ13mの前方後円墳です。
もっとも、以下のとおり、安閑天皇陵は戦国時代に大きな改変がなされているため、造営当の規模や正確な形状は不明です。
出土した円筒埴輪の特徴から、6世紀初頭に築造されたものと考えられているのですが、それも必ずしも明らかではありません。
戦国時代以降の安閑天皇陵
高屋城の主郭となる
高屋築山古墳には、造営から1000年後に大改修がなされます。
同地が、石川東側に広がる標高約47mの河岸段丘である独立丘陵という高地であったこと・古墳周りに堀が巡らされていたことなどから、防衛上優れた場所である上、交通の要所である東高野街道を支配するに適した要衝地と判断されます。
そこで、応仁の乱の終期に近い文明9年(1477年)9月21日、畠山義就が、畠山政長討伐のために河内国へ下り諸城を陥落させ、また同年10月9日に畠山政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い出して河内国を制圧すると(若江城の戦い)、河内国に土着した上で河内国支配を強固なものとする策を講じ始めます。
そして、畠山義就は、文明11年(1479年)、誉田に屋形を建設して周辺勢力の取り込みを進め(誉田屋形周辺には、遊佐・誉田・谷・吉原・小倉・田井・御厨などの家臣屋敷が集められました。)、さらに誉田屋形の詰城として安閑天皇陵を主郭とする高屋城の建築を始めます。
この高屋城の築城に際して、安閑天皇にも工事の手が入り、元々の形態が大きく改変されてしまいました。
改変後の安閑天皇陵
この結果、安閑天皇陵(高屋築山古墳)は、高屋城の主郭に取り込まれてしまいました。
主郭中心部の安閑天皇陵(高屋築山古墳)の周壕をも防御施設として利用し、墳丘上部を平坦に削平しつつ、墳丘部分のみならず周辺部分も主郭に取り込んでいる点が特徴です(なお、畿内でも古墳を取り入れた城郭は複数見受けられるのですが、そのほとんどが墳丘部分のみを使用しているのと対照的です。)。
そして、安閑天皇陵(高屋築山古墳)の水濠に二か所の陸橋を架けるという複雑な構造とした上で、南北五か所の小郭が五角形状に取り囲むように付されており、それぞれが堡塁の役割を担っていました。
以上の結果、安閑天皇陵が城域に取り込まれることとなったのですが、河内畠山家の当主であった畠山稙長が安閑天皇陵に畏敬の念を持ち、平時は主郭を使用せず、主に二郭を使用していたと言われています(足利季世紀)。
現在の安閑天皇陵
高屋城は、天正3年(1575年)、織田信長によって攻め落とされ(第二次高屋城の戦い)、間も無く廃城とされます。
この高屋城廃城後もその遺構はそれなりに残されていたのですが、昭和30年(1955年)頃より新興住宅地として開発が行われた結果、その遺構の多くが失われています。
もっとも、高屋築山古墳については、安閑天皇陵に治定されていたこともあって開発が避けられ、現在も残されています。
なお、安閑天皇陵の拝所は、国道170号線に面した前方部正面の濠の外に設けられていますので、興味がある方は是非。