【二条城は4つある】三英傑が築いた4つの二条城を順に紹介します

京都を代表する観光地である世界遺産・二条城ですが、現存する二条城の他にも複数の二条城があったことをご存じですか。

それ以前の屋敷の規模にとどまる大きさものを除外し、城と言える規模のものだけを抽出してもこれまでに4つの二条城が存在しています。

①足利義昭の旧二条城、②織田信長の二条御所、③豊臣秀吉の妙顕寺城、④徳川家康の二条城です。

以下、これらの4つの二条城の歴史を簡単に紹介します。

足利義昭の旧二条城(1569年~1573年)

一番最初に築かれた二条城は、織田信長が足利義昭のために築いたものです。

織田信長に連れられて入京した足利義昭は、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所として同寺に入り、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命されます。

ところが、本圀寺は守りを固める堀や土塁・石垣を巡らした城郭様の寺ではなかったため防衛面が極めて手薄でした。

そんな中、織田信長が主力軍を連れて本拠地・岐阜に戻ったため、畿内から追い出された三好三人衆が本圀寺にいる足利義昭を襲撃するという事件が起こります(本圀寺の変)。

本圀寺の変では、明智光秀や援軍として駆け付けた将軍直属の細川藤孝、三好本家の三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの奮戦により、三好三人衆の撃退に成功します。

もっとも、神輿として足利義昭を担ぐ織田信長としては、この時点ではまだ足利義昭を失うわけにはいきませんでしたので、急ぎ本圀寺の建築物を解体・移築する方法で本圀寺に代わる将軍の在所となる城の築城を開始します。

このとき造られた城が、足利義昭の二条城です。

二条通より大分北側に建っていたため、二条城と呼ぶのには抵抗がありますが、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えていたことから足利将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といったことにちなんで名づけられています。

現在では、現存する二条城と区別するため、「旧二条城」と呼ばれる二条城です。

旧二条城は、足利義昭の正当性を担保するためもあり、13代将軍・足利義輝が使用していた二条御所武衛陣の御構え跡地に築城されました。

旧二条城は、現存していませんが、二重の水堀・高い石垣・天守らしき高層建築物を備える堂々たる城郭だったそうで、発掘された石垣の一部は京都御所内や現在の二条城内に復元されています。

もっとも、旧二条城は、その後の足利義昭と織田信長との対立により、元亀4年(1573年)に足利義昭が京から追放される際に、怒った織田信長によって徹底的に破却され消滅しています。

織田信長の二条御所(1577年~1582年)

織田信長は、足利義昭の御所であった旧二条城を破却した後、次なる二条城を建造します。きっかけは、織田信長が、二条家の庭園を気に入って宿所にしようと思いついたことです。

場所は、二条大路の南側にあった公卿・二条家の邸宅であり、現在の地名も二条殿町といいます。

織田信長は、早速、当時の二条家・二条晴良父子を報恩寺に移した上で、その邸宅を譲り受けます。

そして、織田信長は、天正4年(1576年)9月、京都所司代・村井貞勝に普請を命じて城への改修に着工し、天正5年(1577年)11月に一応の完成をみて移り住みます。

発掘調査では、この二条城は方形の縄張りをしており、また幅5m程度の堀が確認されていることから一応城の外形があったようですが、この頃の織田信長は勢力を拡大し続けるイケイケの状態であったために自らが攻められることを想定しておらず、その居城の防衛力に重点を置いていませんでした(この点は、岐阜城安土城と同様です。)。

そのため、この二条城は、防衛力よりも外見や居住性を重視した造りとなりました(これが、後に織田信忠自刃の悲劇を生みます。)。

その後、織田信長は、単純に飽きたのか、権大納言・右近衛大将に任命された御礼だったのかその理由は不明ですが、天正8年(1580年)、この二条城を正親町天皇の皇子である誠仁親王に献上します。

この二条城は、このときに親王の御所となったため、以降、正親町天皇のいる上御所に対し「下御所」と呼ばれるようになります。

もっとも、この二条城は、その後すぐにとある有名な事件で焼失します。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変です。

本能寺の変が起きた際、中国攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かう準備のため、織田信長の嫡男である織田信忠が京の妙覚寺に滞在していました。

同日未明、織田信忠は、本能寺にいる織田信長が明智光秀に急襲されたことを知り、その救援のため本能寺に向かいますがその途中で織田信長自刃の報を聞きます。

織田信忠は、ここで本拠地・岐阜に向かって逃げるべきだったのですが、何を思ったか、その当時皇太子であった誠仁親王の居宅となっていた二条御所(下御所)に向かい、親王一家を上御所に退去させた上で二条御所に籠城します。

もっとも、前記のとおり二条御所は防衛施設としては不十分である上、寡兵でもあったことから、すぐに明智光秀軍に囲まれて織田信忠は自刃して果てます。

また、それと同時に二条御所も炎に焼かれて消失しています。

豊臣秀吉の妙顕寺城(1583年~1587年)

本能寺の変の後、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いを勝ち抜き、織田信長の後継者として躍り出た豊臣秀吉は、自身の本拠地を大坂城に定めます。

また、京都における拠点も必要ということで、豊臣秀吉は、天正11年(1583年)に元々日蓮宗大本山・妙顕寺があった場所に同寺を移転させて築いた城が豊臣秀吉の二条城です。妙顕寺を移転させて築かれた城であるため、妙顕寺城とも呼ばれます。

天守が建てられていたと伝えられ、また目立ちたがり屋の豊臣秀吉が建てた城ですので、立派な城であったのではないかと思われますが、城の範囲や施設などは確定しておらず、そのほとんどが謎となっている城でもあります(付近の地名に「古城町」「下古城町」とある現在の二条城の東200m(現在の中京区小川押小路)付近と考えられています。)。

妙顕寺城は、普段は政庁として前田玄以が使用し、豊臣秀吉が在京する際は豊臣秀吉の本拠として使用されました。天正少年使節を引き連れた巡察使ヴァリアーノが泊まった城でもあります。

もっとも、その後、天正15年(1587年)9月、(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に聚楽第が完成したため、妙顕寺城はその役割を終え破却されています。

徳川家康の二条城(1603年~現在)

そして、その後、徳川家康によって築かれたのが、現存する世界遺産・二条城です。

徳川家にとっての二条城の意味

江戸幕府初代将軍徳川家康が、慶長8年(1603年)に、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため、大宮押小路にの町屋を立ち退かせ、大工棟梁である中井正清の指揮の下で西国諸大名による天下普請で築城された城です。

この当時、京には伏見城という豊臣秀吉時代から続く巨城が残されており、この伏見城に徳川家康が長く入っていたことから、徳川家康が在京するためには伏見城を利用すればよく、わざわざ二条城を築城する必要はなかったはずです。

そのような状況下であるにも関わらず、徳川家康があえて二条城を築城した理由は、二条という立地にあります。

足利将軍家の御所があったことからも明らかなように、二条は武家の棟梁の居所という重要な意味がある場所であり、ここを押さえることが、源氏長者となっていう征夷大将軍にって豊臣家から天下を簒奪しようと試みる徳川家康にとって、自らの正当性を周囲に知らしめることを意味したからです。

徳川家康二条城の城郭構造

なお、二条城の敷地は、平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがあり、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説がありますが定かなことはわかっていません。

現在の二条城は、本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類され、本丸が中央より西寄りに配されています(もっとも、創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」でした。)。

本丸は約150m四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られています。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれています。

将軍滞在の城としては規模も小さく防御上の問題も散見されますが、徳川家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」としてあえてこの程度の城の規模にとどめたと言われています。

徳川家康がこの城から参内して征夷大将軍を拝命し、15代将軍・徳川慶喜がこの城で大政奉還の宣言(将軍職の返上)を行ったことから、江戸時代の初めと終わりを見届けた感慨深い城でもあります。

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