【岐阜城(日本100名城39番)】濃尾平野を牛耳る織田家3代の居城

岐阜城(ぎふじょう)は、現在の岐阜市金華山(かつての美濃国井之口山・稲葉山)を利用して築かれた戦国山城です。

築城当初は東国にあった鎌倉幕府による、西国の朝廷に対する抑えとして築かれた砦(井口砦)にすぎなかったのですが、戦国時代に美濃国を治めることとなった斎藤家によって大改修がなされて稲葉山城となりました。

その後、同城に拠点を移した織田信長が、大規模改修を行うと共に岐阜城に名を改めたことで有名です(なお、このとき城下町も井口から岐阜に改名しています。)。

急峻な山に築かれた城であったことから山頂部に十分な平坦を確保できず、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は西麓の槻谷(けやきだに)に設けるという戦国期山城によく見られる二次元分離構造となっています。

織田信長が居城としたこともあって堅城と考えられがちな岐阜城ですが、急峻な山に築かれた城であるために平坦部が少なく籠ることのできる兵数が少ないこと、山自体が岩盤で構成されていることから井戸がなく水の確保が困難であったことなどからその防御力は高くなく、何度も落城している問題点の多い城でもありました。

岐阜城築城

立地

岐阜城は、濃尾平野の北端部に位置し、また長良川沿いにあることから同川を管制できる絶好の場所に位置しています。

もっとも、岐阜城の防御能力は高くなく、その山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはいるものの平坦面は少なく大軍を収容できる構造となってない上、チャートの堅い岩盤上に建てられているために井戸を掘っても水は出ず雨水を貯めてしのがなければならないという籠城に不向きな城という脆弱性を有しています。

そこで、岐阜城は、本城の防衛力だけではなく、周囲に張り巡らされた支城群(丸山砦・松田尾砦・稲荷山砦・稲葉山砦・相場山砦・権現山砦・瑞龍寺山砦)との相互連携をもって防衛する構造となっていました。

もっとも、単体での防御力の脆弱性を覆すまでには至らず、岐阜城は歴史上何度も落城を経験しています。

岐阜城は、これらの軍事的脆弱性を有しながら、それを超える経済的利点があったからこそ、斎藤家・織田家の居城として存在していたのです。

井口砦の設置(1201年)

岐阜城は、鎌倉時代初期である建仁元年(1201年)、鎌倉幕府政所別当であり、十三人の合議制の構成員の1人でもあった二階堂行政が、当時まだ強い軍事力を有していた朝廷に対する抑えとして井口山(金華山)に砦を築いたのが始まりとされています。

その後、伊賀朝光(二階堂行政の娘婿)・伊賀光宗(伊賀朝光の次男)・稲葉光資(伊賀光宗の弟)・二階堂行藤(二階堂行有の子)と砦主が移り変わっていったのですが、承久の乱とその後の六波羅探題の設置によって朝廷が力を失ったために朝廷に対する抑えという役割が必要ではなくなります。なお、砦主変遷の過程で稲葉光資が支配するに至った時期に、井口山(金華山)が稲葉山と呼ばれるようになっています。

そこで、井口山に築かれた砦は、鎌倉時代中期頃に一旦放棄されます。

稲葉山城築城(15世紀中頃)

室町期に入ると、美濃国は、美濃国守護である土岐氏やその守護代斎藤氏により統治されて戦乱を避けて集まった京の文化人が集まり、守護所のあった革手城を中心に栄えます。

その後、美濃国の守護所は、革手→福光→枝広(枝広館が天文4年/1535年の洪水で流出)→大桑と移っていったのですが、美濃国の守護所が枝広館または大桑城にあったころ、斎藤道三の父である長井新左衛門尉が稲葉山を拠点としていたところ、天文2年(1533年)に長井新左衛門尉が死去したため、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)がその後を継ぎ、稲葉山付近を治めることとなりました。

天文8年(1539年)頃、守護代となっていた斎藤道三が、丸山にあった伊那波神社を現在の場所に移転させ、稲葉山山頂に稲葉山城の築城と、その山麓部に井口の町の整備を始めます。

そして、天文10年(1541年)、斎藤道三が美濃国守護であった土岐頼芸を追放して美濃国の統治権を奪取したことにより、以降、美濃国の政治は、斎藤道三の本拠地であった稲葉山城によって行われることとなったのです。

その後、弘治2年(1556年)5月、長良川の戦いにより斎藤道三がその子斎藤義龍に討ち取られたため、稲葉山城は斎藤義龍の居城となったのですが、永禄4年(1561年)6月、斎藤義龍が急死し、その子である斎藤龍興が13歳で家督を継いで稲葉山城主となります。

もっとも、若い斎藤龍興では家臣団を統制しきることができず、永禄7年(1564年)3月に安藤守就・竹中半兵衛重治らが造反して挙兵し、稲葉山城を奪取するなどして家中の混乱が頻発します。

織田信長の居城となる(1567年8月)

斎藤家の家中混乱に乗じて中美濃を制圧した織田信長は、続けて西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)を調略して西美濃にも侵攻して斎藤家の本拠地である稲葉山城を孤立させます。

その上で、永禄10年(1567年)8月1日、内通した西美濃三人衆の案内によって稲葉山城を包囲攻撃して、同年8月15日に斉藤龍興が織田信長に対して稲葉山城を明け渡した結果、織田信長は、中美濃に続いて西美濃までをも平定してしまいます。

こうして尾張国・美濃国(東美濃除く)の2ヶ国を領する大大名となった織田信長は、改めて幕府再興を志す意を込めて「天下布武」の印を使用し始め、また京に向かって進んでいくために本拠地をそれまでの小牧山城から京に続く街道に近い稲葉山城(岐阜城)に移転して天下統一事業に乗り出していきます。

岐阜城への改名と大改築

稲葉山城に入った織田信長は、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改め、岐阜城と岐阜の町の大改築を始めます。

織田信長嫡子・織田信忠入城(1576年)

その後、織田信長は、天正3年(1575年)11月28日、岩村城の攻略などで目覚ましい活躍ぶりを見せた嫡男・織田信忠に織田弾正忠家の家督を譲り、翌天正4年(1576年)には尾張国・美濃国と共に当時の織田家本拠地であった岐阜城を与えます。

そして、織田信長自身はより京に近い近江国の安土山に新城を築いて同城に入城します。

織田信長嫡孫・織田秀信入城(1592年)

天正10年(1582年)6月2日、反旗を翻した明智光秀によって織田信忠が討ち取られると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握したのですが、山崎の戦いで、織田信孝を擁した羽柴秀吉が明智光秀を打ち破ると、斎藤利堯は、不破郡長松に出向いて織田信孝らに服して岐阜城を返上します。

同年7月16日の清洲会議の結果、織田信孝が織田信忠の遺領である美濃国を拝領して岐阜城に入り、織田信忠の嫡子であった三法師(後の織田秀信)を取り込んでしまいます。

これに対し、天正11年(1583年)1月13日、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田元助らが大軍を率いて織田信孝に圧力をかけると、これに抗しきれないと判断した織田信孝は、三法師を羽柴秀吉に引き渡します。

同年6月6日、織田信孝は、長島城主の滝川一益、北之庄城主の柴田勝家らと呼応して再度挙兵したのですが、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れた後、岐阜城が織田信雄によって包囲されると、織田信孝も降伏します。

その後、美濃国に13万を与えられた池田恒興が大垣城に、その嫡男である池田元助が岐阜城に入ったのですが、天正12年(1584年)4月9日の長久手の戦いで池田恒興・元助親子が討死したため、戦後、池田輝政が大垣城を経て岐阜城に入ります(なお、江戸時代の地誌である美濃明細記では、このとき入った池田輝政によって天守が築かれたとされています。)。

その後、小田原征伐の功により池田輝政が三河国吉田15万2000国石に加増・転封されると、代わって豊臣秀勝が岐阜城に入ります。

もっとも、朝鮮出兵中の豊臣秀勝が、文禄元年(1592年)10月14日に死没したため、代わって織田秀信(幼名・三法師)が美濃国13万石を与えられて岐阜城に入ります。

岐阜城に入った織田秀信は、奉行をおいて民政・治水・財政を規律すると共に、鏡島湊に特権を与えて保護するなどして地域流通網の掌握に取り掛かります。

岐阜城の縄張り

岐阜城は、標高328.77mの金華山に築かれた山城です。

岐阜城は、長良川沿いの険しい山に築城することとなったのですが、険しい山であったがために山頂付近の斜面を広く平坦化して十分な平地を確保することができませんでした(山麓から見上げるとその急峻度がよくわかります。)。

そこで、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は山麓に設けるという二次元分離形態で城域が構成されることとなりました。

そして、その上で、城郭部と居館部を結ぶ登城路や、その他の山中の要所に防衛曲輪を配するなどして金華山そのものを要害化し、城域全体で防衛する構造を採用しています。

山麓居館部

岐阜城山麓居館部は、斎藤家支配時代に山の西麓にある谷川を中心とした斜面(槻谷・けやきだに)に石垣や巨石列を用いて段々の平坦地を造り出され、居住用地として造成された場所です。

その後、岐阜城に入った織田信長によって大規模改修が行われ、最上段の千畳敷と呼ばれる場所に南蛮様式を取り入れた4層の天主(山麓に置かれたのが「天主」で、山上に置かれた「天守」とは区別してください。)と呼ばれる信長居館が置かれていたと考えられています。

もっとも、織田信長自身は山頂に居住していたことから、信長居館と言われる山麓の建物(天主)は文字通りの織田信長の居所ではなく、織田家の政庁や迎賓館として使用された建物です。

そして、天主に通じる道の両端には2m前後の巨石を基にした塀が巡らされ、大きな池の南北に建物が2つあり大きな庭園があったことが明らかとなっており、織田信長の居館が設けられていたと推定されます。

実際、多くの有力者が招かれて接待用にも用いられ(ルイス・フロイスが訪れた記録もあります)、関ヶ原の合戦の前哨戦のころまで使われていました。

なお、平成23年(2012年)11月26日、信長時代の遺物と推測されるボタンとキクを意匠とした瓦の一部(28cm四方・厚さ3cm)が発見されたのですが、この瓦には金箔が貼られた痕跡があったことが判明しています。

山林部

前記のとおり、岐阜城は、山上城郭部と西山麓居館部が中心となっているのですが、その他の山林部にも随所に防衛曲輪を配するなどして金華山そのものを要害化して使用していました。

現在七曲口とされているのがかつての大手道であり、平時の岐阜城への通行路として使用される最もなだらかな登山道とされており、この道を登りきると、硝煙庫(現在はリス村)の東脇に出ます。

大手道と言う性質上、道中には砦の跡が多く見られ、大堀切や、岩場を削った跡や道の端に積み石も残されています。さらには、現在石段がある直線的な現登山道から外れた旧登山道も所々に残されております。

七曲口は、稲葉山城の戦いでは西美濃三人衆が、岐阜城の戦いでは福島正則隊が攻め上がったことでも知られています。

山上城郭部

岐阜城の山頂城郭部は、岐阜城の防衛拠点であり、本丸を中心に配置し、そこに向かう尾根沿いに放射状に曲輪が配置されています。

そのため、岐阜城は連郭式山城に区分されます。

(1)硝煙蔵

硝煙蔵は、岐阜城への大手道である七曲口から登ってきた場合に最初に入ることになる曲輪です。

現在、太鼓櫓跡地にはリス村が建てられています。

(2)一ノ門

一ノ門は、大手道を登って硝煙蔵を突破してきた敵兵や、南側から尾根を上ってきた敵兵が通過しなければならない門です。

一ノ門は、岩盤の高まりの周りに石垣と巨石石垣を組み合わせて築かれており、岩盤上面を平坦に見つかった3ヶ所の加工跡に門柱が立っていた可能性が考えられます。

また、一ノ門の構造と平面形が大桑城(現在の岐阜県山県市)に存する岩門に類似していることから、大桑城と同時期である斎藤家時代に築かれた可能性が高いと考えられています。

なお、一ノ門周辺の岩盤が火を受け赤く変色しており、その周囲から焼けた瓦や壁土が見つかっていることから、織田信長入城後に瓦葺の門に改修された後、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原合戦の前哨戦である岐阜城の戦いの際に火災消失したと考えられます。

(3)太鼓櫓

太鼓櫓は、一の門と馬場の西側高地にある10間(絵図では約18m×約10m)の曲輪であり、一ノ門を突破しようとする敵兵を上方から攻撃するために用いられました。

現在、太鼓櫓跡地にはレストランが建てられています。

(4)伝馬場

伝馬場は、一ノ門と二ノ門との間の通路となっている場所に設けられた10間のスペースです。

正確なところは不明ですが、江戸時代の絵図などに馬場と記されていることから、山上城郭部まで上ってくるのに乗っていた馬から降り、その際に降りた馬を繋いでおく場所であったと考えられています。

(5)堀切(切通)

堀切は、尾根を遮断するために掘られた堀であり、江戸時代には切通と呼ばれました。

岐阜城の堀切は、太鼓櫓がある曲輪と天守がある曲輪とを遮断すために掘られていました。

平時には堀切には木橋が架けられていたため通行可能となっていたのですが、戦時には木橋が落とされ堀としての防御機能を有する構造となっていました。

(6)二の門

二ノ門は、江戸時代の絵図に下台所と記載された平らな曲輪の入口にあたる門です。

二ノ門付近では、斎藤期の石垣(角張った石材を垂直に隙間なく積んでいる)と織田信長入城後の石垣(丸みを帯びた石材を傾斜をつけて緩やか積んでいる)とが見つかっていますので、斎藤期に築かれた石垣を織田信長が発展利用したことがわかります。

(7)下台所

下台所は、二ノ門を突破した先にある曲輪です。

なお、下台所(二ノ門)の下から見上げた模擬天守が絶景だったりします。

(8)上台所

上台所は、下台所と天守の間に位置する曲輪です。

その上部と下部に貯水用の井戸が設けられています(もっとも、岩盤層にある岐阜城では、深く掘っても水が湧くことはないため、井戸と言っても水を汲み上げるものではなく、雨水を貯めておくための貯水施設として利用されていました。)。

(9)天守

① 往時の天守(1567年)

山頂には、永禄10年(1567年)に(山麓に置かれた「天主」とは区別をしてください。)が築かれました。なお、このときに設けられたと考えられる天守台の根石が北西部、南西部で発見されています。

建築当初の岐阜城天守の規模については、望楼型4層5階であったとする説から、4層4階だったとする説、織田信長期には平屋程度のものにすぎず織田信忠時代に高層建築が建てられたという説など諸説あり、正確なところは必ずしも明らかではありません。

その後、城主として入った池田輝政によって天守の改築が行われたのですが、岐阜城廃城後に建てられることとなった加納城に移築され、加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として利用されました(享保13年/1728年の落雷により焼失)。

② 初代復興天守(1910年~1943年)

その後、岐阜市保勝会の手により、明治43年5月15日、長良橋の古材を利用した木造・トタン葺き3層3階建て、高さ15.15mの3層3階の模擬天守が再建されました。

この復興天守は、内部が吹き抜け構造となっており、日本初の城跡に常設された観光用模擬天守でした。

もっとも、この復興天守建築に際して天守石垣を一回り小さく積み直してしまったため、残念ながら天守台の石垣の形状は失われてしまっています(石自体は往時のものです。)。

その後、昭和18年(1943年)2月17日 、失火によって初代模擬天守が焼失します。

なお、このとき、模擬天守に展示してあった織田信長の遺髪なども同時に焼失しています。

③ 2代目復興天守(1956年7月25日~現在)

その後、昭和31年(1956年)7月25日、鉄筋コンクリート建築により独立式望楼型3重4階の2代目復興天守(延べ面積461.77m²・棟高17.7m)が建築されました。

この復興天守は、加納城御三階櫓の図面・古文書・丸岡城など参考に城戸久名古屋工業大学名誉教授が設計し、大日本土木によって施工されたのですが、この復興天守建築の際に土台部分の石垣内部に大掛かりな補強がなされたため、往時の礎石等の遺構の多くが失われたと考えられています。なお、復興天守の設計図の複製(岐阜城天守閣再建設計図)が岐阜県図書館に所蔵されているのですが、実際に建てられた復興天守は設計された物とは異なっています。

この復興天守は、山頂構造物として現存しており、1階が武具の間、2階が城主の間、3階が信長公の間(資料展示室)、4階が望楼の間(展望室)として利用されています。

(10)裏門(搦手門)

岐阜城裏門は、北側斜面から岐阜城への出入りをする際に通過する門であり、北側を登ってくる敵兵に対する防衛施設でもあります。

裏門があったとされる場所では、登山道の脇を固める石垣の巨石の一部が発見され、また鼻高登山道側で斎藤期の古い石垣も発見されています。

城下町

岐阜城城下町は、斎藤道三が稲葉山城を居城として使用し始めた後、山麓居館部の面前に拓かせた井ノ口の町がその始まるです。

その後、織田信長によって改名された岐阜城下は、長良川水運の要衝として諸国から集まった物資や商人で溢れ、ポルトガル人宣教師・フロイスが「(大いなる都)バビロンのよう」と形容するほど栄えました。

岐阜城廃城

岐阜城の戦い(1600年8月23日)

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いに際し、岐阜城主であった織田秀信は石田三成率いる西軍に与します。

そのため、関ヶ原の戦い本戦に先立ち、西進してくる東軍の攻撃対象となり、同年8月23日、池田輝政や福島正則らの攻撃を受けて陥落します(岐阜城の戦い)。

岐阜城廃城(1601年)

その後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、大規模改修が困難な山城では戦術の変化(鉄砲、兵数の増加)に対応できないと考え、防衛力の低い岐阜城の廃城を決めます。

そこで、徳川家康は、慶長6年(1601年)に岐阜城を廃城とした上で、娘婿である奥平信昌に10万石を与えて、同城の約4km南方に平城となる加納城を築かせます。

このときの加納城築城に際し、岐阜城にあった天守・櫓・城域の石垣などは加納城に、御殿などは赤坂のお茶屋敷に移されたといわれています。

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