お愛の方は(おあいのかた)は、徳川家康の側室となって江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだ女性です。
実父や夫を相次いで戦で失うなどのつらい前半生を送った後、徳川家康に見初められて側室となり、武田家との戦いに明け暮れていた時期の徳川家康を公私ともに支えました。
徳川家康の側室となる前は「お愛の方」と呼ばれ、側室となった後は「西郷局」と呼ばれていますので、西郷局という名称の方が有名かもしれません。
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お愛の方の出自
出生(1552年?)
お愛の方は、遠江国上西郷(現在の静岡県掛川市内)の住人として今川家に仕えていた西郷十八士の一人である戸塚忠春の子として生まれます。
生年ははっきりとしていませんが、天文21年(1552年)とする説があります。
母は、東三河国衆として現在の豊橋市西郷校区辺りに本拠を置いていた源姓土岐氏流三河西郷氏の西郷正勝の娘です。
祖父・西郷正勝に育てられる(1554年)
天文23年(1554年)に勃発した今川・武田の戦いである大森の戦において父・戸塚忠春が戦死したため、お愛の方は、母に連れられて母の実家に戻ることとなります。
そのため、以降、お愛の方は祖父である西郷正勝の下で育てられることとなりました。
養父・服部正尚に育てられる(1561年)
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦い後のどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康(このときは松平元康と名乗っていたのですが、本稿では便宜上徳川家康の表記で統一します。)が、独立のための準備として三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛けていきます。
徳川家康の働きかけに対し、永禄4年(1561年)に、東三河の国衆の1家であった西郷正勝が今川氏真を見限って徳川家康(当時は松平元康)に与するという決断をします。
その後、西郷正勝は、西郷家と徳川家(当時は松平家)との関係を強化するため、同年、お愛の方の母である西郷正勝娘を徳川家康の家臣であった服部正尚に嫁がせることとします。
この結果、お愛の方も母に従って服部正尚の下で育てられることとなりました。
西郷義勝の継室となる(1568年)
その後、お愛の方は、一旦は最初の夫に嫁したものの夫に先立たれて寡婦となったのですが、17歳となった永禄11年(1568年)、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝(祖父・西郷正勝の嫡孫)の継室となります(西郷義勝が最初の夫であるとする説もあります。)。
そして、お愛の方は、その後に西郷義勝との間に1男1女を儲けます。
西郷義勝戦死(1571年)
今川領切り取りの際のゴタゴタを理由として徳川家康と武田信玄との関係が悪化し、元亀2年(1571年)、秋山虎繁率いる武田軍が徳川領に侵攻してきます。
このとき、お愛の方の夫である西郷義勝が、菅沼定盈と共に迎撃したのですが(竹広合戦)、この戦いで西郷義勝が戦死し、お愛の方は再び未亡人となってしまいます。
西郷義勝が死去したことにより西郷家の家督承継が問題となったのですが、お愛の方が生んだ男子は幼過ぎて家督を継げませんでした。
そのため、夫の死により西郷家中に行き場のなくなったお愛の方は、養父・服部正尚と母・西郷正勝娘の下に身を寄せることとなります。
徳川家康の側室となる
徳川家康の側室となる(1578年)
お愛の方が服部正尚の屋敷に身を寄せたころ、その妻である西郷正勝娘(お愛の方の母)が、徳川家康の側室であった西郡局の侍女を務めていたため、その縁でお愛の方もまた西郡局を面識を持つようになります。
西郡局は、美人で聡明なお愛の方を気に入り、徳川家康に対して側室として迎えるよう勧めます。
これに対し、徳川家康もまたお愛の方を気に入ったこと、また東三河衆の取り込むために有益であると判断したことから、天正6年(1578年)3月、伯父・西郷清員の養女とした上でお愛の方を側室として迎え入れます。
なお、お愛の方は、西郷家の姫として迎え入れられたため、徳川家康の命で西郷局と改めています。
お愛の方は、美人かつ聡明であった上、温和誠実な人柄であったことから、徳川家康の信頼が厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていました。
また、自身が強度の近眼であったことから盲目の女性に同情を寄せており、常に衣服飲食を施し生活を保護するなどしていたようです。
徳川秀忠出産(1579年4月7日)
お愛の方は、徳川家康の側室となった翌年の天正7年(1579年)4月7日に、徳川家康の三男である徳川秀忠を生みます。
松平忠吉出産(1580年9月10日)
また、天正8年(1580年)9月10日にも、徳川家康の四男である松平忠吉を生んでいます。
なお、この頃には、築山殿は徳川家康の正室の地位を失っていたと考えられており、徳川家康は、正室である築山殿の許可なく徳川秀忠・松平忠吉を子として認知しています。
お愛の方の最期
お愛の方死去(1589年5月19日)
天正14年(1586年)、お愛の方は、徳川家康に従って駿府に移ります。
その後、お愛の方は、天正17年(1589年)5月19日、駿府で死去します。享年は28歳でした(30歳説あり)。
法要
お愛の方は、天正17年(1589年)のうちに龍泉寺に葬られ、竜泉院殿との法名が付されます。
その後、龍泉寺は、慶長9年(1604年)に現在地(現在の静岡県静岡市葵区常磐町二丁目)に移転された後、寛永5年(1628年)にお愛の方の法要を営むために徳川秀忠によって大伽藍が建立されました。
そして、このときの法要に際して、お愛の方に「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」(法台院殿)の戒名が付されたことから、竜泉寺の寺名に「宝台院」の表記が付されて金米山宝台院龍泉寺となり、以降一般に「宝台院」と呼ばれるようになりました。