【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉

低い身分から成り上がり、ついには天下人にまで上り詰めた人物として有名な豊臣秀吉ですが、実は死ぬまで羽柴秀吉だったことご存知ですか。

羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したかのようなイメージを持ちがちですが、実際には違います。

豊臣=氏・羽柴=名字(苗字)であり、豊臣氏を下賜された後も羽柴という名字を変更していないため、豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのです。

死ぬ直前の名乗りは、豊臣朝臣太閤羽柴秀吉であり、羽柴という名字を最期まで使用しています。

本稿では、戦国時代頃の名前の付け方を踏まえて、豊臣秀吉の名前の変遷について説明したいと思います。

戦国時代の人物特定方法

平安時代頃から江戸時代が終わるまでの間では、武士などの支配階級にある人物の名乗り(特定方法)については、現在とは異なってコロコロ変わっていくものでした。

生れてすぐ幼名が付され、その後は通称で呼ばれ、元服時に諱をもらうという複雑な改名がなされるのが一般的であり、元服時に決まった名前(諱)や仮名(通称)についても、後に変わってしまうことも珍しくありませんでした。

現在の歴史の教科書などでは、人物特定について「名字+諱」という単純表記で示されているために混乱を助長しているのですが、それは単に正式名称で表すと長くなるという理由で省略されているからに過ぎません。

そこで、まず、以下でこの平安時代から江戸時代にかけての間の支配階級の人物特定方法について簡単に説明した上で、豊臣秀吉(時期ごとに名乗りが変わっていますが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一します。)の名乗りの変遷を解説します。

幼名

平安時代から江戸時代にかけての間では、武士や貴族などの支配階級の者に子ができると、まずは「幼名」(おさな名・小字)が付され、15〜16歳となって元服するタイミングで諱などの新しい名が付けられるのが一般的でした(他方、農民などの被支配階級では生涯幼名を使用するのが一般的でした。)。

わざわざ幼名を付した理由は、かつての幼児は病などで命を落とすことが多く成人するかどうかの確証がなかったため、正式な諱は成人してから付されることとされたためです。

そして、幼児の病は怨霊や穢れによるものと考えられていたため、幼児が怨霊や穢れに魅入られないようにするため、幼名としては、厄除けの意味を込めて一般的に忌避されるものや神仏の名前が使われることが多くありました。

なお、幼名の例としては、織田信長の吉法師、徳川家康の竹千代、伊達政宗の梵天丸などが挙げられます。

元服後の人物特定方法

幼名を付された支配階級の子は、15〜16歳となって元服する際に諱が与えられ、これにその人物の血筋・職能・家名・通称を加えて、その人物を特定する名が出来上がります。

なるべくわかりやすくするために、この複雑な名の表現方法として、織田信長を例に出して説明します。

まず、「織田信長」という表記ですが、これは現在の表現方法にあてはめた名字+諱という省略表現であり、当時の表記としては正確ではありません。

織田信長の正式名称は、時期によって異なるものの、一般的には「平朝臣織田上総介三郎信長」です。

織田信長のこの長い正式名称は、分解してみると、平=氏、朝臣=姓、織田=名字、上総介・三郎=仮名・字(あざな)、信長=諱(いみな)に区分され、これらが組み合わさって正式な名となるのです。

以下、氏・姓・名字・仮名・諱について、簡単に説明します。

① 氏(うじ)

氏は、その人物の血筋を表すものです。

天皇に仕える血族集団に与えられるものでしたので、基本的には天皇から賜ることにより称することができるものとされました(源・平・藤原・橘など)。

織田信長の氏が平ということは、桓武平氏の流れをくむ家であることを表しています。

なお、氏については、「の」を入れて読むのが一般的です(たいら「の」きよもり、みなもと「の」よりとも等)。

② 姓(かばね)

姓は、職業を基準とした出自・地位を表すものであり、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓により、上から真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8種類が置かれ、氏族の身分秩序を確立が図られました。

このうち、最高位である真人が皇族にしか与えられないものであったため、皇族以外の者にとっては朝臣が最高位となっていました。

もっとも、時代が下って平安時代になると「源、平、藤原、橘」などが隆盛し、その末裔たちの姓がほとんど朝臣になったため、姓そのものの意味がなくなってしまったのですが、朝臣という形式的な名称自体は江戸時代まで残り、公式文書などで使用され続けました。

③ 名字(苗字)

名字は、その人物の自分の家を表すものです。

氏と名字の違いが分かりにくく混同しがちなのですが、氏=血筋(先祖の最初の人が天皇から与えられたもの)、名字=家柄(分家を立ち上げた人が決めるもの)というイメージです。

古くは氏により血族集団が区分されていたのですが、元々氏の種類が多くなかったこと、時代が下って行くにつれて同一の氏を名乗る人物が多くなってしまったことなどから区別が困難となります。

そこで、氏という血筋から、分岐された家に重点を置き(イメージとしては分家)、区分するために設けられたのが名字です。

例を挙げると、「氏=藤原・名字=近衛」や、「氏=源・名字=足利」などがわかりやすいかと思います。

名字としては、分家を立ち上げた人物が土着した場所の地名を名乗ることが多かったといわれています。

④ 諱(いみな)

諱とは、中国の伝統を取り入れた実名(本名)をいい、の漢文表記にのっとって呼ばれました。

そして、諱については、中国の実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想がそのままとり入れられたため、諱を呼ぶことは親など親しい人を除いてとても失礼にあたるとされ、日常的に使われることのない名として定着しました。

織田信長の場合、「信長」が諱にあたります。

⑤ 仮名(けみょう)・字(あざな)

前記のとおり、通常の会話で諱を使うことはできませんので、日常的には、個人で区別のつけやすい通称名である「仮名」が使用されました。

そして、この仮名としては、通称や官職名があてられることが一般的であり、織田信長の場合、「上総介」や「三郎」がこれにあたりました。

補足(諱と通称の併称禁止・1872年)

以上のとおりの複雑な人物特定方法ですが、明治3年(1870年)12月22日の太政官布告「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」・明治4年(1871年)10月12日の太政官布告「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」・明治5年(1872年)5月7日の太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」により、諱と通称を併称することが公式に廃止され、全ての国民は戸籍に「氏」及び「名」を戸籍に登録することとなって現在のような氏名制度となりました。

豊臣秀吉の名の変遷

以上の氏・姓・名字・仮名・諱という名乗りの原則を前提として、豊臣秀吉の名の変遷を見ていきましょう。

幼名:日吉丸?(1537年?)

確定的な史実を示すことが出来ていないものの、豊臣秀吉は、天文6年(1537年)、大政所の子として生まれたとされています。

もっとも、実父については同時代史料に素性を示すものはなく、織田家に仕える足軽であったとする説もあるのですが、苗字を名乗る地盤すら持たない階層(農民など)だった可能性もあり、正確な出自は不明です。

豊臣秀吉の幼名は、絵本太閤記などでは「日吉丸」であったなどとされているのですが、軍記物の記載に過ぎませんので正確なところは不明です。

木下藤吉郎秀吉(1561年8月)

天文20年(1551年)頃に実家を飛び出した豊臣秀吉は、天文21年(1552年)頃に今川家直臣である飯尾家の配下であった頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えた後、天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕えます。

その後、清洲城の普請奉行・台所奉行などで功績をあげ、織田家中で出世をしていった豊臣秀吉は、永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おねと結婚します。

このとき、おねの実父である杉原定利が、元々木下定利と名乗っていたため(杉原家利の娘を室とし、その婿となって杉原家に入っていた)、おねが従前名乗っていた木下という名字にちなみ、結婚を機に「木下藤吉郎秀吉」に改名したものと考えられます。

これを分割すると、木下=名字、藤吉郎=仮名、秀吉=諱となります。

なお、「木下藤吉郎秀吉」の名が見られる最初の文書は永禄8年(1565年)11月2日付坪内利定宛の知行安堵状にある「木下藤吉郎秀吉」との副署が初見です(坪内文書)。

羽柴筑前守秀吉(1575年7月)

織田信長が槇島城を陥落させて足利義昭を追放して室町幕府が事実上滅亡した元亀4年(1573年)7月20日、豊臣秀吉は、名字を「木下」から「羽柴」に改めます。

このとき選ばれた羽柴という名字については、柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ取ったとされているのですが(豊鑑)、豊鑑における名乗り時期が実際に羽柴を名乗った時期と異なっていることから、この説には疑問も呈されています。

そして、その後、天正3年(1575年)7月3日に筑前守に就任したことから、同日以降、羽柴筑前守秀吉と名乗ることとなりました。

羽柴=名字、筑前守=仮名・秀吉=諱です。

平朝臣羽柴秀吉(1584年)

また、豊臣秀吉は、本能寺の変により織田信長が横死した後、織田家の人間よりも自らが次期天下人に相応しいことを世間に示すため、織田家の誰よりも高い官位となるよう積極的に朝廷に接近していきます(織田家から天下を簒奪するための正当性として、織田信長の事実上の後継候補であった織田信孝・織田信雄よりも高位である必要があったのです。)。

その結果、豊臣秀吉は、朝廷から次期天下人候補として認められ、天正12年(1584年)10月に初めて従五位下・左近衛権少将の官位を与えられます。

官位が与えられる際には氏を記載する必要があるため、豊臣秀吉は、この頃から平氏を称し始めます。

この名乗りを分割すると、平=氏、朝臣=姓、羽柴=名字、秀吉=諱です。

なお、数ある氏の中から平氏を選んで自称した正確な理由は不明ですが、主君であった織田信長を模倣したものと考えられています。

その後、1月後の同年11月21日、従三位・権大納言に任じられて一気に公卿に上り詰め、天正13年(1585年)3月10日には正二位・内大臣宣下を受けます。

藤原朝臣羽柴秀吉(1585年7月)

朝廷内で順調に官位を高めていった豊臣秀吉でしたが、さらなる好機が到来します。

豊臣秀吉が、長年譲位の妨げになってきた仙洞御所を完成させたことにより、正親町天皇の譲位が具体化することとなったため、朝廷において論功行賞として新たな官職を与える必要が生じたのですが、ここで朝廷内で関白職を巡る近衛信輔と二条昭実との争いが勃発したのです(関白相論)。

このとき、近衛信輔と二条昭実のいずれもが豊臣秀吉を訪問して自己の正当性を主張し、その後ろ盾を得ようと画策してその仲裁を求めてきたのですが、ここで菊亭晴季が、先年の織田信長への三職推任問題を念頭においた上で豊臣秀吉に対して関白就任を勧めます。

豊臣秀吉も、この菊亭晴季の提案に同調し、近衛前久(元関白・太政大臣)に対して、豊臣秀吉を一旦近衛前久の猶子にして関白を継がせ、将来的に近衛信輔を後継として関白職を譲るという自身の関白中継ぎ案を提示します。

元々近衛前久と豊臣秀吉との関係は良好ではなかった上、藤原氏以外の者に関白職を就任させることに難色が示されたのですが、他方で、形式的に豊臣秀吉が近衛家の人間が関白職を継ぐこととなるため近衛家の面目が立つこと、将来的には近衛家に関白職が戻ってくることが約束されていること、この時点でもはや豊臣秀吉に対抗できる軍事勢力が存在せず事実状豊臣秀吉の圧力を覆す力がなかったことなどから、近衛家としても前記豊臣秀吉の提案を受け入れるほかはありませんでした。

この結果、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)7月に豊臣秀吉が関白職を引き継ぐために近衛前久の猶子となって「藤原」氏となり、名乗りを藤原朝臣羽柴秀吉と改めた上で、同年7月11日に従一位・関白宣下、内大臣如元を受けています。

この名乗りを分割すると、藤原=氏、朝臣=姓、羽柴=名字、秀吉=諱です。

豊臣朝臣関白羽柴秀吉(1586年9月9日)

相論収拾のための中継ぎとして関白職に就任した形であったため、豊臣秀吉の関白職はすぐに近衛信輔に譲られ、その後は以前のように五摂家間の持ち回りになるものと解釈されていました。

ところが、関白となった豊臣秀吉は、関白職を自らの一族で世襲したいと考えるようになります。

ここで、豊臣秀吉は、藤原氏から脱却して天皇から新たな氏の下賜を受けて武家の棟梁としての新氏を創設し、その氏によって関白職を世襲させていくシステムを構築しようと考えます(武家関白制)。

そして、豊臣秀吉は、天正14年(1586年)9月9日に正親町天皇から豊臣氏を賜り、同年12月25日に後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進します。

このとき貰い受けた氏が豊臣とされた理由については、古代豪族であった豊原と中臣から1字ずつもらったという説や、日本を平定して豊かさをもたらした臣であるからという説や、聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)にちなんだという説などがあるのですが、正確なところはわかっていません。

いずれにせよ、豊臣氏を貰い受けた結果、豊臣朝臣関白羽柴秀吉という名乗りとなり、これを分割すると、豊臣=氏、朝臣=姓、関白=字、羽柴=名字、秀吉=諱となります。

豊臣朝臣太閤羽柴秀吉(1591年12月)

古くから摂関・太政大臣現職者を指す尊称であった「太閤」と呼ばれる例があり、また摂政・関白を嫡男に譲った者が「太閤」と呼ばれることもありました。

豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月28日、養嗣子であった豊臣秀次を後継者と定め、豊臣秀次が豊臣氏の長者となり関白職を譲り受けます。

この結果、豊臣秀吉は、関白を譲った者として太閤と呼ばれるようになります。

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