天下三戒壇とは、奈良時代に、日本中でたったの3寺にのみ設けられた僧侶が正式な戒律を授かるための施設である戒壇の総称です。
具体的には、東大寺(奈良市)、下野薬師寺(栃木県下野市)、観世音寺(福岡県太宰府市)に置かれた3つの戒壇の総称であり、本朝三戒壇とも言われます。
呪術的・統治的要素を重視した国家宗教として発展した日本の仏教では、出家者の悟りの境地などの側面が重要視されなかったために出家者の規律が軽視され、戒律や授戒の制度が発展しませんでした。
そのため、日本では僧侶資格があいまいとなっており、各種義務を免れる目的で僧侶を名乗る者(私度僧)が続出するようになりました。
この事態を苦慮した朝廷は、中国から鑑真を迎えて正式な授戒制度を整え、厳格な僧侶資格制度を定めたのです。
その結果、奈良時代中期以降には、日本において僧侶となるためには授戒を経なければならないとされ、その授戒の場とされたのが天下三戒壇だったのです。
【目次(タップ可)】
天下三戒壇創建に至る経緯
仏教伝来当初の僧侶資格
元来、仏教では、僧侶となるためには、仏教の戒律を守って修行を行い、戒律を遵守することを誓って出家することが必要とされました(男性出家修行者を比丘、女性出家修行者を比丘尼と呼びました。)。なお、戒律とは、元々は出家者集団のルールであり、授戒とはこの出家者集団への参加資格を意味しており、自分で自分に誓うものを「戒」、集団内規則を「律」といいました。
そして、この戒を誓って僧侶となる手続きがが得度があり、三師七証と呼ばれる仏教教団の10名の先輩構成員(直接指導者である戒和上・遮難がないかを確認する教授師・儀式の進行役を勤める羯磨師の三人と、証人となる七人の僧侶)の承認が必要とされました。
もっとも、仏教伝来当初の日本には、三師七証により資格を得た正式な僧侶が数人しか存在しなかったためこれを行い得る有資格者が揃っていなかったこともあって正式な授戒の制度は存在しておらず、戒律を護ることを誓って得度を経ることで誰でも僧侶になれたため、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われていました。
自誓授戒の不都合性
奈良時代に僧侶となった者に対しては、朝廷から得度を証明する文書として度牒が発給され、得度者の氏名や年齢、本貫地などを師僧が保障し、労役・納税・兵役などの各種義務を免除するという特権が認められていました。
もっとも、自誓授戒の場合、僧侶資格を得るにふさわしい素養を有するかどうかのチェックがなされないため、形式的には誰でも授戒を受けることができてしまいます。
ましてや、当初の日本では、僧侶となった者に対して免税特権が認められていたため、律令制度が確立して納税義務が明確化されると、これらの義務を免れる目的で僧侶になる者(私度僧)が続出し、国家の財政を脅かす事態となります。
さらに、奈良時代の朝廷は、国家運営において仏教による呪力的要素が重要であると考えており、自誓授戒により適切でない者が僧侶になると、この呪力が低下し国家が乱れると考えたのです。
栄叡・普照を唐に派遣(733年)
聖武天皇は、前記の自誓授戒の不都合性を解決するべく正式な授戒制度を導入しようと考えます。
そこで、正式な授戒制度の前提となる三師七証を行うことができる僧侶を中国から招聘しようと考え、これらの者をスカウトするために2人の僧侶(栄叡・普照)を中国に派遣しました。
天平5年(733年)に入唐した栄叡と普照は、唐内各地を回って日本に赴くことを了承してくれる唐人僧侶10名のスカウトを始めます。
ところが、当時の唐からすると、日本ははるか東方に存する未開の地と考えられており、10年近く活動を続けたものの栄叡と普照の願いに応じてくれる僧侶はなかなか集まりませんでした。
鑑真が来日を決断(742年)
そうこうしている間に日本への帰国時期が迫った栄叡と普照は、天平14年(742年)、最後の望みをつなぐため、揚州の大明寺の住職であり、四分律に基づく南山律宗の継承者として4万人以上の人々に授戒を行ったとされていた江南一の高僧として名高い鑑真に対し、日本に赴いて戒律を日本に伝えて欲しいとのお願いをしたのです。
鑑真は、もうすぐ日本に帰らなければならないにもかかわらず僧侶を同行することが叶わなかった栄叡と普照を不憫に思い、この2人の願いを聞き入れ、自ら日本に向かう決意をします。
鑑真来日チャレンジ(743年~)
この結果、日本行きを決めた鑑真のみならず、鑑真をを慕った17人もの高弟達(うち5人は三師七証の有資格者)もまた鑑真と共に日本に向かうこととなりました。
もっとも、鑑真の渡海計画は、当時の唐が許可のない出航を禁じていたこと、高僧の流出を防ごうとする圧力があったこと、当時の航海技術がまだまだ未熟であったことなどの理由により、計5回(①743年・②743年・③744年・④744年・⑤749年)も失敗してしまいます。
しかも、749年になされた5度目の際には、鑑真の乗った船が揚州から出港した後に難破して海南島に漂着し、その後に海南島から揚州に戻ろうとする際に韶州付近で鑑真が失明するという悲劇に見舞われました(栄養失調?)。
以上のような5回もの失敗を経ても、鑑真の来日以降は揺るぎませんでした。
鑑真来日(753年12月)
その後、鑑真は、天平勝宝5年(753年)に日本に帰ろうとする遣唐使船に乗り込むことで出国を果たし、同年12月20日に薩摩国秋目(現在の鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着することで遂に日本にたどり着くことに成功します。
日本での戒壇の始まり(753年12月)
天平勝宝5年(753年)12月26日に大宰府に到着した鑑真は、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院において、自身が唐から連れてきた資格者5人(法進・普照・曇静・思祐・義静)と日本にいた資格者5人(菩提遷那・行達・良弁・道璿・隆尊・延慶のうち5名)の計10人で初の授戒を行います。
これが、日本における正式な戒壇の始まりでした。
天下三戒壇創建
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東大寺・戒壇院(中央戒壇)
その後、平城京に向かった鑑真は、天平勝宝6年(754年)2月4日に平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受けます。
そして、大僧都(僧侶の頂点)の位と東大寺に居所を与えられた鑑真は、さらに孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について一任を受けました。
そこで、東大寺を拠点として活動を開始した鑑真は、同年4月、居所とした東大寺大仏殿前に特設戒壇を築きました。
そして、鑑真は、同月以降、大仏殿の前の戒壇において、聖武上皇を始めとする計440人に次々と戒律(菩薩戒)を授けていきました(登壇授戒)。

その後、戒壇の場が大仏殿前の土壇から現在の地に遷して伽藍を配置され、正式な戒壇の地となる東大寺戒壇院が開かれることとなりました。
その後、東大寺戒壇院からは、多くの僧が誕生したのですが、律令制度の衰退に従ってその機能が失われていき、治承4年(1180年)、及び文安3年(1446年)に炎上し、現在は江戸時代に再建された千手堂・戒壇堂(県指定重要文化財)・庫裏を残すのみとなっています。
下野薬師寺・戒壇院(東戒壇)
朝廷は、東大寺戒壇に続き、東国での授戒の地として下野薬師寺(白鳳8年/680年創建、奈良薬師寺と区別するため下野の国名が付されて呼ばれます)にも戒壇を開基し、計10国(東北2国・東国8国)の授戒と信仰の中心寺院とされました。
なお、余談ですが、天平勝宝6年(754年)11月24日に薬師寺の僧であった行信が大神多(田)麻呂と共謀して厭魅を行うという事件が発覚して同人が同寺に、また宝亀元年(770年)には道鏡が同寺へ左遷されるという事件が起こっていることから、同寺が東国において特別な役割を担う官寺であったと考えられています。
その後、下野薬師寺は、平安時代の戒壇軽視の流れに逆らえず、特定の教団を持つことなく戒壇に拠って存続していてことにより一時衰退します。
その後、鎌倉時代の再興を経て暦応2年(1339年)に足利利尊氏によって寺名を安國寺に改称されたのですが、平成29年(2017年)の本堂・山門・庫裏・本尊並びに仏菩薩の修理をきっかけとして、翌平成30年(2018年)に寺名を下野薬師寺に戻し現在に至っています。
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現在、下層の調査によりかつての戒壇院跡と考え得る何らかの建物跡地に六角堂が再建されています。
観世音寺・戒壇院(西戒壇)

また、朝廷は、西国での授戒の地として、鑑真が来日して初めて授戒を行った地である観世音寺(7世紀後半創建)の西南角部にも戒壇(戒壇院・西戒壇・筑紫戒壇)を開基し、西国の授戒と信仰の中心寺院と定めました。
もっとも、観世音寺もまた、平安時代の戒壇軽視の流れに逆らえず、同時代以降徐々に衰退をしていきました。
なお、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人となっており、観世音寺とは宗派も異なる臨済宗とされています。
参考:唐招提寺戒壇
他方、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の勅により大和上に任じられた鑑真は、天平宝字3年(759年)に橘奈良麻呂の変に連座して領地が没収された新田部親王旧邸宅跡地を与えられて同地に移り住むこととなります。なお、鑑真が同年に大僧都の地位を失っていることから、既存勢力との勢力争いに敗れて東大寺を追い出されたとする説もあります。

同地に入った鑑真は、同地に存在する邸宅を改修することにより唐招提寺(当初の名称は、唐律招堤)を創建していき、同寺内にも戒壇を設置しています。
もっとも、天平宝字7年(763年)に鑑真が死去した後、奈良仏教界のトップに立った道鏡が平城京内に西大寺をはじめとするいくつかの巨大寺院を建立し始めたため仏教予算が道鏡系寺院に流れていくようになります。
その結果、唐招提寺の経営は苦しくなり、同寺の戒壇は中世期に至るまでの間に廃されてしまいました。
なお余談ですが、鑑真死後に建てられた唐招提寺金堂には、中央に廬舎那仏、向かって右側に薬師如来、向かって左側に千手観音が配されるという他に例を見ない配置で仏像が祀られているところ、これは中央に東大寺(東大寺の本尊は廬舎那仏)、東側に下野薬師寺(薬師如来)、西側に観世音寺(観音菩薩)を配することで日本の戒壇制度=鑑真の功績を表していると考えられています。
天下三戒壇創建後
天下三戒壇整備の結果
以上の結果、律令制度下では、中央は東大寺、東国は下野薬師寺、西国は観世音寺によって僧尼に対する正式な戒律教育が行われることとなり、またこれらの三戒壇に限って授戒が許されることとされました(俗世の者が僧侶になるためには、まずは得度を受けて僧侶見習い=沙弥となり、その後に授戒を受けて正式な僧侶=沙門となるという手順が必要となりました。)。
そして、これらの3つの特別な戒壇を総称して「天下の三戒壇」と称されるようになりました。
以上の天下三戒壇の整備により、日本において僧侶になるためには国家が管理する天下三戒壇のいずれかで授戒を受け、戒牒(かいちょう)を得ることが必須となりました。
この結果、僧侶の戒律が保たれるという良い結果となりました。
僧侶が特権階級となる
もっとも、その反面として、朝廷が僧侶の人事権を掌握することとなり、朝廷が国分寺を通じて仏教を管理する体制が確立することとなりました。
すなわち、朝廷は、授戒・得度を国家による許可制(年分度・臨時度)とし、年度や地域毎に僧侶になる人数を原則として10名に制限することとしたため、僧侶資格が狭き門となり、僧侶が奈良時代の時代を代表するトップエリートとなることとなったのです。
そのため、当然、僧侶となる者は貴族や豪族たちの子弟でそのほとんどが占められ、一旦僧侶となると、身分保障されて国が造営した寺院に配置されて経済的支援を受けました。
また、当時は、死後仏になって救われる=成仏できる人は僧侶だけと考えられており、僧侶の資格が一種の特権とされました。
最澄の疑問(785年)
以上の経過を経て、人事権を通じて仏教が国家に管理されることとなったのですが、これに疑問を抱く人物が現れます。
延暦4年(785年)に19歳時に東大寺戒壇院で授戒を受けて僧侶となった最澄です。
僧侶となった最澄は、自らの疑問に向き合うために既存の寺に入ることはせず、延暦4年(785年)、新たな教えを見つけるために故郷に近い神の宿る聖なる山・比叡山に入って修行を開始します。
そして、最澄は、延暦7年(788年)に比叡山に現在の根本中堂の前身となる一乗止観院(当初は、経蔵・薬師堂・文殊堂という三堂が並ぶ造りの小さなお堂群でした。)を創建し、成仏して救われるのが僧侶だけではなく、何人であっても成仏ができ救われるとの考えを持ち、広くこの教えを説いていきました。
この最澄の教えに同調する人が現れ始め、最澄の下に人が集うようになっていきます。
そんな中、比叡山で信仰を集めていく最澄に、延暦13年(794年)に平安京に遷都して京に移ってきた桓武天皇が目をつけます。
このときの桓武天皇は、政治体制の一新を図るため、平城京から長岡京、長岡京から平安京へと続け行う遷都という一大プロジェクトを推し進めている真っ最中だったのですが、最澄が多くの人の人望を集めていること、最澄がしがらみの多い奈良仏教と一線を画する存在であったこと、比叡山延暦寺が平安京の鬼門(北東)の方角にあったることなどから、桓武天皇にとって利になる人物と判断されたからです。
こうして、桓武天皇の庇護を受けることとなった最澄は、遣唐使として唐に赴いて本場の仏教を学んで帰国した最澄は、比叡山においてさらに仏に近づくための修行を重ねます。
そして、最澄は、目の前の出来事に最大限の努力をする、それが仏の道であるという境地「照千一隅(いちぐうをてらす)」に到達し、誰もが仏になれる道を拓き、その後の日本の仏教に多大な影響を与えます。
最澄は、比叡山延暦寺において自らの教えを実践するために務めていたのですが、比叡山延暦寺には戒壇がなかったため、同寺のみで人材育成を最初から最後まで完遂させることができませんでした。
そのため、最澄は、朝廷に対して再三再四、比叡山に戒壇設立を許す勅許を出すよう求め続けたのですが(山家学生式→顕戒論)、最澄の存命中にこれが許されることはありませんでした。
その後、弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かった最澄でしたが(その後、貞観8年/866年7月12日に伝教大師の諡号が勅諡されています。)、戒壇開設の許可を得ることなく同年6月4日辰の刻に死去し、比叡山東塔の浄土院に葬られました。
延暦寺戒壇院開設(822年6月)
もっとも、最澄の死去後、その死を惜しんだ藤原冬嗣・良峰安世・伴国通らが「山修山学の表」を嵯峨天皇に奏請して認められ、最澄死去の7日後である弘仁13年(822年)6月11日、ようやく比叡山に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立についての勅許が下りたのです。

この結果、比叡山延暦寺での授戒が可能となり、同寺での授戒の場となる戒壇院が設けられ、僧となることが許される者が生涯に一度だけ入ることが許される特別な場として位置づけられました。
この結果、後の高僧(法然・親鸞など)の多くが、この延暦寺戒壇院で受戒し、全国で活躍していくようになりました。
もっとも、中国の仏教界では延暦寺の大乗戒壇を戒壇としては認めず、同所で授戒した僧は中国では僧侶として認められませんでした。
授戒・戒壇の形骸化
以上の結果、一旦は確立した授戒制度でしたが、律令制の崩壊とともに授戒が形骸化し、戒壇の意味も薄れていきました。
そして、鎌倉時代に興った宗教革命で成立した鎌倉仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていきました。
その後、中世以降も、仏教各宗派の本山や末寺で形式的な授戒の儀式が行われ、その内容は宗派によって微妙に異なるが、剃髪して衣や袈裟、戒律などを授かることが一般的と言われています。