律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。
そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。
このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。
また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。
このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。
そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。
なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。
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律令制度下の役所
律令制下の役人である四等官制の説明する前提として、まずは律令制下の官制(役所)について説明する必要があります。
律令制度が成立する前のヤマト政権(倭)は、まだまだ大王の統治力が十分ではなく大王が各豪族を束ねていたものの連合の盟主的立場にあったに過ぎませんでした。
そのため、その支配構造は地方を支配する豪族を国造に任命し、この国造を通じて地方に中央の支配を地方に及ぼすという間接統治構造がとられました。
これがヤマト政権の限界だったのです。
そのため、ヤマト政権下では官制が整備されず、「 姓(カバネ)」と呼ばれる血縁集団から「 氏(ウジ)」と呼ばれる同族集団が現れ、この「氏」や「部(ベ)」と呼ばれる職能集団が、それぞれの勢力や能力によって王権内の仕事を分掌するにとどまりました。
もっとも、その後に大王の権力が高められていき、天智天皇・天武天皇治世の頃からは次第に大王の下で中央集権化が図られていくようになります。
そして、この高められた権力を基にして、天智天皇8年(668年)に近江令が、持統天皇3年(689年)に飛鳥浄御原令が制定され、中国の制度を模した制度が整備されていきました。
また、持統天皇8年(694年)には、日本初の恒久的な都である藤原京が造営されてその中に宮(藤原宮)が設けられ、政治が宮で行われることとなったために各豪族の邸宅で行われていたそれまでの都と政務方式が一変して各豪族が宮(天皇の下)に毎日出仕する必要が生じるようになり官僚制度が強化されます。
そして、大宝元年(701年)に制定された大宝律令により、これらの各システムが制定化され、体系的なものとして完成するに至りました(律令制度)。
このとき決まった律令制度は、日本を五畿七道に区分し、中心である京と地方とを区別した上でそれぞれに制度を整備し、さらに要地については特別な機関を配しました。
中央官制
前記のとおり、天皇を中心とする中央集権国家が指向された律令制度では、中央官制もまた、天皇が最高権力者として頂点に立つこととしたのであるが、天皇1人で国政を運営することなど不可能ですので、これを太政官(国政を統括する合議体)と、神祇官(神祇祭祀を統括する合議体)が統括補佐し(二官)、さらに太政官の下(実際にはさらにその下の左右弁官の下)に各業務に従った統括役所である八省を置いて意思決定機構を完成させ(八省)、ここで決定された事項を八省の下に置かれた職・寮・司と呼ばれる実務機関で執行されることとされました。
そして、この二官八省を基本とし、これに行政組織を監察する弾正台や宮中を守る衛府が追加される体制で律令制度が始まりました(二官八省一台五衛府)。
なお、その後の時間の経過によってこれらの組織が時代に合わなくなってくると、新たに律令に規定の無い官(令外官)を設けることで対処されていきました。
(1)二官
前記のとおり、最高権力者である天皇を代理する統括合議体として、神祇官(神祇祭祀を統括する合議体)と太政官(国政を統括する合議体)が設置され、これらを合わせて二官と言われました。
なお、「官」とは役所そのものを指し、職員を指す現在の用法とは意味が異なりますので注意が必要です。
① 神祇官
律令制における神祇官は、朝廷の祭祀を司る役所として諸国の官社を総轄しました。
養老令の職員令では太政官に先んじて諸官の筆頭に記載されるなど、立場としては太政官よりも上位でした。
② 太政官
太政官は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言など(後に、内大臣・中納言・参議も増員)で構成された合議体による議政官組織です。現在でいう内閣のようなイメージです。
太政官の話し合いで決められた事項について天皇の許可をもらい、実行機関に命令として下すという過程を経ましたので、太政官は天皇と各省の間に入って天皇の代理人として国政一般を司っていました。
このうち、太政官のトップである太政大臣は、天皇を補佐して国事全般を行う者とされたため、徳の高い者が現れるのを待ってはじめて任じるべきものとされ、適格者がいなければ欠員とされました(則闕の官)。
そして、太政大臣は空席のことが多く、太政官の実質的なトップは次席の左大臣が務めました。左大臣のイメージを現在に当てはまると内閣総理大臣が近いかもしれません。
そして、その次の右大臣が現在の副総理のイメージです。
これらの太政大臣・左右大臣の下には大納言が位置し、大臣とともに政務を協議し、臣への宣下と天皇への奏上を担当した上、大臣が欠員・休暇の際にはその代行者となりました。
そして、大臣・大納言による合議体の下に、事務を取り扱う少納言局や、政務執行の責任者となる左右弁官局が置かれました。
(2)八省
前記のとおり、政務執行は、太政官のうちの左右弁官局がこれを監督することとなったのですが、左右弁官局にそれぞれ4省ずつの実務執行機関が配されました。
具体的には、左弁官局の下に中務省・式部省・治部省・民部省の4省が、右弁官局の下に兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の4省が配されることによりの計8省が設けられました。
現在でいう各省庁のようなイメージです。
これらの8省により太政官から下された指示を具体的な政策として具体化され、さらにこれらの8省の下に置かれた職・寮・司と呼ばれる実務機関で執行されていきました。
【右弁官局管轄】
①中務省:天皇に侍従して詔勅の作成・宣旨、伝奏などの宮中事務や位記・戸籍などの事務を掌る。
②式部省:文官の人事や朝儀・学校などを掌る。
③治部省:諸氏の族姓や葬事・仏寺・雅楽・外交事務を掌る。
④民部省:民政(租税・財政・戸籍・田畑など)を掌る。
【右弁官局管轄】
⑤兵部省:武官の人事と軍事全般を掌る。
⑥刑部省:司法を掌る。良賤の訴などを司る。
⑦大蔵省: 財宝・出納・物価・度量衡などを掌る。
⑧宮内省:宮中の衣食住・財物その他の諸事を掌る。
(3)弾正台
弾正台は、中央行政の監察と京の風俗の取り締まるための機関であり、左大臣以下の非違を摘発し奏聞できました。
太政官に対する監察という職務から、太政官の影響を受けないように配慮されました。
もっとも、弾正台は裁判権・警察権を有していなかったために太政官の非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判することはできず、充分に機能した例は多くありませんでした。
(4)衛府
衛府は、天皇の身辺警護・宮城の警護・京内の夜間巡回などを主な任務とする軍事組織です。
大宝律令(大宝元年/701年)・養老令(養老2年/718年)成立時に衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の5つの衛府が置かれました(五衛府制)。
その後、そのときどきの権力者が自らに有利な軍事組織となるように衛府の改変を繰り返し、最終的には、弘仁2年(811年)に、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府制として定着しました(もっとも、近衛府は令外官)。
(5)その他
① 馬寮
馬寮(めりょう/うまのつかさ)は、諸国の牧(御牧・官牧)から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった官職です。
軍事・儀式で馬が必要とされる際に必要部署に提供これを提供していただけでなく、後には武士が任命されて治安維持などの部官業務も行いました。
左馬寮と右馬寮の2つに分かれており、唐名では典厩(てんきゅう)ともいいました。
② 兵庫
兵庫(つはもののくらのつかさ)は、武器管理をしていた他の配下にない独立の大寮官司です。
当初は左右に分かれていましたが、平城天皇の代に「内兵庫司」を吸収し、また宇多天皇の代に「造兵司」「鼓吹司」を吸収するとともに左右を合併して兵庫寮に統合されています。
(6)主な令外官
上記の各制度は、大宝律令や養老令により、奈良時代に中国の制度を模した律令制度として整備されたのですが、その後の時間の経過によりだんだん日本の実情と合わなくなっていきました。
当初は、各官庁でのマイナーチェンジで対応していたのですが、それが難しくなってくると、新たに律令制度になかった官(役所)を設置して対応するようになります。
こうして新設されて行った役所は、律令制度にないものですので令外官と呼ばれます。
主なものとしては、以下のものが挙げられます。
① 修理職
② 斎院司
③ 鋳銭司
④ 斎宮寮
⑤ 検非違使庁
⑥ 勘解由使庁
⑦ 院庁
⑧ 女院庁
⑨ 後院
⑩ 諸使
⑪ 諸司
⑫ 諸所
⑬ 造寺司
⑭ 造京司・造宮司
地方官制
大宝律令による改編は地方にも及び、日本の地方行政区画を、畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)と七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に分け、そこに66国と壱岐嶋、対馬嶋が置かれました(国郡里制)。
その上で、中央政府と地方行政組織を結ぶ幹線道路が整備され、そこを通って中央の命令が地方(律令国)に届けられました。
そして、各国の下に郡、郡の下に里が設けられ(国郡里制)、それぞれ国司・郡司・里長が置かれ、徴兵制のために編成された戸籍(庚午年籍→庚寅年籍)や計帳を用いて口分田を割り当てて税(租)が徴収されるようになりました(班田収授)。
(1)国
国には、役所である官衙(国衙)が置かれ、同地が律令国の中心地(国府)となって、中央から派遣された国司により治められました。
(2)郡
国の下に置かれた郡は、規模によって大・上・中・下・小に分けられ、大領・少領・主帳などが置かれました。
各郡には、役所である官衙(郡衙)が置かれたのですが、郡衙は立郡の事情や政治的変遷により移転することが多かったため所在地の特定は容易ではありません。
郡の政治は、律令国に派遣されてきた国司が、その国をよく知る国造を優先的に採用してこれを終身官である郡司に任じて治めさせるという間接統治の形で行われました。
なお、9世紀後半に国司の権限が大幅に強化されて受領化したことにより、郡司の権限は大幅に縮小されています。
(3)里
郡の下に、50戸ずつまとめられて里が構成され、里長がこれを統率することにより末端行政が担われました。
その後、霊亀3年(717年)に里は郷に改称されて郷里制となり(郷は2~3里に分かれて郷長が統率し、里には里正が置かれました)、さらに天平12(740年)ころに里が廃止され郷制に移行しています。
特別地域
以上の中央・地方とは別に、要地には特別行政区(京職・摂津職・大宰府)が設けられました。
(1)京職
京職(きょうしき)とは、京の司法・行政・警察を行った行政機関です。
平安京を東西に分け、左京に左京職、右京に右京職が置かれました。
左京職の長官を左京大夫、右京職の長官を右京大夫といい、それぞれが律令国における国司に相当する職掌を扱いました(もっとも、国司が地方官であるのに対し、京職は中央官として扱われました。)。
(2)摂津職
摂津国は、倭国と呼ばれた時代から軍事上・外交上の要衝地とされており、その後のヤマト王権時代→律令国家時代もその重要性は変わりませんでした。
そこで、摂津国には、特別に京職に準じた職が置かれ、国府の職務も兼ねられました。
(3)大宰府
大宰府(だざいふ)は、律令制度確立期に西海道(現在の九州地方)を統治するために筑前の国に設置された統治機関です。
元々は中国・朝鮮に君臨していた王朝から古代日本を守るための軍事施設として成立した軍事都市だったのですが、中国・朝鮮との関係が改善して侵略される危険が薄れたことから、次第にその役割を変化させ、政治・行政機関として機能するに至りました。
律令制下の役人=官人(四等官制)
前記のとおり、大宝元年(701年)に制定された大宝律令により中央及び地方の政治システム(官庁)が整備されたのですが、それに伴って、そこで働く役人についての整備も行われることとなり、唐の令制を模した四等官制が導入されることとなり大宝令官員令(養老令では職員令)によりその詳細が定められました。
四等官制とは、その表記は官(役所)毎に様々としつつも、官(役所)で勤務する役人につき、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という序列を定めた制度です。
そして、各官人に任命される四等官の職は、大宝令・養老令により定められた正一位から少初位下(しょうそいのげ)までの諸臣30階の位階に応じて割り振られました(官位相当制)。
なお、約1万人いたといわれる律令国家の役人=官人のほとんどは位階6位以下の下級官人であったとされ、それ以外のごく少数者(100〜200人)である5位以上の位階を有する者を「貴族」、さらに参議及び3位以上の者を「公卿」と言い、貴族以上の官人には下級官人にはない様々な特権(高位者の子孫に位階を授ける蔭位の制という世襲制度など)が付与されていました。
中央四等官
(1)二官
二官官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
神祇官 | 伯 | 大副 | 大祐 | 大史 | |
少副 | 少祐 | 少史 | |||
太政官 | (太政大臣) 左大臣 右大臣 | 大納言 中納言 参議 | 少納言 左大弁 右大弁 | 大外記 左大史 右大史 |
(2)八省
八省官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
省 | 卿 | 大輔 | 大丞 | 大録 | |
少輔 | 少丞 | 少録 | |||
職 | 大夫 | 亮 | 大進 | 大属 | |
少進 | 少属 | ||||
寮 | 頭 | 助 | 允 | 属 | |
大允 | 大属 | ||||
少允 | 少属 | ||||
司 | 正 | – | 佑 | 令史 | |
大令史 | |||||
少令史 | |||||
(内膳司) | 奉膳 | – | 典膳 | 令史 |
(3)台
官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
弾正台 | 尹 | 弼 | 大忠 | 大疏 | |
少忠 | 少疏 |
(4)衛府
衛府官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
兵衛府 | 督 | 佐 | 大尉 | 大志 | |
衛門府 | 少尉 | 少志 |
(5)令外官
令外官官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
近衛府 | 大将 | 中将 | 将監 | 将曹 | |
少将 | |||||
検非違使 | 別当 | 佐 | 尉 | 志 | |
勘解由使 | 長官 | 次官 | 判官 | 主典 | |
鎮守府 | 将軍 | – | 軍監 | 軍曹 |
地方(律令国)四等官
律令国官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
国司 | 大国 | 守 (親王任国の場合は太守) | 介 | 大掾 | 大目 |
少掾 | 少目 | ||||
上国 | 守 | 介 | 掾 | 目 | |
中国 | 守 | – | 掾 | 目 | |
下国 | 守 | – | – | 目 | |
郡司 | 大郡 | 大領 | 少領 | 主政 | 主帳 |
上郡 | |||||
中郡 | |||||
下郡 | 大領 | 少領 | – | 主帳 | |
小郡 | 大領 | – | – | 主帳 | |
軍団 | 大毅 | 少毅 | – | 主帳 |
律令国の国区分は、延喜式により国力に応じて4等級に分けられ、以下のとおりとされていました。
① 大国(13国)
大和・河内・近江・伊勢・播磨・越前・武蔵・上総(親王任国)・下総・常陸(親王任国)・上野(親王任国)・肥後・陸奥
なお、親王太守は現地赴任しないため(遙任)、親王任国の実務上の最高位は次官の介となっていました。
② 上国(35国)
山城・摂津・紀伊・丹波・越中・加賀・越後・田島・因幡・伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・阿波・讃岐・伊予・美濃・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・信濃・相模・下野・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・出羽
③ 中国(11国)
丹後・若狭・能登・佐渡・石見・長門・土佐・安房・日向・大隅・薩摩
④ 下国(9国、うち4国は島国・2国は半島国)
和泉・伊賀・志摩(半島国)・飛騨・伊豆(半島国)・淡路(島国)・隠岐(島国)・壱岐(島国)・対馬(島国)
特別地域
官司 | かみ(長官) | すけ(次官) | じょう(判官) | さかん(主典) | |
大宰府 | 帥 | 大弐 | 大監 | 大典 | |
少弐 | 少監 | 少典 |
律令制度崩壊後
律令制度の崩壊
以上のとおりとされた律令制度下における官僚システムでしたが、9世紀後半ころの土地制度の崩壊(律令制→荘園制)により行き詰まります。
これに伴い、政治権力が天皇→摂関家→院→武士と移っていったことから、天皇を中心とした官僚システム自体であった律令制自体が崩壊し、有名無実化していきました。
明治維新後の官制の再編成
明治維新の当初、官制全体が復古的な志向のもとで編成され、慶応4年(1868年)閏4月21日に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づき、律令制下として同名の官職となる太政官(議政官以下7官)が置かれました。
また、明治2年(1869年)の官制改革で、太政官が民部省以下6省を管轄することとして左右両大臣が置かれました。
さらに、明治4年(1871年)、太政官の長官として太政大臣が置かれました。
加えて、新たに設けられた官庁職制では、明治2年(1869年)7月8日の職員令により官職名についても律令制における四等官に倣ったものが付され、名称等は必ずしも旧来の原則に当てはまるものではなかったものの卿は総判、大輔・少輔は卿に同じ、大丞・権大丞・少丞・権少丞は糺判、大録・権大録・少録・権少録は文案を勘署し稽失を検出するとするなどとされました。
もっとも、これ以降から明治18年(1885年)までの間は官制の改廃が多くて一定せず、最終的には同年の内閣制度の発足に伴い廃止されました。