【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯

新撰組(新選組・しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に上洛する徳川家茂を護衛するために一般公募で集められた浪士から発展した集団です。

徳川家茂に先立って入京した浪士組でしたが、京に入った直後に引率役であった清河八郎の翻意により袂を分かった試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)・根岸友山一派らによって結成された壬生浪士組がその前身となります。

壬生浪士組では、結成直後に根岸友山一派を廃して試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)による隊となり、会津藩預かりの部隊として京の治安維持や攘夷派志士の摘発に従事しました。

また、八月十八日の政変での活躍を評価され、「新撰組(新選組)」の隊名を与えられています。

その後、水戸派を一掃して試衛館一派で占められるに至った新撰組ですが、池田屋事件で大活躍をしたり、鉄の掟によって内部粛清を繰り返したり、はたまた各地でトラブルを頻発したりするなどしてその名を高めました。

その後、慶応3年(1867年)6月10日に隊士全員が幕臣に取り立てられたこともあり、江戸幕府の滅亡に至る過程で最後まで幕府と行動を共にし、慶応4年(1868年)に甲陽鎮撫隊と改めた後、明治2年(1869年)5月18日の函館戦争における旧幕府軍降伏により事実上消滅するという滅びの美学の体現者として現在に至ってなお有名です。

本稿では、幕末の京で異彩を放った剣客集団である新撰組について、その結成の経緯から隊名拝命に至る経緯について紹介していきたいと思います。

壬生浪士組結成

浪士組結成(1862年)

幕末動乱の中で誕生した新撰組の結成のきっかけは、徳川将軍としては229年ぶりに天皇(孝明天皇)に拝謁するため、文久3年(1863年)に、第14代征夷大将軍・徳川家茂が上洛することに決まったことです。

徳川家茂上洛に際し、庄内藩の郷士であった清河八郎(本名は斎藤正明)が、江戸幕府に対して、京には尊王攘夷・倒幕運動を唱える不逞浪士が跋扈しており、京都所司代と京都町奉行だけでは上洛した徳川家茂の安全を保証できない、そこで、江戸近辺にいる浪人を採用して将軍警護を担わせてはどうかとの献策をします。

江戸幕府は、この献策を採用し、将軍上洛前年にあたる文久2年(1862年)に江戸で浪人を募集し、集まった200人(藩士4名・郷士11名・浪士74名・百姓128名・神主1名・医師2名・その他不明)で浪士組を結成させ、松平上総介・鵜殿鳩翁・窪田鎮勝・山岡鉄太郎・松岡萬・中條金之助・佐々木只三郎らが浪士取締役に任じられました。

このとき、浪士組に参加することとなったのが、江戸・市谷(現在の東京都新宿区市谷柳町)にあった剣術道場である試衛館の面々であり、天然理心流4代目の近藤勇、多摩一円に抱えていた門人のうち7名(近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・原田左之助・藤堂平助)でした。

また、この他にも、水戸藩志士の芹沢鴨、豪農の根岸友山、医師の大館謙三郎、狭客の山本仙之助らが参加していました。

ここで、1つ疑問が生じます。

江戸幕府には、8万騎ともいわれる将軍直属の兵である旗本がいるはずであり、たった200人の護衛兵がなぜ準備できないのかという疑問です。

江戸にある旗本に一声掛ければ200人位すぐに集まり、それらの者に護衛させれば十分なはずです。

ところが、江戸幕府はそうはしませんでした。

理由はシンプルです。

江戸時代の武士は官僚化しており(江戸幕府には、武術を教える道場すらありませんでした)、賊を相手に役に立つとは考えられなかったからです。

もっと端的にいうと、旗本が護衛として役に立たない程弱かったからです。

浪士組解散

文久3年(1863年)2月23日、清河八郎が、徳川家茂上洛の前衛として浪士組を率いて京に向かって出発し、中山道を西進していきます。

そして、清河八郎に率いられた浪士組が京に到着して壬生村へ入ったところで、200人に10箇所の宿が割り当てられます。

このとき、後の新撰組の主要メンバーとなる近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田左之助、藤堂平助・井上源三郎らと、芹沢鴨・新見錦・平間重助・野口健司・平山五郎ら計13人に八木源之丞邸が割り当てられ宿所とすることとなりました。

ところが、浪士組を率いていた清河八郎は、真実は尊王攘夷派の志士であり、江戸幕府を騙して江戸幕府の金で浪士組を結成させ、これを尊王攘夷の先鋒として使おうと考えており、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にしてしまいます。

そして、清河八郎は、同年2月29日の夜、浪士達を新徳寺の本堂に集め、自分の本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷にあるとして、浪士組をその先兵とする旨の宣言をします。

この宣言は、将軍警護(佐幕)のためにわざわざ江戸からやってきた浪士達にとっては、着いたら逆の尊皇攘夷(討幕)のために働けと言われたということを意味します。

そのため、この清河八郎の宣言に対し、近藤勇・土方歳三を中心とする試衛館派や芹沢鴨を中心とする水戸派は、猛反発します。

この後、同年3月4日に徳川家茂が3000人の兵を率いて京に到着した後、同年3月13日に清河八郎らが江戸に戻ったのですが、鵜殿鳩翁が、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示し、応えた試衛館派、水戸派(八木邸を宿所としたグループ)や、殿内ら根岸友山一派などが清河八郎と分かれて壬生村に残るという決断をします。

壬生浪士組結成(1863年3月)

そして、文久3年(1863年)3月、試衛館派・水戸派・根岸友山一派らに加え、現地で新たに隊員を採用した有志計24人で公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とした「壬生浪士組」が結成されました。

なお、このときの創設メンバーは、次のとおりです(もっとも、この後、浪士組において殿内義雄が暗殺され、根岸友山一派が離脱するなどして芹沢鴨・近藤勇が率いる集団となります。)。

【水戸派(芹沢一派)】

①芹沢鴨(局長)、②新見錦(局長)、③田中伊織?(新見錦の変名説あり)、④平山五郎、⑤平間重助、⑥野口健司、⑦佐伯又三郎

【試衛館一派(近藤一派)】

①近藤勇(局長)、②土方歳三(副長)、③沖田総司、④山南敬助、⑤永倉新八、⑥原田左之助、⑦井上源三郎、⑧藤堂平助、⑨斎藤一

【その他】

①殿内義雄、②家里次郎、③根岸友山、④遠藤丈庵、⑤清水吾一、⑥鈴木長蔵、⑦神代仁之助、⑧粕谷新五郎、⑨阿比類鋭三郎

こうして24人もの大所帯として始まった壬生浪士組でしたが、その宿所(屯所)としては八木邸だけでは手狭となり、芹沢鴨をリーダーとする芹沢派が八木邸に残り、近藤勇をリーダーとする近藤派が八木邸の道路を挟んだ東側向かいにある前川荘司邸に移ったことから、壬生浪士組は八木邸と前川邸に分宿することとなりました。

会津御藩預

会津藩預かり(1863年3月12日)

京に残った芹沢鴨・近藤勇らは、文久3年(1863年)3月10日、京都守護職として京・金戒光明寺に駐在していた会津藩主・松平容保に対して壬生浪士組17人(24人とも)の連名で嘆願書を提出します。

これに対し、松平容保はその扱いに苦慮しますが、江戸幕府から壬生浪士組の差配を命じられたことから、同年3月12日、壬生浪士組を「会津藩お預かり」(今で言う非正規雇用)とし、その指揮下に置くこととします。

芹沢・近藤の二頭体制(1863年3月)

その後、文久3年(1863年)3月25日に四条大橋で殿内義雄を暗殺し、同年5月に根岸友山・粕谷新五郎を脱退させ、さらには家里次郎・佐伯又三郎らを粛清したことにより(阿比類鋭三郎は病死)、壬生浪士組は芹沢・近藤の二頭体制となります。

なお、この時点での主要メンバーは、試衛館派9人(近藤勇・土方歳三・山南敬介・沖田総司・永倉新八・藤堂平助・井上源三郎・原田左之助・斎藤一)、水戸派5人(芹沢鴨・新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助)の計14人でした。

当初は、筆頭局長に芹沢鴨、局長に近藤勇と新見錦、副長に土方歳三と山南敬介を配するバランスを考慮した体制で始まりました(もっとも、不祥事により、新見錦はすぐに副長に格下げされています。)。

そして、文久3年(1863年)春以降に第一次隊士募集を行って36人の集団となり、さらには隊士の旧知の浪士が入隊して来るなどして100人を超える大所帯となり、これらの人力を用いて会津藩の指揮の下で京の不逞浪士取締りと市中警備を始めます。

隊服・隊旗・隊規の整備(1863年4月)

文久3年(1863年)4月には、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に歌舞伎の赤穂浪士の衣装を模した隊服(有名なだんだら羽織の隊服であり、芝居好きの芹沢鴨の発案と考えられています。)、隊旗を揃えます。

また、隊規の制定にとりかかります。なお、子母澤寛が昭和初期に記した「新選組始末記」の記載から局注法度と呼ばれる5つの規律があったと言われることが多いのですが、当時の資料に明記されているものではないため、子母澤寛の創作である可能性が高いと考えます(もっとも、文久3年/1863年6月2日付の近藤・芹沢から紀州宛の手紙や、永倉新八の回顧録である「新撰組顛末記」の記載からこれに類する規律があったことは間違いないと思われます。)。

徳川家茂帰東(1863年6月)

壬生浪士組が京で勢力を拡大させている中、中央の政局は混乱しており、文久3年(1863年)4月、朝廷の圧力に屈した徳川家茂と徳川慶喜が同年5月10日を期日とした攘夷の約束をさせられていました。

もっとも、幕府に攘夷を決行する意図など存在せず、同日、徳川家茂が幕兵1400人を引き連れて(壬生浪士組もこれに従っています)大坂を巡回することでお茶を濁しています。

その後、同年6月に徳川家茂は、江戸に戻ったのですが試衛館一派・水戸一派はこれと行動を共にすることはせず、壬生浪士組として京に残るという選択をします。

京で名を挙げる

悪名を高める

京に残った壬生浪士組は、京で隊士を募集して巨大化しつつ、会津藩の下で京の治安維持に努めながら各地で悪名を高めていきます。

まずは、文久3年(1863年)6月3日、大坂・北新地の住吉楼に向かった壬生浪士組が蜆川に架けられた蜆橋を渡る際、前方からやってきた力士達とトラブルになって斬りつけ、その後、店に入った後に押しかけてきた力士達と乱闘になり力士側に死傷者を出しました。

このとき、力士側に非があるとした奉行所の判断により力士側が壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる事態となり、壬生浪士組の強さが世に知らしめられることとなりました。

また、同年8月13日には、京の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立てた芹沢鴨が、35人の隊士を引き連れて大和屋に押しかけ、放火するという暴挙に出ます(芹沢鴨が首謀者であったかについては不明)。

このきには、壬生浪士組が刀を抜いて大和屋の周りに立って火消を寄せつけなかったため、大和屋は一晩かけて焼き尽くされてしまいました。

なお、大和屋焼き討ち事件を聞いた京都守護職・松平容保は憤り、近藤勇らを呼び出して処置を命じたとされていますが、その真偽は不明です。

八月十八日の政変(1863年8月18日)

文久3年(1863年)8月18日、薩摩藩・会津藩・公武合体派公家が共謀し、突如、会津藩を中心とした諸藩の藩兵が御所の各門を固めた上で、長州藩士による御所門(堺町御門)警備の任を解任させると共に、攘夷派公家の参内禁止を言い渡します。

これは、孝明天皇・薩摩藩・会津藩による、長州藩追い落としのクーデターでした(八月十八日の政変)。

このクーデターに対し、当然長州藩側が反発して長州藩士が御所の周りに詰め寄せたため、御所の門では長州藩と会津藩が一触即発の状況となります。

このとき、壬生浪士組も52人の隊士を派遣して南門の守備に加わっていました。なお、このときに初めて「誠(または誠忠)」の隊旗が使用されたと言われています。

このときは長州勢が武力行使に及ぶことなく引き上げたために紛争には至らなかったのですが、クーデターにより政争に敗れた攘夷派の公家が長州に逃亡し(七卿落ち)、また長州藩が政治の中心から外れる事態となりました。

新撰組拝命

新撰組拝命

八月十八日の政変では実戦の機会に恵まれなかった壬生浪士組ですが、50人を超える多数の隊士を派遣して御所の警備に加わったことを高く評価されます。

そして、その功により、壬生浪士組は新たに「新撰組」の名を与えられました。

なお、隊名を与えた人物については、朝廷と武家との取次役である武家伝奏とする説(島田魁の日記)と、松平容保であるとする説があり、その由来も含めて真実は明らかではありません。

また、新撰組の表記については、局長である近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも「新撰組」と「新選組」の両方の字が用いられているため、双方とも正しい表記であると考えられています。

近藤・土方体制へ(1863年9月)

以上のとおり、表面上は良好な関係にあった試衛館一派と水戸一派でしたが、試衛館一派が八月十八日の政変により高い評価を得た隊の独占的支配を目指し、水戸一派の排除に取り掛かります。

まずは、文久3年(1863年)9月15日、水戸一派のナンバー2であった新見錦をがいた祇園新地の料亭「山緒」に試衛館一派が押しかけて切腹させます(新選組顛末記)。

次に、翌同年9月16日(同年9月18日とする説あり)、島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いて芹沢鴨を泥酔させ、八木邸に帰って寝ていた芹沢鴨・平山五郎を暗殺します。なお、このどさくさにまぎれて平間重助が脱走しています。

芹沢鴨暗殺の翌日に、近藤勇が会津藩に族の犯行により芹沢鴨が死亡したと届け出て芹沢鴨・平山五郎の葬儀を行い、以降、新撰組が試衛館一派による組織として整備されていきます。

政治力を獲得していく(1863年10月)

八月十八日の政変で名をあげ、200人を超える隊士を抱え、さらには対立勢力を粛清して隊内統一を果たした近藤勇は、巨大組織となった「新撰組」の長として政治力を持つようになり、公武合体派の重鎮とみなされていくようになります(実際、1863年10月10日に開かれた諸藩の有力藩士の会合に出席して意見を述べるに至っています。)。

また、近藤勇が辞退したため果たされることはなかったのですが、会津藩から新撰組に禄位を与えようとする動きまでありました(同年10月15日付近藤勇から松平容保宛の手紙)。

その後、元治元年(1864年)2月、京において徳川慶喜(禁裏御守衛総督・一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者が団結し、朝廷(孝明天皇・二条斉敬・中川宮朝彦親王)を後ろ盾にして政治力を強めると(一会桑政権)、新撰組もその統制下に入って正式に見廻り担当エリアを割り当てられることとなり、それまでのあいまいな市中警邏担当者という立場から正式な幕府機関として認められていくようになりました。

そして、この後、勢力を強めた新撰組は、池田屋事件を経て最盛期を迎えていくこととなるのですが、長くなりますので、長くなりますので、以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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