参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。
自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。
大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。
もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。
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参勤交代の端緒
豊臣秀吉による人質政策
江戸幕府によって制度化された参勤交代でしたが、その端緒は、豊臣政権期の諸大名による自主的な大坂・伏見参勤にあります。
豊臣秀吉は、天下統一の過程で傘下に下った諸大名に対し、居城となった大坂城・伏見城の城下に屋敷を与え、妻子を住まわせることを強制しました。
これは、当然ながら、諸大名に謀反を起こさせないようにするための人質なのですが、諸大名に拒否権などありませんでした。
徳川家康による人質政策
他方、将来を見据えて豊臣政権下で大きな力を持っていた徳川家康にすり寄る大名家も多く、徳川家康の本拠地であった江戸に人質を差し出した大名もいました(慶長元年/1596年に当時9歳の弟正高を差し出した藤堂高虎など)。
その後、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、事実上、五大老筆頭であった徳川家康が政務を引き取る形となって伏見城で政治を行います。
この結果、徳川家康に擦り寄ってくる大名が急増し、徳川家康が一気に力を強めます。
このとき徳川家康は、自らの力をさらに高めるため、諸大名に対し、伏見参勤とともに江戸参勤を要請していきます。
これに対し、これからは徳川家康の天下が始まると判断した大名の中から自発的に親族を江戸に差し出すという動きが始まります(慶長4年/1599年の堀秀治による子の利重、浅野長政による末子長重、慶長5年/1600年の細川忠興による三男忠利の差し出しなど。)。
徳川家への参勤
その後、慶長5年(1600年)9月に勃発した関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、豊臣家に代わる徳川政権の構築を始めていきます。
徳川家康は、関ヶ原の戦いの後も主に伏見城において執務しながら権威を高め勢力を強めていったのですが、伏見城が事実上徳川の城となったことにより、諸大名の伏見城参勤が、事実上の徳川家康への参勤を意味するようになっていきました。
これにより、関ヶ原の戦い以降、諸大名は、豊臣家・徳川家の双方に参勤を行うようになっていきました。
江戸参勤の常態化
当初は、豊臣家や徳川家に対して、これらを慕う(恐れる)大名家が自発的に行っていた参勤でしたが、徳川家康に対して参勤を行う大名家が多くなっていったため、他の大名家もこれをしなければならい雰囲気が生まれていき、次第に徳川家に参勤を行う大名家が増えていきました。
そして、江戸に参勤してきた諸大名は、当初は大寺院などに宿泊させてもらうのが通例だったのですが、徳川家康は、ひとたび参勤してきた諸大名に江戸城下の邸地を与え、宿泊の便宜を図ります。
この江戸城下の邸地というものが問題であり、邸地を貰い受けるということは、そこで一定期間生活すること、国元に帰ってもまたやって来るということを意味します。
徳川家康は、こうして諸大名を自らの影響下に囲い込んでいったのです。
そして、慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡すると、徳川家康は、江戸幕府においても豊臣政権下の人質制度を採用し、大名と家老クラスの重臣から人質をとって交代で江戸に住まわせることを義務付けました(大名証人制度)。
なお、大名のみならず家臣からも人質を取ったのは、大名の妻子のみを人質とすると、万一その大名家で下克上が発生した場合に人質の価値が無くなってしまうためでした。
もっとも、寛文5年(1665年)に大名証人制度が廃止されたため、有力家臣の子弟が人質として在府する必要はなくなったのですが、大名の妻子が江戸に在住することは継続して義務付けられました。
参勤交代の制度化
徳川家光の独り立ち
元和9年(1623年)7月27日、徳川家光が、生れながらの将軍(戦を知らない将軍)として江戸幕府第3代征夷大将軍に就任します。
徳川家光は、就任当初は大御所となった先代の徳川秀忠の下で政権運営を学びつつ債務をとったため、当初は秀忠・家光による二元政治が行われていきます。
その後、寛永9年(1632年)1月24日に徳川秀忠が死去すると、徳川家光は、自らの力を見せつけるため、早々に2人の大大名(熊本藩加藤忠広、敦賀藩徳川忠長)を武家諸法度違反を理由として改易してしまいます。
さらに、徳川家光は、その他の諸大名をも完全に統制するための手段を模索し、その目的を果たすために制度化したのが参勤交代の制度化でした。
徳川家光による諸大名統制模索
武家政権である江戸幕府は、征夷大将軍を頂点とする封建制度により成り立っていました。
すなわち、将軍と大名の間には主従関係があり、将軍が大名に対して知行地を給付する代わりに、大名が与えられた石高に応じた軍役などの奉公を賦課してその恩に報いるという制度設計でした。
もっとも、豊臣家が滅亡して戦乱の世ではなくなった時期以降は(元和偃武)、江戸幕府が諸大名に対して軍役を課して軍事動員をする機会が失われてしまったため、諸大名が江戸幕府に対して奉公によって御恩に報いる(幕府に忠誠を示す)ことが出来なくなってしまいました。
困った江戸幕府は、平時においての軍役に変わる奉公手段として、平安末期の京都大番役や鎌倉期の鎌倉大番役などを参考に、参勤交代によって江戸に参勤させることにより諸大名が江戸幕府(将軍)に対して忠誠を尽くす機会を作り上げることとしたのです。
以上から明らかなのですが、一言で言うと、参勤交代=平時の軍役なのです。
徳川家光は、この点に着目し、諸大名に平時も軍役奉公をさせることにより将軍家の家臣であることを摺り込み、大名統制を行おうとしたのです。
参勤交代の制度化(1635年)
この目的を達するため、徳川家光は、寛永12年(1635年)、武家諸法度を改定し(寛永令)、その第二条に「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤(大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。)」と規定することによって、将軍に対する大名の服属儀礼として始められたものを徳川将軍家に対する軍役奉仕として明文制度化します。
これにより、それまで妻子と共に将軍お膝元であった江戸に常駐していた諸大名が1年ごとに国元(諸藩)と江戸を行き来することが制度化されることとなったのです。
なお、参勤交代が制度化された当初は、参勤が義務付けられたのは外様大名だけだったのですが、寛永19年(1642年)に親藩・譜代大名にも適用が拡大されました。
この点、参勤交代制度が江戸幕府による諸般の経済力低下を目的として定めた制度であるかのように言われることがあるのですが、武家諸法度(寛永令)にも「従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ(供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと)」と記されているとおり、元々は諸般の経済力に目を向けた制度ではありませんでした。
なお、各大名は、1年間ごとに江戸出仕と帰藩を繰り返す制度設計であったことから、藩から江戸に赴く「参勤」と、江戸から藩に帰る「交代」とを組み合わせてその制度名が付されました。
また、参勤交代が幕府に対する奉公ですので、別の手段で奉公が行われている場合(水戸藩主・老中・若年寄・寺社奉行など江戸に定府している場合など)には参勤交代は不要とされました。
他方、高野山金剛峯寺(2万1300石)などの大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度があり、高野山学侶方・行人方に江戸在番が命じられていました。
参勤交代の流れ
前記のとおり参勤交代は平時の軍役ですので、必然的に多数の配下武士を随員として引き連れていく必要がありました。
随行人数は各藩の禄高によって変わり、享保6年(1721年)の規定では10万石の大名では騎馬武士10騎・足軽80人・中間(人足)140〜150人とされ、大藩である加賀藩の場合には2500〜3000人(最盛期は4000人)にも及んだと言われています。
これだけの大人数が1年ごとに国元と江戸での移動生活を強いられたため、その準備・費用の工面・清算作業など多くの問題が生じうる大変な制度でした。
準備
参勤交代を行う大名は、江戸に偶数年に滞在するグループと奇数年に滞在するグループに分けられました(なお、在国中や江戸滞在中に談合などをさせないようにするため、隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられました。)。
そして、各大名は、国元を出発する月と江戸を出発する月を定め、その半年以上前からその準備が始められました。
主な準備としては、往路・江戸滞在・復路に必要となる予算の調達、他大名との間に宿場の重複がないかの偵察、知行高に応じて定められた兵馬を動員などがありました。
この点、予め幕府へ届出を出した期日までに江戸に到着する形式的な必要があっただけでなく、往復の遅延が1日発生するだけで随行者分の人件費・宿代などとして現在の貨幣価値にして数千万円〜数億円もの損失に繋がったためいかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸に到着しなければならない実質的な必要性もあり、事前準備は極めて重要でした。
このため、通行がままならない場所にはあらかじめ道路や橋を敷設したりされました。
また、他の大名の参勤交代行列や幕府役人・勅使などとかち合うと余計な諍いが生まれる可能性がありましたので、これらの予定などにも気を配った行程が組まれました。
出発・自国領内通行
大人数を引き連れての長期間旅となりますので、その道中にはこれらの人数分の生活物資を運ぶ者のみならず、医師・茶頭・鷹匠などの専門家も同行することとなり、相当の大所帯となって国元を出発していきました。
藩庁を出発した大名一行は、自国民に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人(サクラ)を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられ、その大掛かりな行進は大名行列と言われました。
そのため、大名行列は、農民が見物に訪れる名物となることが多く、派手な行列が城下町を離れるまで続けられました。
そして、町はずれに出たところでサクラとして雇われた人々の仕事が終わって本来の人員となり、またこの者たちも旅行に適した服装に着替え、江戸に向かうため、宿泊予定の宿場町目指して進んで行くこととなります。
自国領外通行
各藩を出た参勤交代行列は、江戸に隣接している場合を除き、自領を出た後に他家の領地を通過することになります。
江戸に向かう移動手段としては、ほとんどが天候の影響を受けにくい陸路が選択されましたが(それでも大雨が降ると川止めとなるため日程の変更と、それに伴う経費の増加が問題となりました。)、島津藩のように船と陸路を併用して行う場合もありました。
他国を通行する際には、同地を治める大名に連絡をした上で通行許可を貰った上で案内役を借り受けます(場合により、渡し舟の貸出を受けたりもしていました。)。
このとき、通行する大名は案内人に贈り物をし、他方、案内人側からも通行する大名に返礼品を返すなどして人間関係の調整が行われました。
なお、大名行列が陸路を進んできた場合、そこに住む庶民は馬に乗っていた場合は下馬を、かち合う場合は道を譲ることが求められましたが、自国大名と徳川御三家以外の大名行列に対しては土下座までは求められませんでした。
他国を通過するに際しては、費用節約のために急ぎ足で移動することが多く、1日平均6〜9時間かけて約30〜40km移動していました(行程に遅れが生じた場合は50 km近く移動することもありました。)。
また、大名行列が関所を通過する際には、大名の籠の窓が開けられて関所の役人に確認された上、行列の人数や装備もあらためられて幕府に報告されました。
道中宿泊
江戸に向かう大名行列一行のうち、大名とその関係者は、特別に指定された宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅(本陣)に宿泊しました。
大名が一般の宿に宿泊しなかった理由は、一般の宿では命を狙われる可能性がある大名の安全を確保できなかったからです。
本陣は、一定の防衛構造を備えており、敵に攻められても一定の対応ができる構造をしており、そこで小姓などが一晩中藩主の枕元を守って襲撃者に寝込みを襲われないよう用心して守られました。
もっとも、本陣の数は必ずしも多くなく、複数の大名が同時期に参勤交代をしてバッティングする場合には、その取り合いが起こりました。
また、本陣側にとっても、大名一行の宿泊が大口の収入源となった一方で、その費用が宿泊料金としてではなく謝礼金として支払われたことから採算が合わないことが多く、また大名側のトラブルに巻き込まれることもあったことから、大名一行の宿泊を面倒事として考えるのが一般的でした。
江戸入府
そして、大名行列が江戸に入ると、江戸の庶民に威厳を見せつけるため、下屋敷に入って立派な服装に着替えた上で、予め雇っておいた人足を合流させて華美な行列に仕立て直します。
その上で、江戸城に入城し、大名が将軍に拝謁することによって在府生活が始まりました。
江戸在府生活
江戸在府中、課された大名課役をこなしていくことを求められました。
そして、この江戸在府期間は1年間(国元滞在1年)とされる大名が多かったのですが、江戸に近い関東大名の多くは半年間(国元滞在も半年間)、遠国であった対馬藩は4か月(国元滞在3年)、松前藩は4か月(国元滞在5年)、長崎警護の任を与えられた福岡藩・佐賀藩は100日(国元滞在1年260日)とされるなどの配慮がなされていました。
なお、小弓公方系である喜連川藩は、その高い家格により参勤交代義務免除・妻子在国許可とされていたのですが、喜連川藩は毎年12月に自主的に参府していました。
帰藩
江戸で定められた出仕を終えた大名は、江戸城に暇乞いのための登城をして将軍から御暇をもらい、江戸在府時に世話になった相手や江戸に残る妻子への挨拶回りを行います。
その上で、参勤と逆のルートで帰路につきました。
参勤交代制度の功罪
参勤交代の制度化により、諸大名は1年ごとに大名と随員を江戸と国元の間を行き来させることとなり、幕府・各藩に様々なメリット・デメリットをもたらしました。
参勤交代がもたらしたメリット
(1)幕府側のメリット
参勤交代という行為自体が諸大名に将軍との主従関係を再確認させるといえメリットがあっただけでなく、諸大名が定期的に領国と江戸を行き来することとなるため、領国や京に留まり続けることによって領地との結びつきを強めて江戸幕府の統制を無視したり、逆に領国の管理を任せた守護代に下剋上されたりすることを未然に防ぐことができました。
また、江戸と全国各地に点在する諸藩との間を大名とその随員が行き来することとなったことから、全国を結ぶ交通網(道路や橋など)の整備が進み、また各宿場町にも各種施設が整えられていきました。
さらに、江戸と地方を行き来する者たち(18世紀頃の江戸人口の4分の1である約25万人が参勤交代で地方から来た者だったと言われています。)を介して、地方文化が江戸に流入するという相互発展効果をもたらしました。
加えて、参勤交代のために江戸に来る各藩の藩士は単身赴任の男性が多かったため、江戸の町の男女比率が男性過多となり(江戸の人口の約半数を武士が占めたとも言われました。)、その影響により遊郭の繁栄に繋がりました。
加えて、各藩が、江戸に向かう道中や、滞在した江戸で多額の金銭出費を行ったことから、全国各地に多大な経済効果をもたらしました。
(2)諸藩のメリット
江戸に参勤して同地で1年生活した者が藩に戻ることにより、同人らを介して江戸の文化・技術が全国に広まるという効果がもたらされました。
また、江戸に諸大名が集まることにより大名間の社交が行われ、各国間の情報の集約と伝播が行われました。
参勤交代がもたらしたデメリット
(1)幕府側のデメリット
国元への帰国期間があるため、室町時代の守護大名常時在京政策と比べるとその分大名統制が弱くなる。
(2)諸藩のデメリット
大名とその随員が1年ごとに江戸と国元とを往復することとなったため、膨大な手間と費用負担を負担させられることとなりました。
また、江戸に参勤する諸大名が、諸大名は自藩の権威を示すために必要以上に豪華さを引き立たせることを競い始めたため、参勤交代における費用負担はさらに高額化するに至りました。
さらに、各藩では、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費負担に加え、街道の整備費用、道中の移動関係費・宿泊費・人件費などの多大な費用負担により、財政悪化が進みました。
江戸からの距離によって異なるものの、参勤交代の費用だけで藩収入の5〜20%を要し、江戸藩邸の費用を含めれば50〜75%もの支出となったとされています。
加えて、江戸で生まれ育った藩主嫡男が増え、それにより国元を顧みない藩主が生まれていったという問題もありました。
参勤交代の形骸化
規制緩和失敗(1722年)
江戸幕府将軍が第6代将軍徳川家宣の時期になると、江戸幕府は収入約76万両・支出約140万両という財政難に陥っていました。
そのため、第8代将軍に就任した徳川吉宗は、悪化する幕府財政を安定させるため、享保7年(1722年)、各藩主の参勤交代江戸在府期間を1年から半年に緩和することとし、その代償として、1万石につき100石の割合で献上米を諸藩に課すという上米の制を制定しました。
この制度により幕府の収入は増加したのですが、軍役の代替としての奉公が緩和されたことに加え、幕府財政を各藩に依存することとなった結果、幕府権威の低下をもたらしました。
また、江戸藩邸における経費削減により、諸藩の経済力が拡大するという問題点が生じたため、江戸幕府内で批判が殺到しました。
そこで、徳川吉宗は、享保15年(1730年)、上米令を廃止して下の制度に戻しています。
禁裏御用転化の流れ
上米令を廃止したものの、一旦低下した権威を取り戻すことは難しく、江戸幕府による諸大名統制は次第に弱まっていきます。
そして、延享期(1744〜1748年)頃になると、参勤や交代をしなくなる大名が現れ始め、参勤交代を前提とした大名課役に破綻をきたすようになっていきました。
そればかりか、武家官位を獲得のための天皇への奉公を優先し、禁裏御用に転化する傾向が表れ始めていた。
そのため、江戸幕府は、文化年間(1804〜1818年)以降になると、諸大名に対して参勤交代を遵守するよう頻繁に求めるようになっていきました。
制度廃止
参勤交代制度の制度緩和
嘉永6年(1853年)に黒船に乗ったペリーが来航し、開国を迫るなどして江戸幕府に圧力を加えると、国内でも幕政改革の声が高まります。
そして、文久2年(1862年)、朝廷や薩摩藩の島津久光から海防を理由とする参勤交代制度改革が要求されるようになります。
江戸幕府は、文久2年(1862年)8月、これらの声を受け、各藩の軍備増強と全国の海岸警備を目的として、参勤交代の頻度を3年に1回(100日)とし、大名在国中の江戸屋敷に留め置く藩士数を減少させることとし、また、大名妻子の帰国を認め、帰国の際の幕府役人書状を不必要とし、一般旅行者の関所改め簡略化などの規制緩和を行いました(文久の改革)。
江戸幕府の権威失墜
もっとも、上米令の際と同様に、軍役の代替としての奉公の緩和は大名統制力の喪失をもたらしますので、参勤交代制度規制の緩和は江戸幕府の権威を大きく低下させました。
その結果、公然と江戸幕府に抵抗してくる藩が現れ始めます。
そして、元治元年(1864年)8月、京で長州藩と江戸幕府・薩摩藩との武力衝突が起きるほどに至ります(禁門の変)。
焦った江戸幕府は、同年9月に再び参勤交代制度を従前のものに戻そうとしたのですが、この時点になると江戸幕府の命に従わなくなった藩も多く、江戸幕府の思惑どおりには進まず、逆に江戸幕府の決定的求心力低下を露見させることに繋がってしまいました。
参勤交代制度の消滅(1867年10月14日)
そして、参勤交代制度どころか江戸幕府時代の存続も困難となるに至り、慶応3年(1867年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したことにより(大政奉還)、参勤交代制度も消滅するに至りました。