【穴山信君(穴山梅雪)】織田方に下った武田御一門衆筆頭

穴山信君(あなやまのぶただ )は、甲斐武田家の家臣であった穴山氏7代当主であり御一門衆の筆頭でもあった武将です。

出生後に梅雪斎不白と号したため、穴山梅雪の名の方が知られているかもしれません。

武田信玄時代には、主に駿河方面の外交官として暗躍し、後に武田二十四将の一人に数えられる程の人物でした。

もっとも、武田信玄の死後に武田家を継いだ武田勝頼との関係が悪化し、織田信長の甲州征伐が始まると武田家から出奔して織田方に下ったことにより武田家滅亡のきっかけを作るに至っています。

その後、武田勝頼の死後に武田宗家を継ぐことを許されたのですが、本能寺の変の後に本拠地に戻ろうとする途中で落武者狩りによって命を落としたと言われています。 “【穴山信君(穴山梅雪)】織田方に下った武田御一門衆筆頭” の続きを読む

【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、本能寺の変の後の後継者を巡る争いに勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天正10年(1585年)に織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城を廃城して、その代わりとして近江国の国城として築かれた山城です。

徳川家康との間で小牧・長久手の戦いの講和を模索している時期の築城であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されており、八幡山という急峻な山が選地され、戦国期によく見られる城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離構造とされました。

城下には、八幡堀と呼ばれる全長6kmにも及ぶ運河が巡らされ、回船業を営むことができる親浦の一つである八幡浦と共に発展したのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのようにかつての居城であった八幡山城までもが廃城とされました。 “【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城” の続きを読む

【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城

小山城(こやまじょう)は、武田信玄が、徳川家康との密約(大井川より西は徳川領・東は武田領とする約束)を破って大井川西側に攻め込み、そこから遠江国侵攻の橋頭保とする目的で遠江国榛原郡に築かれた平山城です。

密約を破って遠江国へ侵攻する武田家と、それに抗する徳川家との争奪戦の舞台となった城です。

同じ争奪戦が繰り広げられた近くの高天神城や諏訪原城などと比べるとやや知名度が劣るのですが、これらの城とは異なり徳川軍の攻撃では陥落しなかったという実績を残す堅固な城ですので、その詳細について本稿で紹介したいと思います。 “【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城” の続きを読む

【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城

諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国侵攻の兵站基地とするため、天正元年(1573年)に武田勝頼によって遠江国の東端近くの大井川の西側にある牧之原台地の舌状台地の先端部に築かれた戦国山城です。

城内に諏訪大明神を祀ったことからその名が付されました(徳川期に牧野城に改称)。

築城後、遠江国の支配権を巡って争った徳川家康と武田勝頼が争った城であり、徳川家康が獲得した後に三日月堀を巡らした丸馬出が7ヶ所も設けられ、これらが良好な状態で残されていることでも有名です。 “【諏訪原城・牧野城(続日本100名城146番)】武田・徳川の国境防衛のための山城” の続きを読む

【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦

第一次高天神城の戦い(だいいちじたかてんじんじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の最東端拠点であった遠江国・高天神城を攻略した戦いです。

元亀3年(1572年)10月に始まった武田信玄の西上作戦によって領内が蹂躙された徳川家と、その後に武田信玄が死去したことにより家督相続での家内統制に苦慮した武田家との間で繰り広げられた一進一退の攻防戦の1つです。

戦術的に見ると、武田勝頼が大軍を動員して高天神城を攻撃したのに対し、後詰を出せなかった徳川家康・織田信長の威信を大きく下げるという結果をもたらしました。

他方で、戦略的に見ると、遠江国内に拠点を得てしまったがために、この後、高天神城を防衛するために相当の戦力を費やす必要が生じたため、武田家を大きく疲弊させる結果をもたらしています。

本稿は、このように後の武田・徳川・織田の勢力関係に大きな影響をもたらした戦いとなった第一次高天神城の戦いについて、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦” の続きを読む

【膳所城】江戸時代に琵琶湖南側を守った水城

膳所城(ぜぜじょう)は、大津市街の東部に位置する相模川河口付近にあった膳所崎に築かれた湖城です。

元々、この付近を治めるための城として大津城があったのですが、関ヶ原合戦の前哨戦において大津城の防御力の脆弱性が露見したため、徳川家康による豊臣家対策として大津城に代わって築かれました。

東海道陸運と琵琶湖水運を牛耳る位置にあり、往時には、水面に映えるその姿は「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠、水に浮かぶは膳所の城」と謡われるほどの美しさであったと言われています。 “【膳所城】江戸時代に琵琶湖南側を守った水城” の続きを読む

【松平清康】あと5年あれば天下を取れたと言われた徳川家康の祖父

松平清康(まつだいらきよやす)は、安祥松平家の3代当主であり、後の天下人徳川家康の祖父にあたる人物です。

安祥松平家の本拠地を岡崎に移した後、三河国を統一する寸前まで勢力拡大させ、僅か25歳の若さで非業の死を遂げなければ天下を取れたとまで言われた名将でした。

後の徳川家康躍進の基礎を作った人物でもあります。

本稿では、そんな隠れた名将・松平清康の人生について振り返っていきたいと思います。 “【松平清康】あと5年あれば天下を取れたと言われた徳川家康の祖父” の続きを読む

【京都奉行】足利義昭・織田信長連合政権の京都統治機関

永禄11年(1568年)9月に、足利義昭と織田信長が上洛を果たし、その後に足利義昭が室町幕府15代将軍に任命されたのは有名な話ですが、その後の京・畿内の統治がどのように行われたのかについては意外と知られていません。

後に織田信長が足利義昭を追放して独占的支配に至ったため、何となく織田信長が足利義昭を傀儡として統治していたようなイメージを持つ方が多いと思うのですが、そうではないのです。

上洛当初の京の統治者は将軍・足利義昭であり、織田信長はその補佐人でしかありません。

しかも、この時点での織田信長の本拠地は美濃国・岐阜であったために織田信長自ら京(畿内一帯を含む)政策の陣頭指揮を執ることはできず、代理人となる奉行人を在京させて足利義昭を補佐していたに過ぎませんでした。

このとき、足利義昭の補佐をするために京に置かれた足利義昭及び織田信長の代理人を京都奉行(足利義昭追放後に置かれた「京都所司代」や江戸時代に置かれた「江戸町奉行」とは別物です。)といいます。

本稿ではこの京都奉行の紹介を兼ねて、足利義昭・織田信長上洛後の京の統治者の推移について見て行きたいと思います。 “【京都奉行】足利義昭・織田信長連合政権の京都統治機関” の続きを読む

【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、元亀元年(1570年)8月に石山本願寺第11世顕如が三好三人衆と同調して蜂起したことをきっかけとし、これに長島願証寺も呼応して当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島の一向宗門徒が一斉に蜂起し、さらにこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻したことにより発生した一連の戦いです。

織田軍による三度の鎮圧戦が繰り広げられ、最終的に長島の一揆勢が殲滅されるまでに約4年の歳月を要し、その間に織田方にも織田一門衆を含む多くの犠牲者を出しています。

本稿では、泥沼の消耗戦となった長島一向一揆の蜂起とその殲滅戦について、発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦” の続きを読む

【比叡山焼き討ち】織田信長が第六天魔王と呼ばれるに至った殺戮戦

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山麓の寺内町と延暦寺に対して総攻撃をしかけてこれらを焼き払うと共に僧侶・学僧・上人・児童に至るまで虐殺し尽くしたと言われてきた戦いです。

この点については、織田信長が比叡山延暦寺を無効化したことは争いがないのですが、その規模やそこに至る合戦の経緯は諸説あり、その真偽は必ずしも明らかではありません。

そればかりか、近年の発掘調査によると、織田信長による焼き討ちの前から比叡山の施設の多くは廃絶していた可能性が指摘され、これまで伝えられていたような戦いではなかったとする説も有力になってきています。

本稿では、これらも踏まえ、織田信長によって行われた比叡山焼き討ちについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【比叡山焼き討ち】織田信長が第六天魔王と呼ばれるに至った殺戮戦” の続きを読む