天下の台所と称された江戸時代の大坂は、領内で年貢として徴収した米や特産品を集めて売りさばいて現金化するため、各藩の蔵屋敷が米市場のある堂島に近い大坂・中之島周辺に集中しました。そして、これらの蔵屋敷においては、市中に張り巡らされた水路と浪華八百八橋と言われた多くの橋をも利用した陸路を自在に利用して物資の出し入れが行われました。
これらの保管場所として設置された建物は、各藩の大坂屋敷としても機能していたのですが、年貢米を収納する米蔵が大きな場所を占めていたため、米「蔵」がある藩の「屋敷」として、蔵屋敷と呼ばれるようになり、経済の中心地である大坂を特徴づける建物群となっていました。
これらの蔵屋敷は、最盛期である19世紀初頭頃には、100を優に超える数があったとされているのですが、その後の近代化の流れによりその多くが埋没してしまっています(現在でも比較的詳細にわかっている蔵屋敷の構造は、公共施設の設置に際して調査が行われた場所に限定されています。)。
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天満橋エリア
紀州藩
紀州藩蔵屋敷は、現在の日本郵政グループ大阪ビル(大阪市中央区北浜東3-9)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
西天満・北新地エリア
対馬藩
対馬藩蔵屋敷は、現在の大阪弁護士会館(大阪市北区西天満1-12-5)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
尼崎藩
尼崎藩蔵屋敷は、現在の天満警察署(大阪市北区西天満1-12-12)の敷地内東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
佐伯藩
尼崎藩蔵屋敷は、現在の天満警察署(大阪市北区西天満1-12-12)の敷地内西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
弘前藩
佐賀藩蔵屋敷は、現在の大阪高等・地方・簡易裁判所(大阪市北区西天満2-1)の敷地内東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
佐賀藩
佐賀藩蔵屋敷は、現在の大阪高等・地方・簡易裁判所(大阪市北区西天満2-1)の敷地内西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
平成2年(1990年)7月の大阪高等裁判所構内地下駐車場の工事の際に発掘調査がなされ、荷を積んだ船が直接出入りできる舟入(入堀)・屋形・米蔵などの並ぶ様子があったことが確認されています。
また、佐賀藩蔵屋敷の面前(南側)には、鍋島浜(若松浜)と呼ばれる浜が広がっており、夏は納涼、秋は月見の名所として親しまれていました。
小城藩
小城藩蔵屋敷は、現在の堂島関電ビル(大阪市北区西天満2-4-4)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
松山藩
松山藩蔵屋敷は、現在の堂島ビルヂング(大阪市北区西天満2-6-8)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
忍藩
堂島エリア
岡田藩
丸岡藩
新田藩
小田原藩
足守藩
久留米藩
三日月藩
庭瀬藩
大村藩
大村藩蔵屋敷は、現在のNTTテレパーク南側(大阪市北区堂島3-1-2)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
桑名藩
尾張藩
長岡藩
秋田藩
延岡藩
中津藩
中津藩蔵屋敷は、現在のほたるまち(大阪市福島区福島1-1玉江橋北詰すぐ)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
福沢諭吉が生まれた場所としても有名です。
富山藩
人吉藩
人吉藩蔵屋敷は、現在の関西電力病院(大阪市福島区福島2-1ー7)の敷地内東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
臼杵藩
臼杵藩蔵屋敷は、現在の関西電力病院(大阪市福島区福島2-1ー7)の敷地内西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
中之島エリア
仙台藩
大村藩蔵屋敷は、現在の大阪市中央公会堂(大阪市北区中之島1-1-27)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
浜田藩
浜田藩蔵屋敷は、現在の大阪府立中之島図書館(大阪市北区中之島1-2-10)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
福井藩
福井藩蔵屋敷は、現在の大阪市役所(大阪市北区中之島1-3-20)の敷地東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
唐津藩
唐津藩蔵屋敷は、現在の大阪市役所(大阪市北区中之島1-3-20)の敷地西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
水戸藩
島原藩
金沢藩
松山藩
山形藩
長府藩
岡藩
府内藩
府内藩蔵屋敷は、現在の大阪三井物産ビル(大阪市北区中之島2-3-33)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
岡山藩
岡山藩蔵屋敷は、現在の中之島フェスティバルタワー(大阪市北区中之島2-3-18)の敷地西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
平戸藩
平戸藩蔵屋敷は、現在の中之島フェスティバルタワー(大阪市北区中之島2-3-18)の敷地東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
大洲藩
大洲藩蔵屋敷は、現在の中之島フェスティバルタワー・ウエスト(大阪市北区中之島3-2-4)の敷地西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
宇和島藩
宇和島藩蔵屋敷は、現在の中之島フェスティバルタワー・ウエスト(大阪市北区中之島3-2-4)の敷地東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
秋月藩
秋月藩蔵屋敷は、現在の住友中之島ビル(大阪市北区中之島3-2-1)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
福岡藩
福岡藩蔵屋敷は、現在の中之島ダイビル(大阪市北区中之島3-3-2)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
かつて福岡黒田藩蔵屋敷に建っていた長屋門が、昭和8年(1933年)に中之島三井ビル建築に際して大阪市に寄贈された後、現在は天王寺公園内に移築され、大阪市立美術館の南門として利用されています。
鳥取藩
鳥取藩蔵屋敷は、現在のダイビル本館(大阪市北区中之島3-6)・関西電力株式会社本店(大阪市北区中之島3-6-16)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
日出藩
森藩
広島藩
広島藩蔵屋敷は、現在の大阪中之島美術館(大阪市北区中之島4-3-1)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
広島藩大坂蔵屋敷は、詳細な絵図が残っているためその構造が明らかとなっており、約3900坪もの広大な敷地内を高さ3mもある護岸用の石垣で囲み、さらに堂島川から屋敷内まで直接舟を入れて荷揚げできる船入までもが設けられた構造となっていたことがわかっています。
また、広島藩蔵屋敷の面前には、久留米藩蔵屋敷との間に、慶安年間に福島正則が植えたとされる松が植えられていたことでも有名です。
この松は、枝ぶりが蛸の泳ぐ姿に似ているために蛸の松と呼ばれた名木であり、福島家改易後に代わって広島藩主となった浅野家が広島藩蔵屋敷を引き継いだ際、この蛸の松についても毎年扶持十石を与えて維持したといわれています。
なお、蛸の松は明治44年(1911年)に枯れてしまったのですが、その切株の一部が大阪教育大学の天王寺キャンパス内で保存されています。
また、平成16年(2004年)に護岸工事の一環として対岸に松の木が植えられ、蛸の松の碑も建てられています(なぜ,あえて対岸に設置したのかは不明です。)。
今治藩
今治藩蔵屋敷は、現在の国立国際美術館(大阪市北区中之島4-2-5)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
久留米藩
明石藩
明石藩蔵屋敷は、現在の大阪市立科学館(大阪市北区中之島4-2-1)の敷地内東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
岩国藩
岩国藩蔵屋敷は、現在の大阪市立科学館(大阪市北区中之島4-2-1)の敷地内西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
姫路藩
大垣藩
高松藩
高松藩蔵屋敷は、現在のリーガロイヤルホテル大阪(大阪市北区中之島5-3-68)の敷地内東側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
柳川藩
徳島藩
徳島藩蔵屋敷は、現在のリーガロイヤルホテル大阪(大阪市北区中之島5-3-68)の敷地内西側にあたる場所にあった蔵屋敷です。
丸亀藩
肥後藩
肥後熊本藩蔵屋敷は、当初、かつての肥後橋(現在の肥後橋の場所とは異なります)北詰にあった蔵屋敷です。
もっとも、元禄期に中之島西部の越中藩北詰【現在の大阪国際会議場(大阪市北区中之島5-3-51)・住友病院(大阪市北区中之島5-3-2)】に移転し幕末を迎えています。
鹿島藩
鹿島藩蔵屋敷は、現在のザ・パークハウス中之島タワー(大阪市北区中之島6-1)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
杵築藩
津山藩
龍野藩
安志藩
小倉藩
小倉藩蔵屋敷は、現在の中之島センタービル(大阪市北区中之島6-2-2)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
西条藩
西条藩蔵屋敷は、現在の中之島西庭球場(大阪市北区中之島6-3)・中之島西公園(大阪市北区中之島6-4)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
北浜・淀屋橋エリア
彦根藩
彦根藩蔵屋敷は、現在の資生堂大阪ビル(大阪市中央区北浜3-2-28)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
盛岡藩
盛岡藩蔵屋敷は、現在の京阪淀屋橋ビル(大阪市中央区北浜3-2-25)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
吉田藩
吉田藩蔵屋敷は、現在の住友ビル(大阪市中央区北浜4-5-33)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
肥後橋エリア
三田藩
三田藩蔵屋敷は、現在の損保ジャパン日本興亜肥後橋ビル(大阪市西区江戸堀1-11-4)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
松江藩
松江藩蔵屋敷は、現在のNTT西日本土佐堀ビル(大阪市西区土佐堀1-3-34)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
蓮池藩
福山藩
長州藩
長州藩蔵屋敷は、現在のなにわ筋(南北)と土佐堀通り(東西)とが交差する交差点の北東角部にあたる場所(大阪府大阪市西区土佐堀1-5-17)にあった蔵屋敷です。
新谷藩
新谷藩蔵屋敷は、現在の大阪土佐堀ダイビルにあたる場所(大阪府大阪市西区土佐堀2-2-1)にあった蔵屋敷です。
飫肥藩
出石藩
徳山藩
薩摩藩
薩摩藩蔵屋敷は、現在の三井倉庫(大阪市西区土佐堀2-4-9)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
大藩である薩摩藩は、この上屋敷(土佐堀2丁目)のほかに中屋敷(江戸町5丁目)・下屋敷(立売堀西の町)なども設けていました。
林田藩
佐土原藩
小松藩
阿波座エリア
高鍋藩
津和野藩
津和野藩蔵屋敷は、現在の大阪市立花乃井中学校(大阪市西区江戸堀2-8-29)にあたる場所にあった蔵屋敷です。
明治元年の明治天皇の大阪行幸の際に、津和野藩蔵屋敷内の井戸から水をくみ上げて玉水(土佐堀の玉の井の水)として献上されたことから、蔵屋敷自体よりも井戸(此花乃井)の方が有名です。
五島藩
磐城平藩
長堀川沿い
土佐藩
前記のとおり、各藩の蔵屋敷は、中之島や堂島に置かれていました。
これは、各藩で収穫された米や特産物を大坂に集積し売却するためであるところ、当時の物流では水運を利用する必要があったために川沿いの中之島・堂島が立地として最適であったからです。
もっとも、土佐藩蔵屋敷は、これらから約1km南側の長堀川沿いの立売堀(現在の土佐稲荷神社の周辺)に置かれていました。
この理由は、慶長20年(1615年)に大坂の陣により豊臣家が滅亡し大坂城・大坂の町が消失したために、これらを再建するための大規模建築工事が始まったのですが、これを商機と見た土佐藩が江戸幕府の許可を得て立売堀に材木市場(長堀材木座)を開き、土佐藩で伐採した材木を大坂に運び込んだことに始まります。
このとき、土佐藩が、材木市場に近い位置として選定したのが土佐藩蔵屋敷であり、目的が異なるため各藩の蔵屋敷とは異なる場所に置かれることとなったのです。
はじめまして。
大坂蔵屋敷について調べものをしていたところ、こちらのブログに巡り合いました。
大坂に蔵屋敷を置いていた諸大名と、掛屋とのつながりやそのやり取りのエピソードなどご存知でしたらお伺いしたいのですが…。または、こんな参考文献があるよ等、教えていただければ有難いです。突然で不躾ですが、お返事いただけましたら幸いです。