【鎌倉幕府滅亡】新田義貞の挙兵から鎌倉攻めまで

元弘3年(1333年)5月22日、源頼朝が開き、北条氏が権力を奪取して150年続いた鎌倉幕府が滅亡します。

鎌倉幕府滅亡のきっかけは、後醍醐天皇の隠岐脱出に呼応した足利尊氏による六波羅探題攻略だったのですが、トドメを刺したは新田義貞による鎌倉攻略です。

前者は以前解説済みですので、本稿は後者の新田義貞による鎌倉攻めについて見ていきたいと思います。

新田義貞挙兵に至る経緯

鎌倉幕府の千早城攻めから無断逃亡

幕府軍は、楠木正成勢が立てこもる城を次々と攻略し、吉野で戦っていた護良親王を高野山へ追い払います。

残るは楠木正成が籠る千早城だけとなりました。

そこで、鎌倉幕府は、近畿圏に存する全勢力を結集して千早城攻略戦を始めます(千早城の戦い)。

このとき、新田義貞も一族郎党を率いてこれに参戦していました(担当は、千早城搦手口でした。)。

ところが、楠木正成の千早城の守りは固く、なかなか落ちず、いたずらに幕府軍の損害のみが膨らんでいきます。

そうこうしているうちに、大軍の幕府軍が寡兵の千早城攻略に手間取っているとの噂が広がっていき、補給が滞りがちとなり、幕府内から逃亡兵が出始めます。

こうなると幕府軍の士気は一気に低下しますので、幕府軍の将の中からも自分の国へと引き上げる者が出できます。

そして、新田義貞も、元弘3年(1333年)3月、病気になったとの名目で、鎌倉幕府方に無断で本拠地の新田荘に帰ってしまいます。

なお、このときに新田義貞が本拠地に戻った理由として、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたためであるとの説がありますが、本当の理由はわかりません。

鎌倉幕府の使者を切り殺す(1333年4月)

楠木正成の討伐に手を焼いていた鎌倉幕府は、膨大な戦費を費やす戦いを強いられていました。

そこで、鎌倉幕府は、この膨らんでいく戦費を調達するため、周囲の御家人に富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令していました。

そして、鎌倉幕府は、本拠地に戻ってきた新田義貞の下にも、その命令が届きます。

具体的には、元弘3年(1333年)4月、新田荘に、鎌倉幕府の役人である金沢出雲介親連(幕府引付奉行)と黒沼彦四郎(御内人)が訪れ、新田義貞領に、5日以内に6万貫文もの大金を納入するように迫ります。

これに新田義貞は憤激し、黒沼彦四郎を切り殺してその首を世良田の宿に晒し、金沢出雲介親連を幽閉してしましました。

鎌倉幕府の役人を処罰するということは鎌倉幕府に反旗を翻したも同然です。

間もなく、新田義貞の耳に、鎌倉幕府が新田討伐へ軍勢を差し向ける準備をしているという情報が入ります。

新田義貞の心が決まった瞬間でした。

新田義貞挙兵

新田義貞挙兵(1333年5月8日)

鎌倉幕府が新田義貞の討伐準備をしていた際、鎌倉幕府の下に、京で足利尊氏が裏切り六波羅探題を攻撃しているとの報が届きます。

こうなると鎌倉幕府の優先順位は足利尊氏です。新田義貞は二の次です。

そこで、鎌倉幕府・得宗の北条高時は、足利尊氏の反乱を鎮圧するため、大軍を動員し、鎌倉から京に向かって進軍させます。

その結果、鎌倉に残る兵がわずかとなりました。

これを好機と見た(鎌倉幕府に殺される前に鎌倉幕府を滅ぼしてしまおうと考えた)新田義貞は、足利尊氏による六波羅探題陥落の翌日である元弘3年(1333年)5月8日、上野国の生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げます(なお、挙兵日は必ずしも明らかではなく、神明鏡は5月5日、太平記は5月8日、梅松論は5月中旬としていますが、本稿は太平記に従います。)

新田義貞挙兵の時点で集まったのは、新田義貞、脇屋義助、大舘宗氏・その息子の幸氏、氏明、氏兼、堀口貞満、江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義らわずか150騎でした(歩兵数は不明)。

挙兵した新田義貞は、まず生品明神から北方の笠懸野に出た後、東山道を通って利根川に到達し、越後国から馳せ参じた里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの新田一族先発隊2000騎と合流します。

その後、新田義貞は、碓氷川を渡って八幡荘に到着し、越後国から遅れてきた甲斐源氏・信濃源氏の一派などの軍勢5000騎と合流し、ここで新田義貞軍は7000騎もの大軍に膨れ上がります。

八幡荘にて態勢を整えた新田義貞は、同年5月9日、武蔵国へ向かって進んでいきます。

そして、新田義貞は、利根川を越えたとき、鎌倉で人質として残されていたところから逃げてきた足利尊氏の三男・千寿王(後の室町幕府2代将軍足利義詮)と合流します。なお、足利尊氏の長男の子・竹若丸は千寿王とは別の西に向かって逃げていたのですが、途中で鎌倉幕府の御家人に見つかって殺されています。

有力御家人である新田義貞に、同じ立場の足利尊氏の子が加わったことで、一気に反幕府勢力の名が挙がります。

その後も、武蔵七党や河越氏ら周辺の御家人が次々と加わり、数万騎規模にまで膨れ上がった新田軍は、元弘3年(1333年)5月10日、鎌倉街道を南下して入間川の北側に到達します。

鎌倉幕府の対応

新田義貞挙兵の報を受けた鎌倉幕府では、その対応についての評定が行われ、本隊として桜田貞国を総大将とする武蔵・上野方面軍が鎌倉街道の上ノ道より入間川へと向かい、また別動隊として金沢貞将が上総、下総の軍勢を率いて下総の下河辺壮に赴いて新田軍の背後を突く形をとることとなりました。

そして、元弘3年(1333年)5月10日、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野方面軍3万人が鎌倉街道を北上します。

そして、同隊は、上ノ道より入間川へと向かい、入間川南側に到達したため、新田軍と幕府軍が入間川を隔てて対峙することとなりました。

鎌倉へ向かって進軍

小手指原の戦い(1333年5月11日)

新田義貞は、元弘3年(1333年)5月11日朝、率いる軍を入間川を渡らせて小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)まで進め、桜田貞国率いる鎌倉幕府軍と衝突します(小手指原の戦い)。

このとき鎌倉幕府軍は、新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃する算段だったのですが、既に入間川を渡っていた新田軍と遭遇戦の形で合戦が始まってしまいました。

陣を敷く間もなく始まった合戦は、兵数こそ幕府軍の方が勝っていたが、鎌倉幕府軍が浮足立っていたこと、新田義貞同様幕府へ不満を募らせていた河越高重ら武蔵の御家人らが新田軍の援護に回るなどしたため、次第に新田軍に戦局が傾きます。

結果、日没までに新田軍は300人、幕府軍は500人ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊して小手指原の戦いは終わります。

そして、新田義貞は入間川まで、鎌倉幕府軍は久米川まで一旦下がって軍勢を立て直しを図ります。

久米川の戦い(1333年5月12日)

久米川(現在の柳瀬川)の南まで退いた鎌倉幕府軍は、新田軍の南下を食い止めるべく、久米川南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)に陣を敷き、新田軍を待ち構えます。

他方、新田軍は、八国山(現在、この陣の跡地は将軍塚と呼ばれています。)に陣を張り、鎌倉幕府軍と対峙します。

元弘3年(1333年)5月12日朝、新田義貞軍が久米川南岸に布陣する鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛けたことで戦闘が発生します(久米川の戦い)。

もっとも、鎌倉幕府軍総大将の桜田貞国は新田義貞の奇襲に対する備えを講じていたため、奇襲自体は成功しませんでした。

ところが、新田義貞は、鎌倉幕府軍が鶴翼の陣を敷いて新田軍を包囲するような陣形を敷いていたのを見て中央の本陣が手薄となっているのを見抜きます。

そこで、新田義貞は、軍勢を鎌倉幕府本陣に向かった一点突破させ、長崎、加治軍を撃破した後、鎌倉幕府軍総大将の桜田貞国を多摩川の分倍河原(現在の東京都府中市)まで撤退させます。

分倍河原の戦い(1333年5月15日)

再度後退を強いられた鎌倉幕府軍ですが、ここに援軍として北条泰家率いる10万騎が到着したため、下がっていた士気が一気に回復します。

援軍到着により、鎌倉幕府軍は、元々兵と合わせて15万騎もの大軍勢となります。

援軍が到着したことを知らない新田義貞は、元弘3年(1333年)5月15日未明、分倍河原に陣を敷く士気旺盛な15万人の大軍に突撃を敢行してしまいます(分倍河原の戦い)。

大軍に寡兵で突撃する形となった新田義貞軍は、当然に鎌倉幕府軍に撃退されます。

殲滅される危機に瀕した新田軍では、総大将の新田義貞自らも武器を手に取り、何とか鎌倉幕府軍の横腹を突いて血路を開き堀兼まで敗走する大惨敗を喫します。

このとき、鎌倉幕府軍は、なぜか撤退する新田義貞を追撃しなかったため、新田義貞は何とか生き延びることができました。

堀兼まで敗走し、新田荘までの撤退を覚悟した新田義貞ですが、その日の夜、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷・本間ら相模国の氏族を統率し軍勢6000騎を引き連れて新田義貞に加勢します(なお、大多和義勝は足利一族から養子に入った人物であるため、新田義貞への加勢の背景には足利宗家の意図、命令があった可能性が指摘されています。)。

一気に勢力を増強した新田義貞軍は、夜明けを待ち、同年5月16日早朝、大多和義勝を先鋒とする2万の軍勢で分倍河原に陣取る鎌倉幕府軍に襲い掛かり、前日の大勝により緊張が緩んでいだ鎌倉幕府軍を蹂躙します。

新田義貞の奇襲に驚いた北条泰家ら鎌倉幕府軍は大混乱に陥り、多摩川を越えて南に向かって壊走します。

関戸の戦い(1333年5月16日)

分倍河原の戦いで勝利した新田義貞軍は、そのままの勢いで逃げる鎌倉幕府を追いかけ、多摩川を越えていきます。

他方、北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟)は鎌倉幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)一帯まで引いて体制を立て直したため、ここで鎌倉幕府軍と追ってきた新田義貞軍と激突します(関戸の戦い)。

この戦いは、鎌倉幕府方は横溝八郎、安保入道父子らが討死し、北条泰家が命からがら鎌倉に逃げ帰ることとなったことから、関戸の戦いは新田義貞の大勝利に終わります。

勝利した新田義貞軍は、関戸に1日逗留して体勢を立て直し、翌元弘3年(1333年)5月17日、20万騎とも言われる大軍に膨れ上がった状態で鎌倉に向かって進軍を開始します。

なお、霞ノ関跡の周辺には横溝八郎、安保入道父子の墓と伝えられる塚や無縁仏(無名戦士の墓)が残っており、旧鎌倉街道沿いにある地蔵堂の前には関戸古戦場跡の標柱が建っていますので、興味のある方は是非。

新田義貞軍による鎌倉攻略戦

鎌倉幕府の守り

新田義貞迫るの報を聞いた鎌倉幕府軍は、直ちに鎌倉の防備を固めます。

鎌倉は、南を海で守られ、北・東・西はを小さな丘陵に囲まれた天然の要害で、鎌倉に侵攻するためには物資運搬にために山などと切り開いて造った細い道路である切通し(きりとおし)を通るしかありません。

鎌倉幕府は、この切通しのうち、化粧坂に金沢貞将、極楽寺坂切通しに大仏貞直、洲崎(小袋坂、巨福呂坂切通し)に北条守時をそれぞれを配置するなどした上で、鎌倉の中央部に遊軍を編成して危なくなった切通しにすぐに援軍を派遣できるよう準備して新田義貞軍を待ち構えます。

切通しに軍勢を配備されてしまったため、鎌倉攻略ために大軍で一気に侵攻することができなくなり、新田義貞の大軍の利が生かせなくなってしまします。

鎌倉攻め開始(1333年5月18日)

関戸を出発した新田義貞は、部隊を鎌倉の西賀に展開させ、これを3隊に分けて、新田義貞の本隊が化粧坂切通しから、大舘宗氏・江田行義隊が極楽寺坂切通しから、堀口貞満・大島守之隊が巨福呂坂切通しから同時に鎌倉を攻撃する作戦を立案します。

そして、新田義貞は、元弘3年(1333年)5月18日明朝、村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂などの50余ヶ所に放火した上で、3箇所から同時に鎌倉に攻め込みます。

ところが、前記のとおり鎌倉は天険に守られた天然の要害である上、鎌倉幕府方の守備配置も完璧であったため、新田義貞軍では大舘宗氏が討ち死にし、他方鎌倉幕府軍では北条守時が自害するなどの激戦の末、新田義貞方の3部隊はいずれも切通しの突破に失敗します。

また、この後も新田義貞軍は、切通しの突破を果たせませんでした。

新田義貞軍鎌倉突入(稲村ヶ崎伝説)

切通しからの突入が困難であると考えた新田義貞は、南側に回り込み、稲村ヶ崎の海岸からの鎌倉侵攻に作戦を変更します。

もっとも、当時の稲村ヶ崎の海岸は、波打ち際は切り立った崖で、石が高く道が狭小なため、新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎を越えることは困難でした。

そこで、言い伝えでは、元弘3年(1333年)5月21日、新田義貞が自ら潮が引くのを念じて黄金の太刀を投じ、龍神が呼応して潮が引く奇蹟が起こった結果潮が引いて干潟となったために、新田義貞軍が岬の南から鎌倉に攻め入ることができたとされています(太平記)。

なお、この話はあくまで伝説であり、その経緯は眉唾ものですが、同年5月21日早朝に稲村ヶ崎に干潮が起きたそうですので、新田義貞軍がこの干潮を利用して稲村ヶ崎を突破した可能性が高いと言われています(天文計算によると干潮は5月18日午前4時15分ころに発生したらしく、太平記の記載の5月21日と日付に齟齬が生じていることからその理由が争いとなっていますが、詳しいことは分かりませんので、この辺りは本稿ではスルーします。)。

鎌倉幕府滅亡(1333年5月22日)

稲村ヶ崎を突破した新田義貞軍は、稲瀬川から由比ガ浜の家々に火を放ちつつ進軍し、鎌倉幕府軍とが鎌倉市内で激戦を繰り広げます(由比ヶ浜の戦い)。

鎌倉に敵兵の進入を許したことで鎌倉幕府軍は大混乱に陥って防御が手薄となり、切通しからも新田義貞軍が次々に鎌倉に乱入していきます。

南北から鎌倉に侵攻することとなった新田義貞軍は、鎌倉幕府軍を挟み撃ちにして鎌倉幕府軍を殲滅していきます。

鎌倉幕府軍も必死に防戦をしますが勢いは新田義貞軍にあり、激戦の末、大仏貞直、金沢貞将など幕府方有力武将が相次いで討ち死にしていきます。

やがて、鎌倉市小町の現在の宝戒寺の場所にあった北条執権亭にも火が迫ります。

北条高時ら北条一門は、鎌倉幕府の最期であることを悟って菩提寺である葛西ヶ谷の東勝寺に集まったことから、最後の戦場が東勝寺に移ります。

そして、ついに元弘3年(1333年)5月22日、北条高時ら北条一門が自害し(東勝寺合戦)、名目上の鎌倉幕府の長であった将軍守邦親王が将軍職を辞して出家したことにより、鎌倉幕府が滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡により、150年ぶりの天皇親政となる建武の新政、室町幕府の成立、南北朝の動乱へと続いていくのですが、長くなるのでこれらの話は別稿で。

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