碓井姫(うすいひめ)は、松平清康の娘として生まれた女性であり、徳川家康の父方の叔母にあたります。
また、碓井姫の母が、松平清康と再婚する前に水野忠政に嫁いで徳川家康の母である於大の方を生んでいますので、徳川家康の母方の叔母にもあたります。
碓井姫は、当初、長沢松平家の松平政忠に嫁いだのですが、松平政忠が桶狭間の戦いで死去した後、徳川四天王筆頭・酒井忠次に再嫁し、嫡男酒井家次を儲けています。
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碓井姫の出自
出生
碓井姫は、安祥松平家の3代当主であった岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)の娘として西三河で生まれます。
生年は享禄2年(1529年)とも言われますが正確には不明です。なお、碓井姫の実名は「於久」といい、吉田城主となった酒井忠次の正室であったことから「吉田殿」、法号から「光樹院殿」・「光樹夫人」などとも呼ばれますが、本稿では一般的な名称である碓井姫の表記で統一します。
碓井姫の母は、松平清康と再婚する前に水野忠政に嫁いで徳川家康の母である於大の方を生んでいる江州佐々木氏流の尾張・青木加賀守弌宗の娘である華陽院(源応尼)です。
このため、碓井姫は徳川家康の父方の叔母であるとともに、母方の叔母(異父妹)でもあるという関係となります。
長沢松平家の松平政忠に嫁ぐ
成長した碓井姫は、長沢松平家7代当主であった松平政忠に嫁ぎ、松平康忠を儲けます。
もっとも、永禄3年(1560年)、松平政忠が桶狭間の戦いで織田信長軍に討ち取られると、15歳であった松平康忠が長沢松平家を相続し、これを祖父である松平親広(浄賢)が後見することとなります。
酒井忠次に再嫁
酒井忠次に嫁ぐ
桶狭間の戦いのどさくさに紛れて今川家からの人質から脱して岡崎城に入った徳川家康(この頃は松平元康と名乗っていましたが、本稿では徳川家康の表記で統一します。)は、岡崎城にて家臣団の再編成を行います。
このとき、徳川家康の人質時代を通じて岡崎城を守っていた岡崎奉行衆の筆頭格であった酒井忠次に対し、自身に近い身分を持つ碓井姫を再嫁させてその忠誠心を高めます(自分の叔母を娶らせていることから酒井忠次に対する徳川家康の配慮が見て取れます。)。
酒井家次を儲ける(1564年)
その後、碓井姫は、酒井忠次との間に、永禄7年(1564年)に酒井家次を、永禄12年(1569年)に本多康俊(後の本多忠次の養子)を儲けています(寛政譜)。
また、小笠原信之(後の小笠原信嶺の養子)や「おふう」(後の松平伊昌室)も碓井姫の子とする説もありますが、寛政譜では母は某氏とされ、碓井姫の子とはされていませんので、正確なところはわかっていません。
吉田城に入る(1564年)
永禄7年(1564年)、徳川家康の東三河平定戦において吉田城を開城させる功を挙げた酒井忠次は、戦後に吉田城を与えられ、東三河の国人衆の統括者としての役割を担うようになります。
これにより、碓井姫もまた吉田城に入り、吉田城主の室という意味で「吉田殿」とも呼ばれます。
夫・酒井忠次が京へ(1588年)
天正16年(1588年)、酒井忠次が隠居して酒井家の家督を嫡男の酒井家次に譲ります。
隠居した酒井忠次は、豊臣秀吉に請われて京に上り、桜井屋敷(現在の京都市上京区桜井町。智恵光院五辻下ル、首途八幡宮付近)と在京料として近江国内に1000石の知行地を与えられて在京します。
碓井姫と呼ばれる
天正18年(1590年)に徳川家康の関東移封が行われるとなると、酒井忠次との間に儲けた酒井家次が3万石を与えられて下総国碓井(臼井)城に入り臼井藩を立藩します。
このとき、61歳であった碓井姫もまたこれに従って碓井(臼井)城に入り、以降、藩主の母として以降「碓井姫」と呼ばれるようになります(寛政重修諸家譜)。
酒井忠次死去(1596年10月28日)
慶長元年(1596年)10月28日、夫である酒井忠次が京で死去し、知恩院先求院に葬られます。
また、酒井家次は、慶長9年(1604年)12月、5万石を与えられて上野国高崎藩に移封となり、臼井藩は廃藩となります。
碓井姫の最期
碓井姫は、慶長17年(1612年)11月27日、死去します(寛政譜)。
その後、碓井姫は、その遺言に従い、夫である酒井忠次と同じ恩院先求院に葬られたとも(酒井忠次公傳)、三河国宝蔵寺に葬られたとも言われています(寛政譜)。
法名は光樹院殿宗月丸心大禅定尼です。
その後、酒井家が、出羽国に移って庄内藩を開くと、碓井姫の亡骸は大督寺に改葬され、大督寺光誉窓月の法名を授けられています。
なお、大督寺は、酒井家次が臼井に入った際に三河大樹寺16世の慶円和尚を招いて臼井に開いた大信寺を基とし、酒井家次の高崎移封の際に共に移った後、碓井姫の死去に際してその法名をもらって「大督寺」と改め、さらに酒井家の庄内家封の際に共に鶴岡に移った寺です。