【督姫】北条氏直・池田輝政の室となって5男4女を儲けた徳川家康の次女

督姫(とくひめ)は、徳川家康の二女として、徳川家康の側室であった西郡局との間に生まれた女性です。

北条家との同盟の証として若くして北条氏直の室となり、北条家滅亡・北条氏直死亡後には豊臣秀吉の仲介により池田輝政の継室となりました。

生涯で9人(北条氏直との間に2女、池田輝政との間に5男2女)もの子を産んだ上、その子らを偏愛して、徳川家康の子と言う立場を存分に利用して5人の子をいずれも藩主に据えることに成功した政治手腕も注目されます。

督姫の出自

督姫は、天正3年(1575年)11月11日、徳川家康の次女として、その側室であった西郡局との間に生まれます(因州鳥取慶安寺略記・幕府祚胤伝など)。

名を「ふう」、別名「富子」と言いました。

生年について、徳川幕府家譜では永禄8年(1565年)とされているのですが、これによると末子となる池田輝興を47歳という超高齢で産んだことになりますので強い疑問が残ります。

他方で、天正3年説だとすると、13歳年上の北条氏直が出産困難である9歳の督姫を室に迎えたこととなるのですが、督姫と交流のあった醍醐寺座主の義演によって記された義演准后日記・元和元年正月晦日の条 など記載とも合致しますので、天正3年説の方が整合性が高いのではないかと考えられます。

北条氏直の正室となる

北条氏直に嫁ぐ(1583年8月15日)

天正10年(1582年)6月2日に発生した本能寺の変によって織田信長が横死すると、その遺領であった旧武田領の甲斐国・信濃国・上野国を巡って、徳川家・北条家・上杉家による領土切り取り合戦が始まります(天正壬午の乱)。

その後、徳川・北条間において、徳川家が甲斐国・信濃国を、北条家が上野国を領有し、徳川家康の娘である督姫を北条家4代当主北条氏政の嫡男であった北条氏直(後の後北条5代)の正室として差し出すとの内容で和議が成立します。

そして、天正11年(1583年)8月15日、督姫が、北条氏直に嫁ぎます。

なお、督姫の祖母である今川氏親娘が、北条氏直の祖母である瑞渓院と姉妹にあたるため、督姫と北条氏直は再従兄妹(はとこ)関係にあたります。

北条氏直に嫁いだ督姫は、北条氏直との間に、摩尼珠院殿妙勝童女(実名不明)・万姫という2人の女児を儲けます。

北条家滅亡(1590年)

ところが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に敗れたことにより戦国大名としての北条家は取り潰しとなります。

このとき、義父である徳川家康の助命嘆願により北条氏直は助命されることとなり、同年8月12日に高野山に流されて「見性斎」と称し、高室院にて謹慎生活を送ります。

その後、天正19年(1591年)2月に赦免処分とされた北条氏直は、同年5月上旬に大坂の旧織田信雄邸を与えられ、同年8月19日には豊臣秀吉と対面し、正式に赦免とされ、1万石(河内国内6000石及び下野国内4000石)を与えられて豊臣大名として復活しました。

北条氏直死去(1591年)

この結果、小田原に居住していた督姫は、放免された北条氏直の下に向かい、天正19年(1591年)8月27日に大坂に到着します。

ところが、北条氏直が、同年11月4日、疱瘡を患って30歳の若さで大坂で病死します(多聞院日記)。

また、文禄2年(1593年)には、北条氏直との間に産まれた摩尼珠院殿妙勝童女(実名不明)までもが夭折します。

池田輝政の継室となる

池田輝政に嫁ぐ(1594年12月27日)

北条氏直の死後、父である徳川家康の下に戻っていた督姫でしたが、文禄3年(1594年)12月27日、豊臣秀吉の仲介によって三河国渥美郡の吉田城主であった池田輝政に嫁ぎます。

池田輝政の正室であった糸姫は天正12年(1584年)9月7日に池田利隆を出産した際に出血が止まらず、それがもとで病気になり実家に帰っていたため(池田家履歴略記)、督姫がその継室となったのです。

池田輝政との間に5男2女を儲ける

嫁いだ後の督姫と池田輝政との関係は良好であり、結婚後、以下の5男2女を儲けています。

① 千姫(茶々姫):慶長元年(1596年)8月3日出生

② 池田忠継:慶長4年(1599年)2月18日出生

③ 池田忠雄:慶長7年(1602年)10月18日出生

④ 池田輝澄:慶長9年(1604年)出生

⑤ 池田政綱:慶長10年(1605年)出生

⑥ 振姫:慶長12年(1607年)4月21日出生

⑦ 池田輝興:慶長16年(1611年)1月15日出生

播磨御前と呼ばれる(1600年ころ)

関ヶ原の戦いの前哨戦となる岐阜城の戦いでの武功を評価された池田輝政が、播磨姫路52万石に加増移封されて姫路藩を立藩すると、督姫もまた姫路に移って播磨御前と呼ばれるようになります。

実子に対する偏愛

万姫婚姻計画

姫路藩立藩により、池田家が当時全国8番目の知行となる国持大大名となったことから、督姫は、自身の血筋を持つ者に池田家を継がせようと考え、池田輝政の長男である池田利隆(池田輝政の前妻の子)に、督姫と北条氏直の娘である万姫を嫁がせようと画策します。

ところが、この画策が成功する前の慶長7年(1602年)11月20日に17歳であった万姫が病死してしまったため、画策は失敗に終わります。

池田忠継・池田忠雄に大領を得させる

万姫の死により池田本家に自分の血を入れることができなくなった督姫は、慶長8年(1603年)に小早川秀秋が死去したことを好機と見て江戸幕府に働きかけ、当時5歳であった池田忠継を岡山藩28万石の主に据えてしまいます。

その後、慶長14年(1609年)4月2日には、自身の子である池田忠継・池田忠雄・池田輝澄と5000人もの供を引き連れて駿府を訪れて徳川家康に接近するなどし、当時8歳であった徳川頼宣と能楽を演じて関係を深めます。

そして、慶長15年(1610年)には、当時9歳であった池田忠雄に淡路国6万3000石を与えることに成功します。

池田輝政死去(1613年1月25日)

慶長18年(1613年)1月25日に夫である池田輝政が中風(脳血管の疾患)により死去したため、督姫は落飾して良正院と号します。

その後、同年5月27日に相続の処理のために駿府に赴きます。

そして、同年6月に、池田輝政の前妻の子である池田利隆が池田家の家督を継ぎます。

このとき、督姫への配慮もあり、池田輝政の次男であり督姫の子である池田忠継に対して西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)10万石が分与されることとなったため、池田忠継の所領は、それまでの28万石に10万石を加えた38万石となります。

他方、姫路藩池田本家の所領は42万石に減らされることとなりました。

督姫の最期

督姫死去(1615年2月4日)

督姫は、徳川家康と面会するために上洛して滞在していた二条城で疱瘡にかかり、慶長20年(1615年)2月4日に死去しました。享年は41歳でした(永禄8年/1565年誕生説だと51歳)。

毒饅頭事件?(1615年2月23日)

以上のとおり、督姫の実子に対する偏愛ぶりは有名であり、慶長20年(1615年)2月23日に池田忠継が16歳の若さで亡くなったことに起因して以下の噂話が残されるにまで至っています。

この話の概略は、督姫が、池田輝政と前妻・糸姫との子である池田利隆を廃し、自身の子である池田忠継に池田家を継がせようと考えるに至り、姫路城内で池田利隆の暗殺を企てたというものです。

具体的には、岡山城内において督姫・池田利隆・池田忠継らが集まっていた際、督姫が池田利隆に対して毒入り饅頭を勧めたのですが、運んできた女中が掌に「どく」と書いて池田利隆に見せたため池田利隆がこれに手をつけなかったところ、これを察知した池田忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、身をもって池田利隆を守って死亡します。池田利隆の暗殺に失敗した上、代わりに愛する息子である池田忠継が死亡してしまったことに悲観した督姫が、続けて自ら毒饅頭を食べて死亡したというものです。

実際の池田忠継の死因が疱瘡であること、督姫が池田忠継死亡以前の同年2月4日に死去していること、昭和53年(1978年)に池田忠継の遺体検査の際に毒物が検出されなかったことなどから、このような事件がなかったことは明らかなのですが、このような噂が立つほどに督姫の子供に対する寵愛ぶりが広く知られていたことがわかります。

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