近衛前久(近衞前久・このえさきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した公卿です。
関白宣下を受けた上藤氏長者となるなど朝廷内上り詰めたにも関わらず、上杉謙信や織田信長に接近するなどして武士の世界にも口を出して暗躍していきます。
特に織田信長とは鷹狩という共通の趣味から意気投合し、織田信長のために毛利攻めの後方支援や石山合戦の和議を取り付けるなど、外交面でその能力を発揮します。
もっとも、本能寺の変で織田信長が横死した後は豊臣秀吉に煙たがられて勢いを失っています。
本稿では、破天荒人生を歩んだ近衛前久の人生について説明死していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
近衛前久の出自
出生(1536年)
近衛前久は、天文5年(1536年)、京において、太政大臣・近衞稙家の長男として久我通言の養女慶子との間に生まれます。
なお、近衛前久は、晴嗣→前嗣→前久と名を変えており、また本来の表記も「近衞前久」となりますが、本稿では便宜上「近衛前久」の表記で統一します。
元服(1540年)
近衛前久は、天文9年(1540年)12月30日に元服し、叔母の慶寿院の夫であった室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)と名乗ります。
また、同時に正五位下に叙して禁色を聴されます。
関白就任
朝廷で出世を重ねる
元服した近衛前久は、幼くして朝廷内で出生を重ねていきます。主なものは以下のとおりです。
天文10年(1541年)1月3日、左近衛権少将に任官
同年1月5日、従四位上に昇叙
同年2月24日、左近衛権中将に転任
同年2月27日、従三位に昇叙(公卿に列する)
同年3月27日、伊予権守を兼任
天文11年(1542年)1月5日、正三位に昇叙
同年2月2日、権中納言に転任
天文13年(1544年)1月6日、従二位に昇叙
天文14年(1545年)12月23日、権大納言に転任
天文15年(1546年)3月13日、右近衛大将を兼任
同年12月23日、右近衛大将を辞して左近衛大将兼任
天文16年(1547年)1月5日、正二位に昇叙
同年2月17日、内大臣に転任
天文22年(1553年)1月26日、右大臣に転任
関白宣下(1554年3月2日)
上記の出世を経た後、近衛前久は、天文23年(1554年)3月2日、関白宣下を受けます。
また、同年4月11日左大臣に転任し、藤氏長者にも就任します。
近衛前嗣に改名(1555年1月13日)
天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙します。
また、このとき、室町幕府13代将軍の足利義輝が三好長慶と対立して朽木に逃れた状況下であったため、近衛前久は、旗色が悪い足利義輝との関係を断つこと明確にするため、足利将軍家からの偏諱である「晴」の字を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めます。
関東公方就任計画失敗
長尾景虎と誼を通じる(1559年)
永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛してきたのですが、このとき近衛前久は、長尾景虎と意気投合します。
そして、2人は、協力して関東を統合した後その勢いで上洛して畿内を制圧し、近衛前久は関東公方、長尾景虎は関東管領の地位を得るという計画を練り上げ、血書の起請文まで取り交わします。
越後国下向(1560年)
ここからが近衛前久の真骨頂です。
近衛前久は、関白という朝廷の最高職にありながら、長尾景虎との約束を果たすため、永禄3年(1560年)9月19日、長尾景虎のいる越後国に下向します。
その後、当初の盟約のとおり、永禄4年(1561年)閏3月16日、長尾景虎が山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎と改めました。
上杉政虎(長尾景虎)の関東管領就任を見届けた近衛前久は、次は自分が関東公方になる番であると考え、同年初夏以降、上杉政虎の関東平定を助けるために上野国厩橋や下総国古河に拠点を定めて足利藤氏を支援するなどの活動を続けます。
また、上杉政虎が越後国に帰国した際には、かつての古河公方の本拠地であった古河城に残り、危険を覚悟の上で関東の情勢を逐一越後に伝えるなどの役割を担います。
近衛前久に改名
なお、近衛前久は、この頃に名を「前嗣」から「前久(さきひさ)」に改め、また花押を公家様式から武家様式のものに変更しています。
もっとも、前線に立って次々と関東を攻略していく上杉政虎とは異なり、後方で暗躍する近衛前久に対する関東諸将の支持は集まらず、近衛前久の関東公方就任の話は一向に進みませんでした。
さらに、武田信玄が信濃国を制圧して越後国に迫り、またこれに呼応した北条氏康からの反抗もあったため、二方面作戦を強いられた上杉政虎の関東平定が進まなくなります。
近衛前久帰京(1562年8月)
武田信玄の越後侵攻を防ぐために上杉政虎が越後国に戻ったきりとなると、近衛前久が単独で古河城に残されることとなります。
こうなると、近衛前久は、上杉家の援護なしに北条氏康・北条氏政の脅威にさらされることとなります。
勝てるはずがありません。
身の危険を感じた近衛前久は、永禄5年(1562年)8月、上杉政虎の説得を振り切って独壇で帰洛してしまいます。
上杉政虎は、この近衛前久の独断帰洛に立腹し、上杉政虎と近衛前久は絶交関係となったと言われています。
関白解任
三好三人衆に接近
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆と松永久通が、室町幕府13代将軍であった足利義輝を殺害するという大事件を起こします(永禄の変)。
このとき、将軍殺しの罪を問われることを恐れた三好三人衆は、関白であった近衛前久に助けを求めます。
近衛前久としては、従兄弟でもある足利義輝を殺害した三好三人衆を処断すべきであったのでしょうが、何を思ったのか、三好三人衆を許して彼らが推す足利義栄を14代将軍に就任させるという決定まで下します(なお、三好三人衆を許した形式的理由は、彼らが近衛前久の姉でもあった足利義輝の正室を保護したからというものでした。)。
徳川家康改名に尽力(1566年12月29日)
桶狭間の戦いの後に今川家から独立し、大名としての歩みを始めた松平家康が、三河一国を事実上平定するまでにその勢力を拡大し、朝廷に対して三河守任官の申請をしてきます。
ところが、朝廷からは、松平家から国主となった前例がなく、素性の明らかでない松平家康を国主に任命することなどできないとし、この申請を却下します。
困った松平家康は、自身の素性をかつて国主となったことがある人物に無理やりつなげるよう画策を始め、三河国出身の京都誓願寺住持であった泰翁(たいおう)の仲介により近衛前久に接近します。
ここで、近衛前久は、古い記録を繋ぎ合わせ、松平氏の祖とされる世良田義季が「得川」姓を名乗っていたこととし、この得川姓が源氏・新田氏系で「藤原」の姓を名乗ったことがあることと判断してこの内容を基に、松平家康の先祖は元々は源氏の家系であり、総領家は藤原氏になったとする真偽不明の系図を作成して朝廷に提出します。
その上で、徳川家康は、徳河郷にちなみ「徳川」姓への改姓(復姓?)と従五位下三河守補任を朝廷に申し出て、一代のみとの条件の下でこれが許されました。
この結果、永禄9年12月29日(1567年2月18日)、松平家康は徳川家康と改名し、先祖に国主となった前例が出来上がったため、晴れて従五位下・三河守に任じられることとなりました。
こうして、徳川家康が三河国の国主(三河守)になるために無理やりこじつけるための名を与えた近衛前久は、徳川家康に大きな恩を売ったこととなりました。
関白解任と追放(1568年)
ところが、永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると事態が一変します。
京に入った足利義昭が、足利義輝殺害に近衛前久が関与しているのではないかと疑い、この足利義昭の疑念に、近衛前久の政敵であった前関白の二条晴良が同調してその罪を追求したからです。
そして、足利義昭は、永禄の変の後の行動から、近衛前久が足利義輝殺害に関与していると判断した足利義昭は、近衛前久を朝廷から追放するという処分を下します。
帰京(1575年2月)
京を追われた近衛前久は、永禄11年(1568年)10月に赤井直正を頼って丹波国黒井城の下館に逃れた後、同年12月16日には本願寺11世顕如を頼って摂津国石山御坊に移ります。
ここで、近衛前久は、顕如の長男であった教如を猶子としています。
関白を解任された近衛前久は、関白・二条晴良や足利義昭を排除する目的で三好三人衆に協力し、足利義昭を擁する織田信長打倒のために本願寺に決起を促したと言われています。
もっとも、近衛前久には、織田信長に対する敵意はかったと考えられています。それどころか、近衛前久は、鷹狩りという共通の趣味を持っていたことから有していたことから、織田信長との親交を深めていたようです。
そのため、織田信長と足利義昭との関係が悪化して天正元年(1573年)に足利義昭が追放されると、近衛前久は、本願寺を離れて再び赤井直正の下に移り、「信長包囲網」からの離脱の意思を示します。
この結果、近衛前久は、天正3年(1575年)2月、織田信長の奏上により帰洛を許されます。
織田信長に重用される
織田信長の毛利攻めに協力
織田信長の計らいで京に戻った近衛前久は、天正3年(1575年)9月、織田信長の要請を受け、毛利攻めを進めるために、九州をまとめ上げて毛利家の後方を脅かすべく大友家・伊東家・相良家・島津家の和議を進めます。
その後、近衛前久は、天正5年(1577年)2月26日に京に戻り、同年7月20日朝廷に再出仕した後、翌天正6年(1578年)1月20日には准三宮宣下を受けます。
織田信長との蜜月
その後も近衛前久と織田信長の蜜月関係は続き、天正6年(1578年)6月には、少数の供を伴って2人で鷹狩りに出かけ、その場で織田信長が、近衛前久に1500石の加増命令書を書いて手渡すなどしています。
これは、当時の公家領としては破格の加増でした。
また、天正7年(1579年)には、二条御所近辺に羽柴秀吉邸として建設された武家造の建物が、織田信長に没収された後で近衛前久に贈られています。
石山本願寺明渡交渉成功(1580年)
その後、近衛前久は、かつて本願寺に滞在し、また教如を猶子とした縁を買われ、織田信長から泥沼化していた石山合戦を終わらせるべく本願寺との調停を依頼されます。
そして、近衛前久は、天正8年(1580年)、調停を成立させ、石山本願寺から顕如を退去させることに成功します。
約10年にも亘る泥沼の石山合戦を終わらせた近衛前久に対する織田信長の評価は極めて高く、織田信長は、天下平定の暁には近衛家に一国を献上すると約束した程でした(近衛前久から息子・近衛信基にあてた手紙)。
その後、近衛前久は、天正10年(1582年)2月2日に太政大臣に就任し、同年3月の甲州征伐の際は織田信長に同行しています。
もっとも、織田信長の三職推任問題に関連し、同職を織田信長に譲るため、同年5月に織田信長を後任として推挙して太政大臣を辞任しています。
本能寺の変(1582年6月2日)
織田信長の後ろ盾を得て順調に力を付けていった近衛前久でしたが、その運命を一変させる事件が起こります。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が、明智光秀の謀反により京の本能寺において横死したのです(本願寺の変)。
織田信長の後ろ盾あっての出世ということを十二分に理解していた近衛前久は、織田信長の死を悼み、その日のうちに失意の中で落飾して竜山(龍山)と号します。
もっとも、本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出した近衛前久邸を明智光秀軍が占拠しそこから二条新御所を攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれが付いて近衛前久自身が明智光秀に加担したとの風説が流されたことから、近衛前久は、織田信孝や羽柴秀吉から厳しい詰問を受けます。
身の危険を感じた近衛前久は、同年11月に京を離れ、かつて改姓の際に恩を売った徳川家康を頼って遠江国浜松に下向します。
その後、天正11年(1583年)9月に徳川家康の斡旋により京に戻った近衛前久でしたが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉と徳川家康との合戦に発展したため、同年3月には再び京を離れて大和国に下向し、美濃国を経た後に両者の和議がなってから京に戻っています。
近衛基久の最期
羽柴秀吉を猶子とする(1585年7月11日)
京に戻った近衛前久は、天正13年(1585年)7月11日、羽柴秀吉に関白職に就かせるために羽柴秀吉を猶子として迎えます。
近衛前久邸建築の経緯や本能寺の変の風説に対する対応などから元々近衛前久と羽柴秀吉との関係は良好なものではなく、さらに藤原氏以外の者に関白の地位が移ることとなるため、近衛前久にとっては屈辱的な出来事だったのですが、もはや近衛前久に羽柴秀吉に対抗する術はなく、羽柴秀吉を猶子として迎えることを受け入れました。
隠棲(1587年)
失意の近衛前久は、天正15年(1587年)に足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲します。
その後、天正16年(1588年)6月2日、織田信長の七回忌に6首の追悼歌を詠んでいます。この追悼歌は、その全てが五七五七七の書き出しで詠まれ、その最初の一字が「なむあみだぶ」で揃えられていることに着目されます。
「な」けきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
「む」つましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
「あ」たし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
「み」ても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
「た」つねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
「ふ」くるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢
また、慶長13年(1608年)には、織田信長の命日に追悼句会を開くなどしています。
近衛前久死去(1612年5月8日)
そして、近衛前久は、慶長17年(1612年)5月8日に薨去し、京都東福寺に葬られました。享年は77歳でした。
京を離れて流浪の人生を送った近衛前久でしたが、五摂家筆頭の地位にあり当代屈指の文化人でもあった近衛前久の地方生活は、滞在する地方に中央の文化(和歌・連歌・書・有職故実など)を伝播させるという役割を果たしたことでも注目されます。