木村重成(きむらしげなり)は、豊臣秀頼の乳兄弟として育ち、色白で立ち振る舞い・礼儀作法や言動が見事であるのみならず、刀・槍・馬術に長けた貴公子であったことで知られる人物です。
大坂冬の陣では、今福の戦いで一旦は徳川方の佐竹軍を押し返すなどの勇猛ぶりを見せたかと思うと、大坂冬の陣の和議交渉の場では、並み居る徳川軍の歴戦の猛将の前でとった見事な立ち居振る舞いでも賞賛されています。
大坂夏の陣では、討ち取られた後の首実検の場でさえも、徳川家康を感嘆させたとも言われています。
本稿では、そんな花も実もある英傑、木村重成の人生を振り返っていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
木村重成の出自
出生(1593年頃)
木村重成は、文禄2年(1593年)頃に、豊臣秀次に仕えていた木村重茲と宮内卿局又は右京大夫局との間に生まれたと言われています。
出生地については、佐土原八日町(現在の宮崎市)であったとの説もありますが、正確なことはわかりません。
父・木村重茲と兄木村高成が、次期天下人と目されていた豊臣秀次に仕えていたことから、木村家の将来は安泰と考えられていました。
ところが、文禄4年(1595年)6月に発生した豊臣秀次切腹事件(秀次事件)に連座して木村重茲と木村高成とが自害させられ、さらに木村家も存亡の危機にさらされます。
もっとも、秀次事件が起きた際、木村重成が幼児であったこと、助命された母の宮内卿局が豊臣秀頼の乳母となったことなどから、木村重成の命は助けられ、また木村家もなんとか取り潰しを免れます。
木村重成元服
そればかりか、木村重成は、乳兄弟として、幼少期から豊臣秀頼に小姓として仕えるよう抜擢されます。木村重成は、色白で立ち振る舞い・礼儀作法や言動が見事であるのみならず、刀・槍・馬術に長けた貴公子であったと言われています。
加えて、木村重成は、慶長4年(1599年)12月17日に豊臣姓を与えられるなど、破格の待遇を受けています。
立派に成長していった木村重成は、豊臣秀頼の厚い信頼を受け、元服後には3000石を領し、豊臣家の重臣として政治にも参画するようになります。
大坂冬の陣での活躍
大坂冬の陣の始まり
方広寺鐘銘事件をきっかけとして、豊臣家取り潰しを決め、徳川家康軍約20万人が大坂城に向かって進軍していきます。
対する豊臣方でも、慶長19年(1614年)10月2日、旧恩の有る大名や浪人をかき集め、徳川家康との戦争準備に着手します。
そして、徳川軍が迫るの報を聞いた大坂方では、豊臣家宿老の大野治長らを中心とする籠城派と、浪人衆の真田信繁らを中心とする野戦派とで意見が対立したのですが、浪人の意見が宿老の意見を覆せるはずもなく、最終的には大坂城籠城策に決定します。
籠城策に決まった豊臣方では、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ堅固な大坂城に籠城することとし、大坂城外に以下の砦等を設置しすることとなりました。
大坂城の外周に砦を築いた豊臣方は、それぞれに兵を入れて徳川軍を待ち受け、同年11月19日、徳川方の蜂須賀至鎮が木津川口砦を攻撃したことにより大坂冬の陣がはじまります(木津川口の戦い)。なお、木津川口砦の守将であった明石全登が、軍議のために大坂城に伺候して不在だったため、木津川口の守備兵は統制が取れず、すぐに砦が陥落します。
今福の戦い(1614年11月26日)
その後、慶長19年(1614年)11月26日、鴫野に上杉景勝軍が、今福に佐竹義宣8000人がそれぞれ攻め寄せます。
このとき、今福では、佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第四柵まで占拠され、守将であった矢野正倫及び飯田家貞が討死します。
危機に陥った豊臣軍は、木村重成が5000人を率いて今福に来援して反撃に転じ、佐竹勢を後退させます。
そして、さらに後藤基次が駆けつけて木村重成を支援しながら突撃を指揮したため、一気に佐竹軍を押し戻します。
このとき、木村重成は、佐竹方のの渋江政光の狙撃をさせてこれを討ち取り、佐竹軍先鋒隊を潰走させています。
敗れた佐竹義宣は、大和川対岸で鴫野を攻めていた上杉勢に救援を求めたところ、上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝らの軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、木村重成及び後藤基次らは大坂城に撤退しています。
なお、木村重成は、撤退に際し、部隊長を務めたていた大井某(大井何右衛門)が戦場で倒れているのを発見すると、自らが殿を務めて大井某を運ばせたとして賞賛されています。
和議
その後、大坂城の周囲に配置した砦を失った豊臣方は、同年11月30日に残りの砦を破棄して大坂城に撤収し、20万人もの徳川方に包囲され、籠城戦を戦うこととなります。
もっとも、徳川方も、難攻不落の大坂城を攻略できず、力攻めで大坂城を陥落させることが困難であると判断した徳川家康が、豊臣方に和議を提案します。
戦局的には豊臣方が有利と言える状態であったために豊臣方はこれを拒絶すべきであったともいえるのですが、徳川軍からの連日の砲撃に精神的に疲弊していた淀殿が和議に積極的な意見を述べたため、両軍での和議の方向に流れています。
そして、慶長19年(1614年)12月19日までに豊臣・徳川にて和議条件がまとまり、両家が起請文をかわすことで成立することとされました。
このとき、豊臣方の使者として遣わされたのが木村重成であり、木村重成は、大役を果たすため徳川本陣に向かいます。
豊臣秀頼の乳兄弟ではあったものの、対外的には無名であり、並み居る徳川方の歴戦の猛将たちと交渉するのには明らかに不釣り合いな武将とも思われました。
ところが、木村重成は、この和議の場において、豊臣秀頼の正使として役目を果たし、徳川秀忠から起請文を受けとったのですが、その進退が礼にかなっていると大絶賛をされています。
なお、起請文には、豊臣秀頼と徳川家康という両総大将が血判を押すこととなっていたのですが、このとき大御所・徳川家康が押した血判が薄く鮮明ではなかったため、木村重成が徳川家康に対して、その旨指摘し、徳川家康に再度の血判を求めたとの逸話が残されていますが、起請文自体を徳川秀忠から受け取っていますので、おそらく事実とは異なるものと考えられます。
もっとも、少なくとも木村重成が、僅か3000石の若武者に過ぎない木村重成が、このようなエピソードまでが作られて後世にまで語り継がれるほどの大人物であったことの証と言えるのではないでしょうか。
木村重成結婚(1615年1月7日)
木村重成は、慶長20年(1615年)1月7日、大蔵卿局の姪である真野青柳(真野豊後守頼包の娘)を正室に迎えます。
馴れ初めは、当時18歳とも19歳とも言われた青柳が、偶然見かけた木村重成に一目ぼれし、「恋侘びて 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀という人もがな」の歌をおくり、木村重成が「冬枯れの 柳は人の 心をも 春待ちてこそ 結び留むらめ」と返して結ばれたとも言われていますが、正確なところはわかりません。
そして、青柳は、結婚後まもなく懐妊しています。
大坂夏の陣での最期
大坂夏の陣勃発
慶長20年(1615年)に入ると、徳川家康が、再度大坂城攻撃のための軍を編成し、同年4月18日に徳川家康が二条城に、同年4月19日に徳川秀忠が伏見城に入ります。
そして、徳川家康は、約15万5000人の兵を二手に分け、①京から京街道を南下する河内路(先鋒:藤堂高虎・井伊直孝)と、②奈良から西に向かう大和路とで分かれて行軍し、道明寺付近で合流して南側から大坂城へ向かうこととなりました。
豊臣方の迎撃軍
慶長20年(1615年)4月ころでは豊臣方による堀の掘り返しが終わっておらず、この時点では大坂城は堀のない裸城となっていました。
そこで、大坂方には、大坂冬の陣のときのような籠城戦で徳川軍を撃退するという作戦はとれません。
一旦は、大野治房が大和郡山城を占拠したり、樫井の戦いで浅野軍と戦ったりしたのですが、大勢を覆すには至りませんでした。
同年4月30日、大坂城にて軍議が行われたのですが、兵数に劣る豊臣方としては、道明寺にて2軍に分かれた徳川軍が再度結集する前に各個撃破すべきとの判断がなされます。
そして、河内路方面軍には木村重成・長宗我部盛親らを、大和路方面軍には後藤基次・真田信繁・毛利勝永らを派遣して迎撃することとなりました。
木村重成出陣
河内路軍の横撃に向かうこととなった木村重成は、自身の死を覚悟し、出陣前に妻・青柳と別れの盃を交わします。
討死(1615年5月6日)
(1)木村重成進軍
そして、大坂城から出陣した木村重成は、徳川の河内路軍を横撃するのに都合の良い場所を探します。
木村重成は、慶長20年(1615年)5月5日朝、まずは今福方面を視察しましたが、物見の報告と総合し、ここに徳川河内路軍が来襲する可能性は低いと考えます。
そこで、木村重成は、率いる4700人の軍を南下させることにしました。
同年5月6日午前2時ころ、木村重成軍が、若江方面(現在の大阪府東大阪市)に向かって進んでいきます。なお、同時に長宗我部盛親軍は八尾に向かって進んでいきました。
ところが、同日午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝が八尾・若江に向かって進軍する豊臣軍を発見します。
このとき、豊臣軍発見の報を聞いた藤堂高虎は、開戦を決断します。
(2)若江の戦い
慶長20年(1615年)5月6日午前5時頃、木村重成軍が若江に着陣し、木村重成は、先鋒隊を3手に分けて布陣して徳川方に備えます。なお、長宗我部盛親も八尾まで進んで布陣しています。
他方、既に豊臣方を発見している徳川河内路軍は、藤堂勢の右先鋒、藤堂良勝、同良重が攻撃をかける形で、まずは若江に布陣した木村重成軍に総攻撃を仕掛けますが、木村重成軍の激しい抵抗にあい、攻撃した藤堂勢は兵の半数を失い敗走し、藤堂良勝、藤堂良重が戦死します。
なお、藤堂勢を退却させた木村重成は、玉串川西側堤上に鉄砲隊を配置し、さらに敵を田圃の畦道に誘引して襲撃しようと計画します。
藤堂先行隊敗れるの報を聞いた徳川河内路軍では、同日午前7時頃、南進する井伊直孝が若江の敵への攻撃を決断し、部隊を西に転進させ、庵原朝昌・川手良列を先鋒として、木村重成軍を攻撃します。
井伊軍先鋒隊、川手良列は、玉串川東側堤上から一斉射撃した後、木村重成軍に突撃します。
堤上にいた木村重成軍は、川手良列の勢いに押されて後退し、玉串川堤防を井伊軍に奪われます(なお、川手良列は後退する木村重成軍を深追いして戦死しています。)。
(3)木村重成討死
兵数に劣る木村重成軍は次第に徳川河内路軍に押されていき、敗北を悟った木村重成は、自身も槍を取って戦ったが、遂には力尽き戦死します。
井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが庵原朝昌がその功を安藤重勝に譲ったともいわれる。
木村重成軍が討ち死にしたことにより一気に戦局が徳川河内路軍に傾き、またそれまで戦闘を傍観していた幕府軍の榊原康勝、丹羽長重らは味方有利と見て木村勢左先手木村宗明へ攻めかかったため、木村本隊は壊滅し、山口弘定、内藤長秋は戦死し、木村宗明は大坂城へ撤退することとなります。
(4)八尾の戦い
若江の戦いと同時並行にて、八尾でも長宗我部盛親・増田盛次軍と藤堂高虎軍とが戦闘となっていましたが、ここで若江にて木村重成軍が敗走したとの届いたため、敵中での孤立をおそれた長宗我部盛親も大坂城へ撤退し、八尾・若江の戦いはいずれも徳川河内路軍の勝利に終わります。
なお、この豊臣方の退却に対して、藤堂方の将であった渡辺了が7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃を仕掛けたため、藤堂方の損害もまた拡大しています(そのため、この独断攻撃をしかけた渡辺了は、により藤堂高虎や藤堂家重臣らから疎まれるようになり,戦後に藤堂家を出奔し浪人となっています。)。
木村重成の首実検
若江で討ち取られた木村重成の首は徳川家康の下に届けられ、首実検が行われたのですが、首から兜を取り外す際、香のにおいが立ち込めます。
これは、首を取られた際に恥ずかしくないよう、予め出陣に際して頭髪に香が焚きこめてあったことによるので、その覚悟を知った徳川方が木村重成の覚悟に感嘆したという逸話が残されています。
木村重成の妻子のその後
この後、道明寺・誉田の戦い、天王寺・岡山の戦いを経て大坂城が落城し、木村重成が守ろうとした豊臣家が滅亡します。
木村重成の死後、青柳は、親族を頼って近江国にて匿われ、男児を出産後に出家します。
そして、木村重成の一周忌を終えると、青柳は20歳の若さで木村重成を追って自害したといわれています。
そして、このとき青柳が出産した木村重成の子は、馬淵家の婿養子となり、後に馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられています。
木村重成ゆかりの地
木村重成の首塚
木村重成の首は、討ち取ったとされる安藤重勝が戦果として貰い受け、ススキにくるんで安藤一族の菩提寺である滋賀県彦根市にある宗安寺に持ち帰り、懇ろに弔って同寺の墓地に埋葬した上で、先祖の墓と並べて五輪の塔を立てて供養したと言われています。
なお、このとき首をくるんでいたススキが当地に根付き、毎年赤く染まることから、「血染めのススキ」と呼ばれているそうです。
木村重成の墓所
また、木村重成の遺体については、徳川家の天下となっていたために大阪方諸将の墓碑の建立は認めらず、同じく若江の戦いで戦死した徳川方の武将である山口重信の墓の隣にひっそりと葬られ、目印として2本の松の木が植えられたと言われています。
その後、享保15年(1730年)に、山口重信の墓を訪れた儒家の並河五一は墓碑もない重成の扱われ方を憐れみ、訴願して墓を建立したという(このときに並河五一が建立した墓碑は現存していないのですが、その後宝暦14年(1764年)に、安藤家の子孫によって幕府公認の墓が建てられます。
そして、この墓所はさらにその後に移転され、現在は、大阪府八尾市幸町の公園に置かれています。
木村重成像
かつて若江村の村長が、東大阪市若江南にある蓮城寺付近にあった「木村重成陣屋跡」と想定される自宅敷地内に木村重成の銅像を建てたのですが、太平洋戦争時にこの銅像は一旦徴発され、その後石像(ちょっと微妙なお姿ですが)として再建されています。
木村長門守重成公位牌堂
若江の地には、木村重成の戦死により、重成の叔父の蓮性院日相上人が京都から若江に出て創建したとされる蓮城寺があり、そこに明治中期、加藤清正公堂を九州より解体・運搬・再建して木村重成の位牌堂とされたと伝えられています。
そして、この位牌堂に、重成の位牌は隣接する「若江鏡神社」から木村重成の位牌が移され、そこに蓮城寺で日蓮宗の方式に則り作られたた妻・青柳の位牌とともに安置されています。
若江木村通り
木村重成像や蓮城寺が面する近鉄若江岩田駅に通じる河内街道の一部に「木村通り」との名が付けられ、また東大阪市若江南町1丁目に「若江木村通」という交差点が残されています。
木村重成忠魂碑
9代目市川団十郎の弟子であった市川新蔵が眼病を患った際に、最後に大坂冬の陣の和議の演目である「重成血判状」という芝居を上演してこれを成功させます。
このとき第6代大阪府知事であった西村捨三が、この演目を観て感激し、自ら発起人となって明治29年(1896)に、「木村重成表忠碑」を建立し、当時中之島にあった京の豊国神社の別院として建立された豊國神社内に設置されます。
その後、豊国神社自体は大坂城内に移転したのですが、木村重成忠魂碑は同所に残され、現在も同地に鎮座しています。