【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇

宇多天皇(うだてんのう)は、摂関政治の真っただ中の時代において、藤原氏を外戚としない立場で第59代天皇として即位し、摂関家藤原氏の政治力を排斥して天皇親政を試みて大胆な政治改革を行った天皇です。

臣籍降下した後に皇籍に復帰して即位した稀有な天皇でもあります。

宇多天皇の出自

出生(867年5月5日)

宇多天皇は、貞観9年(867年)5月5日、第58代・光孝天皇の第15皇子として産まれます。

母は、班子女王(桓武天皇の孫)であり、諱は定省(さだみ)といいました。

藤原基経の思惑

宇多天皇出生時は、第52代嵯峨天皇と藤原北家・藤原冬嗣以来から脈々と続けられた天皇家と藤原家との強固な血縁関係が確立していた時期でした。

この血縁関係の結果、藤原氏の娘が天皇の后となって産まれた男児が皇位を継ぎ、その男児にさらに藤原氏の娘が嫁いで男児を産んで皇位を継ぐという制度として確立し、それに従って天皇位も第55代文徳天皇(藤原明子)→第56代清和天皇(藤原高子)→第57代陽成天皇と引き継がれていました。

これにより外戚の地位を確立した藤原氏は朝廷内で絶大な権限を握ることとなっていたのですが、藤原氏内でこの制度の根幹を揺るがす対立が起こります。

妹である皇太后・藤原高子(第56代清和天皇の女御)と悪関係となっていた藤原基経が、藤原高子と清和天皇との血統に天皇を継がせていくことに抵抗したのです。

藤原基経は、元慶8年(884年)2月4日、すでに皇位を継承していた藤原高子の子である第57代陽成天皇を、宮中で起こった殺人事件の責任を取らせる形で廃位させてしまいます(公には病気による自発的譲位)。

第58代光孝天皇即位(884年2月23日)

その上で、藤原基経は、藤原高子の血統が天皇位を継ぐことがないようにするため、元慶8年(884年)2月23日、第54代仁明天皇にまで遡らせ、当時55歳という高齢であったその子である時康親王を第58代光孝天皇として即位させてしまいます。

この結果、期せずして宇多天皇の父が天皇として即位するに至ったのです。

臣籍降下(884年6月)

もっとも、以上のイレギュラーな事態により即位した光孝天皇は、藤原氏の女性を后としない自身の血統に天皇が続くとは考えておらず、自身の後は、清和天皇に連なる系統の貞保親王などに皇位が戻ると考えていました。

そこで、光孝天皇は、元慶8年(884年)6月、後の紛争防止と皇室費用削減の目的で、26人の皇子皇女に源姓を与えて一気に臣籍降下させました。

このときの臣籍降下には宇多天皇(定省王)も含まれており、宇多天皇は、皇族の身分を失って源定省(みなもと の さだみ)と名乗るようになります。

子を儲ける(885年1月18日)

その後、宇多天皇は、元慶9年(885年)1月18日、内大臣藤原高藤の女である藤原胤子との間に第一皇子である維城(後の醍醐天皇)を儲けたのですが、宇多天皇が臣籍の身分のときに産まれていますので、この時点では親王宣下を受けていません。

また、宇多天皇はこの臣籍降下時に藤原胤子・橘義子らを娶り、その間に第一皇子敦仁親王(後の醍醐天皇)・第二皇子斉中親王・第三皇子斉世親王らを儲けています。

光孝天皇危篤(887年)

以上の経過から皇太子を定めることをしなかった光孝天皇でしたが、高齢であったということもあり、即位のわずか3年後である仁和3年(887年)に病を得て危篤状態に陥ります。

このとき、朝廷内で光孝天皇の次の天皇を誰にするかの協議が繰り広げられます。

ここで、元々の嫡流であった第56代清和天皇と藤原高子との間の子である貞保親王(第57代陽成天皇の弟)を推す声が上がりますが、藤原高子と不仲であった藤原基経が強硬にこれに反対します。

そして、藤原基経は、自身と仲の良かった異母妹藤原淑子の猶子となっていた源定省(宇多天皇)を次期天皇に推し、これを、天皇に近侍する尚侍として後宮に影響力を持つ淑子がバックアップしたことにより、源定省(宇多天皇)が次期天皇になることに決まります。

宇多天皇即位

立太子(887年8月26日)

もっとも、光孝天皇の第七皇子であった源定省(宇多天皇)には兄がおり、兄を差し置いて弟が皇位を継ぐことへの懸念があったため、藤原基経以下の群臣の上表による推薦を光孝天皇が受け入れることにより皇太子に立てる形が取られることとなりました。

そして。以上の経過を経て、仁和3年(887年)8月25日に源定省(宇多天皇)は皇族に復帰することとなって親王宣下を受け、翌同年8月26日に立太子します。

即位(887年11月17日)

そして、仁和3年(887年)8月26日に仁寿殿において光孝天皇が崩御されたため、源定省(宇多天皇)が践祚の上、同年11月17日に宇多天皇として即位することとなりました。

この結果、宇多天皇は、摂関政治期であったにもかかわらず、母を班子女王(桓武天皇の孫)とする藤原氏を外戚としない稀有な天皇として誕生したのです。

また、宇多天皇の即位に伴って宇多天皇の第一子であった源維城が皇族に列して親王宣下を受け、敦仁親王となっています。なお、この後に敦仁親王は醍醐天皇として即位するのですが、醍醐天皇は、歴史上、臣籍の身分として生まれた唯一の天皇となっています。

藤原基経に力の差を見せつけられる

阿衡事件

以上の経過で即位した宇多天皇でしたが、藤原氏を外戚としない(母が藤原氏の娘でない)だけでなく、自身もかつては臣籍降下するほど身分が低かったため、宇多天皇の后も藤原氏ではありませんでした。

そのため、宇多天皇の即位は、これを後押しした藤原氏にとっても危険な状況となります。

そこで、藤原氏としては、宇多天皇が政治力を手に入れる前になんとかしておかなければなりません。

ここで、政治の天才・藤原基経は、すぐさま藤原氏の地位安定のために動き始めます。

まず手始めに行ったのは、宇多天皇の義父として力をつける可能性のあった参議左大弁橘広相(橘広相の娘である橘義子が宇多天皇の妻として二人の親王を儲けていました)排斥です。

即位した宇多天皇は、臣籍降下していたこともあって政治経験に乏しく、自らの手で政治を行うことは不可能であったため、当初はそれまで政治を動かしていた藤原基経を頼らざるを得ませんでした。

そのため、即位式を終えた宇多天皇は、仁和3年(887年)11月17日中に参議左大弁橘広相に命じて、藤原基経に対して引き続き政務を執ることを命じた詔書を作成させ、同年11月21日にこれを発給します。なお、この詔勅にある「皆関白於太政大臣」という言葉が「関白」の初出です。

これに対し、藤原基経は、先帝の際に就任していた摂政よりも高い地位につくこと(この時点では存在していませんので、新設)を求めていたのですが、まずは先例にしたがって同年11月26日に一旦これを辞退します。

そこで、宇多天皇は、再び橘広相に命じて藤原基経に対する二度目の詔勅を発給します。

ところが、この二度目の詔勅には、一度目の関白ではなく「阿衡の任」を以て卿の任とせよと記載されていたため、藤原基経はこれを問題視します。

阿衡とは、中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた地位は高いが職務を持たない地位であることから(と藤原基経の家司であった文章博士・藤原佐世から聞いたことから)、藤原基経は、激怒して一切の政務を放棄して自宅に引きこもり、国政を停滞させてしまったのです。

焦った宇多天皇は、何度も弁明をしたのですが藤原基経の怒りは収まらず、翌仁和4年(888年)6月、ついに宇多天皇が「阿衡」の詔書を取り消すという事態に発展します。

天皇が一度発給した詔書を取り消すことは極めて異例であり、この行為は、藤原基経が宇多天皇の詔書さえも否認できるほどの力を持っていることを世に知らしめてしまう結果となってしましました。

また、宇多天皇が詔書を取り消したことによりこれを作成した橘広相が誤りを起こしたことになり、橘広相は失脚の危機に陥り、完全に藤原基経に屈服してしまいました(もっとも、同年11月に菅原道真からの手紙で諌められた藤原基経により橘広相への処分は見送られています。)。

藤原温子入内(888年10月)

その後、藤原基経の娘・藤原温子が宇多天皇の后として入内させることを条件として藤原基経が矛を納めることとしたため、仁和4年(888年)10月頃になってようやく事態が鎮静化していきました。

以上の結果、藤原基経は、単にヘソを曲げただけで、橘広相を屈服させて宇多天皇の詔書を変更させる力を持っていることを世に知らしめ、さらには娘を入内させて将来の外戚復活のための布石まで打ってしまいました。

仁和寺建立(888年)

なお、この頃、宇多天皇は、光孝天皇の勅願で始まった寺の建築を宇多天皇が引き継ぎ、仁和2年(886年)、宇多天皇を開基としてこれを落成させます。

この寺は、当初「西山御願寺」と称され、やがて創建時の元号を貰って仁和寺と号されました。

寛平の治

藤原基経死去(891年1月13日)

以上のとおり、藤原基経の政治力に屈してその言いなりとなっていた宇多天皇でしたが、寛平3年(891年)1月13日に藤原基経が死去したことにより事態が大きく動きます。

宇多天皇親政開始

藤原基経死去時、その後を継いだ嫡男・藤原時平はまだ21歳という若年であったために摂政・関白になることができず、宇多天皇の親政が始まることとなったのです(なお、藤氏長者も藤原時平ではなく、その大叔父であった右大臣・藤原良世が任じられています。)。

この結果、藤原氏の政治力が低下し、その隙を利用して宇多天皇が親政を開始します。

抜擢人事

親政を開始した宇多天皇は、藤原時平を参議に任命したのですが、他方で、寛平3年(891年)2月に菅原道真を近臣である蔵人頭に補任するなどして藤原北家に対する抵抗勢力として育てることとします。

また、源能有や藤原南家の藤原保則らを抜擢して藤原北家の力を削ぐ体制を作り上げていきます。

寛平の治

そして、宇多天皇は、源能有を事実上の首班に据えた上で藤原時平・菅原道真・平季長等の近臣を用い、王臣家が諸国富豪と直接結びつくことを規制する形を作って権門(有力貴族・寺社)を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向した各種政治改革を行っていきます。

この宇多天皇により行われた政治改革(寛平の治)は、必ずしも成功したとは言えないものの一定の成果をあげました。以下、具体例をいくつか列挙します。

① 昇殿制の開始

宇多天皇は、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることができる人物を公卿(三位以上及び四位を含む参議以上の議政官)と勅許(宣旨)によって許された特定の官人・蔵人に限定しました。

この昇殿による身分体系の制度を昇殿制といいます。

昇殿制は、宇多天皇による天皇親政の下で天皇を中心とする新たな朝廷秩序の確立を目指す目的で採用されました。

② 滝口武者の設置(896年)

滝口武者は、天皇の近くに付き従って内裏を警護する当初10人(最終的には30人まで増員)の武士です。

天皇御所である清涼殿の庭北東の滝口(御溝水の落ち口)の近くに詰所(滝口陣)が置かれたことからその名が付されました。

滝口武者は、律令制下での正式な官職ではありませんでしたが、朝廷が公式に認める「武士」としてその地位を高めていきました。

③ 遣唐使廃止(894年)

民間商船交流による重要性低下に加え、黄巣の乱が勃発したことが示すように唐が弱体化していたため、日本国内における唐への憧憬もまた失われていき、遣唐使船の派遣が承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にありました。

ところが、寛平6年(894年)に唐国温州長官であった朱褒から求めがあり、それに応じる形で56年ぶりに遣唐使計画が立てられ、同年8月21日、菅原道真が遣唐大使に任命されたのですが、菅原道真から遣唐使派遣の再検討を求める建議書である「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出され、派遣手続きが中座します。

その後、遣唐使派遣の目途が立たない状態のまま時間が過ぎていったのですが、延喜7年(907年)に梁(後梁)によって唐が滅ぼされたことにより遣唐使派遣の議論もまた停止(実質上の廃止)とされることとなりました。

この遣唐使廃止により中国文化が薄れていくこととなり、後に「国風文化」と呼ばれる日本独自の文化が作り上げられていくこととなります。

④ 造籍・私営田抑制(896年)

大宝律令・養老令に基づいて編成された戸籍が次第に正確さを欠くようになっていたため、これを編成し直して私営田抑制を図りました。

⑤ 国司権限の強化

また、9世紀頃になると戸籍・班田などによる律令制的な人別支配の維持が困難となっていたため、各国司に知行国内の租税納入を請け負わせるなどして徴税・軍事などを委任するようになりました(国司請負制)。

今で言う地方分権です。

太上天皇となる

譲位(897年7月3日)

以上のように摂関家(藤原北家)の独占を廃して親政を行い改革を進めていった宇多天皇でしたが、寛平9年(897年)7月3日、皇太子であった敦仁親王を元服させた上、即日譲位して太上天皇となります。

このときの宇多天皇の突然の譲位理由は明らかとなっておらず、仏道に専心するためとする説、己に連なる皇統の正統性を示して前の皇統に連なる皇族からの皇位継承の要求を封じるためとする説(大鏡)、右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことによるとする説(寛平御遺誡)などがあるのですが、真相は不明です。

菅原道真を重用

いずれにせよ、上皇となった宇多上皇は、御所を出て朱雀院に入り、以降、藤原氏が外戚となることを封じるために宇多上皇の同母妹為子内親王を醍醐天皇の正妃に立てて摂関政治に戻ることを防ごうと努力します。

また、藤原北家の躍進を防ぐ目的で、訓示「寛平御遺誡」を示し、菅原道真を右大臣・権大納言に任じて左大臣・大納言藤原時平の次席に配した上、この2人に内覧を命じて朝政を二人で牽引するよう命じます。

もっとも、この菅原道真の抜擢は先例を重んじる公家にすこぶる不評であったために公卿が職務を拒むという事件に発展し、菅原道真が宇多上皇に公卿らに出仕を命じてもらうことによりようやく新政がスタートするという波乱の幕開けとなりました。

もっとも、元服したての若い醍醐天皇に政治などできようはずがなく、寛平の治を進めた宇多上皇の側近を醍醐天皇の周囲に配して上皇となった宇多天皇が積極的にこれを補佐して醍醐天皇親政を進めていきました。

出家(899年10月24日)

宇多上皇は、昌泰2年(899年)10月24日に仁和寺で出家した後、同年11月に東寺で受戒して宇多法皇となり、譲位後の院御所であった朱雀院を出て仁和寺に入ります。

この結果、当初は天台宗寺院であった仁和寺(初代別当は天台宗・幽仙)が、真言宗寺院(別当は真言宗の観賢)に変更されています。

そして、宇多法皇は、延喜4年(904年)に仁和寺の伽藍南西に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建てて当寺に居住するに至ったため、以降、仁和寺は「御室御所」とも称されるようになりました。

宇多法皇と醍醐天皇との対立

もっとも、昌泰2年(899年)3月14日、醍醐天皇の妃であった宇多法皇の同母妹為子内親王が早生したため、醍醐天皇が藤原時平の妹である藤原穏子の入内を進めたのですが、これを藤原時平が外戚の地位を狙うものとして強く反発し、藤原氏と連携して政権の安定を図ろうとする醍醐天皇と、藤原氏腹の皇子の誕生を望まなかった宇多法皇とが対立するようになっていきます。

昌泰の変(901年)

この対立構造に嫌気がさしたのか、宇多法皇は、菅原道真の後ろ盾となって藤原時平の政治力強化を防ぐ努力を続ける形で行っていた政治への興味を失っていき、代わって次第に仏道に熱中し始めて高野山・比叡山・熊野三山への参詣などに注力していくようになります。

こうなると、藤原北家による権力復帰の活動が始まります。

このとき藤原時平が牙を向けたのが、宇多法皇の後ろ盾により権力を手にしていた菅原道真でした。

このタイミングで宇多法皇が菅原道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、これを好機と見た醍醐天皇と藤原時平が、宇多上皇と菅原道真から政治権力を奪還しようと考え、昌泰4年(901年)正月25日、突然出された醍醐天皇の宣命によって菅原道真が大宰員外帥に降格されて大宰府へ左遷されることが決まります。

この報を聞いた宇多法皇は、直ちに仁和寺を出て内裏に向かったのですが、内裏に入ることができず、菅原道真への処分を覆すことができませんでした。

なお、このとき宇多上皇が内裏に入れなかった理由は、かつて陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとした際に宇多天皇が上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けた事例があって、その件が先例となっており、この昌泰の変の際に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にした醍醐天皇に内裏への進入を阻まれたためです(長秋記・保延元年6月7日条)。

この後、左遷が決まった菅原道真は、同年2月1日に大宰府に向かうこととなったのですが、その前に宇多法皇に別れの挨拶をしようと考え、宇多法皇がいる仁和寺に赴きます。

もっとも、菅原道真が到着したときには宇多法皇が勤行の最中であったため、菅原道真は同寺の石に腰かけて終わるのを待つこととしたのですが、このとき菅原道真が腰かけたとされる石が仁和寺にある不動明王像の台座石(菅公腰掛石)として残されています。

その後、宇多法皇と最後の面会をした菅原道真は、「流れゆく われはみずくと なりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」という歌を詠んだと言われており、その意味は、菅原道真が「水屑同様となって大宰府に流されることとなったのですが宇多法皇が柵となってこれを止めて欲しい」というものでした。

真言宗の阿闍梨となる(901年12月13日)

宇多法皇は、延喜元年(901年)12月13日、益信を受戒の師として東寺で伝法灌頂を受けて真言宗の阿闍梨となり、弟子を取って灌頂を授ける資格を得ます。

これにより、宇多法皇は、朝廷の法会に僧を派遣することが可能となったため、宇多法皇は真言宗と朝廷との関係強化を進めていきます。

朝廷への影響力回復

また、延喜9年(909年)、宇多法皇の動きを牽制し続けていた藤原時平が没し、その後に宇多法皇と良い関係性にあった藤原忠平が藤原北家の長となったため宇多法皇の朝廷への影響力が回復していきました。

そして、延喜15年(915年)に藤原忠平の嫡男であった藤原実頼が元服する際には、宇多法皇が醍醐天皇に藤原実頼への叙爵を指示しています。

また、宇多法皇は、その後も藤原忠平を通じて醍醐天皇への働きかけを続けています。

延喜21年(921年)10月27日には、醍醐天皇から空海に対して「弘法大師」の諡号が贈られているのですが、これは真言宗の阿闍梨となっていた宇多法皇の勧めによるものと考えられます。

宇多天皇の最期

醍醐天皇崩御(930年9月29日)

延長8年(930年)6月に清涼殿に雷が落ちる事件が起こり、多くの死穢を発生させました。

また、このときの雷によりかつて大宰府に左遷された菅原道真の監視役を務めていた藤原清貫が死去したため、菅原道真の怨霊が雷神を使って落雷事件を起こしたという伝説が流布するに至りました。

同年7月2日、これらの穢れから隔離するために醍醐天皇が清涼殿から常寧殿に遷座されたのですが、落雷による惨劇を目にした醍醐天皇は体調を壊します。

そして、心労が重なった醍醐天皇の体調はみるみる悪化して危篤状態となり、同年9月22日に8歳の弟である寛明親王を朱雀天皇として践祚させることにより譲位し、同年9月29日についに崩御してしまいました。

朱雀天皇の後見役

以上の経過により即位した朱雀天皇でしたが、8歳の子供に政治ができるはずがありません。

そこで、「醍醐天皇の遺詔」があったことにして藤原忠平を摂政に据えて政治を取り仕切らせることになりました。

そして、宇多法皇は、この藤原忠平からの要請を受けて朱雀天皇の後見役として政務を代行することになりました。

崩御(931年7月19日)

もっとも、高齢であった宇多法皇の体調も芳しいものではなく、承平元年(931年)7月19日に崩御されます。宝算65歳でした。

そして、崩御後、宇多天皇との追号を受けます。

宇多という追号の理由としては、宇多天皇が在所にしていた場所の名称をとったとするのが通説なのですが、宇多院は父・光孝天皇の親王時代の邸宅であり、宇多天皇が同宅にいたのは少年期だけですので通説の解釈には疑問もあります。

死後、宇多法皇は火葬に付され、拾骨されることなく同地に土を覆って陵とされました。

もっとも、その所在地はすぐにどこかわからなくなり、江戸時代末期に方丘の大内山陵(現在の京都市右京区鳴滝宇多野谷)と治定されましたが、その真偽は不明です。

摂関政治の復活

宇多天皇時代に志向され、その後、醍醐天皇治世にも引き継がれた天皇親政でしたが、醍醐天皇が藤原時平に取り込まれて藤原基経の娘である藤原穏子を中宮とし、第61代朱雀天皇時代に藤原忠平が摂政に返り咲いたことから天皇親政の試みは終了を迎え、再び摂関政治が復活するに至っています。

宇多源氏について

宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜って臣籍降下しており、宇多天皇から派生した源氏を宇多源氏といいます。

このうち、特に敦実親王から出た系列が最も栄え、また敦実親王の子源雅信から派生した者が近江国に土着し、武家の佐々木氏が輩出されています。

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