清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇です。
母が臣籍降下して初めて臣下に嫁いだ嵯峨天皇皇女であったこともあり、文徳天皇の第四皇子でありながら生後8か月で立太子し、その後、文徳天皇の突然の崩御によってわずか9歳で天皇となった日本初の幼帝です。
幼くして天皇となったことから、母方祖父である藤原良房の傀儡となり、藤原良房を人臣初の摂政に任命することによって藤原摂関政治の基礎を作ってしまった天皇でもあります。
他方で、多くの子を儲けてこれらを臣籍降下させ、その中から後に武門の棟梁となる清和源氏を誕生させたことから清和源氏の祖としても有名です。
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清和天皇の出自
出生(850年3月25日)
清和天皇は、父・文徳天皇践祚の4日後である嘉祥3年(850年)3月25日、第55代・文徳天皇の第四皇子として産まれます。
母は藤原明子(太政大臣・藤原良房の娘)です。
文徳天皇の女御であった染殿后が、十住心院(現在の染殿院)の地蔵菩薩に文徳天皇の皇子誕生を祈願したところ清和天皇が誕生したと伝えられています。なお、この逸話から染殿院の染殿地蔵は安産にご利益があると言われるようになりました。
諱は惟仁(これひと)と言いましたが、本稿では便宜上「清和天皇」の表記で統一します。
立太子(850年)
第四皇子であった清和天皇には惟喬親王・惟条親王・惟彦親王という3人の異母兄がいたのですが、母方祖父である藤原良房の強い圧力によりこれら3人異母兄を差し置いて生後8カ月で皇太子となります。
3人の兄を差し置いて清和天皇が立太子した理由は、清和天皇が祖父である藤原良房の圧力によるものです。
藤原良房は、藤原北家の祖である藤原冬嗣の子として嵯峨天皇の寵愛を受け、嵯峨天皇の皇女であった源潔姫を臣籍降下した後に妻に迎えています。なお、源潔姫は、史料上確実な臣下の妻となった初めての皇女であり、その高貴な身分に配慮した藤原良房は、他に妻を迎えませんでした。
そして、藤原良房と源潔姫との間に産まれたのが藤原明子であり(この2人の間には明子しか産まれなかったため、藤原良房は甥である藤原基経を猶子としています。)。
以上の関係性から、清和天皇は、父方からも母方からも嵯峨天皇に行き着く上、母方の祖父は朝廷の最有力者である藤原良房であるという産まれながらのプリンスであったため、3人異母兄を差し置いて生後間も無く皇太子となるに至ったのです。
これに対し、文徳天皇は、惟仁親王への譲位と惟喬親王の立太子を図ったのですが、惟喬親王の身に危機が及ぶという左大臣・源信の諫言で取り止めとなりました。
清和天皇践祚
清和天皇践祚(858年8月27日)
このような状況下において、天安2年(858年)8月27日、文徳天皇が崩御されます。
文徳天皇の死因は脳卒中であったといわれており(宝算32歳)、突然死であったために清和天皇に対する譲国の儀がなされないまま同日にわずか9歳の清和天皇が第56代天皇として践祚することとなりました(諒闇践祚)。
日本初の幼帝の誕生です。
このときまでは、皇太子が幼いときに先帝が崩御された場合は、繋ぎの天皇(女帝ないし傍系)を立てて皇太子が成長するまで時間を稼ぐという方法が取られていたのですが、清和天皇は史上初めて幼帝として践祚することとなりました。
清和天皇即位(858年11月7日)
そして、天安2年(858年)11月7日に即位礼が執り行われ、清和天皇として即位します(大嘗祭は貞観元年/859年11月16日)。
当然ですが、わずか9歳で政治をすることなどできようはずがありませんので、清和天皇に代わって外戚である太政大臣・藤原良房が政治の実権を握ります(この時点では摂政は皇族しかなることができなかったため、藤原良房は貞観8年/866年に正式に摂政に任命されるまでは「事実上の」摂政でした。)。
石清水八幡宮創建(860年)
清和天皇が幼君であったことから政治権力は外戚である藤原良房が握ることとなったのですが、藤原良房は、天皇の外戚となって手にした権力を失わないよう、権力の根幹となる清和天皇の健康を願います。
そこで、藤原良房は、貞観元年(859年)、清和天皇の安寧を祈祷させるため、真言宗僧侶であった真雅の推挙により南都大安寺の僧・行教を、豊前国の宇佐神宮に派遣します。
宇佐神宮に90日間参篭した行教は、八幡神から「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けたため、宇佐八幡宮から八幡神の分霊を受け、貞観2年(860年)、神託に従い、京の裏鬼門の方角(南西)に位置する男山に石清水八幡宮が創建されました。
元服(864年1月6日)
清和天皇は、貞観6年(864年)1月6日に元服します。
藤原良房傀儡政権
藤原良房を摂政に任じる(866年)
清和天皇が成長して来ると、天皇の外戚の地位を巡って藤原氏内での戦いが始まります。
具体的には、清和天皇の外戚である太政大臣・藤原良房と、娘である藤原多美子を清和天皇に嫁がせて次代外戚を狙う右大臣・藤原良相(藤原良房の弟)と争いでした。
そして、藤原良房には左大臣・源信と皇太后・藤原明子が、藤原良相には大納言・伴善男と太皇太后・藤原順子が与したことにより2大陣営の戦いとなります。
そんな中、貞観6年(864年)、伴善男が源信に謀反の噂ありと言い立てる事件が起こったのですが、藤原良房側により握りつぶされます。
その後、貞観8年(866年)閏3月10日に応天門が放火され炎上する事件が起こると、伴善男が、応天門は大伴氏(伴氏)が造営したものであるところ源信が伴氏を呪って火をつけたものだとして再び源信が犯人であると藤原良相に告発します。
伴善男の報により藤原良相が源信を捕縛するために兵を出して源信邸を包囲します。
これに対し、参議・藤原基経から報告を受けた藤原良房は、直ちに清和天皇に奏上して源信を弁護し、源信邸を包囲していた藤原良相の兵を引き上げさせました(応天門の変)。
この騒ぎを鎮めるため、同年8月に藤原良房が宣下を受けて正式に摂政に就任(歴史上初の皇族外摂政)し、事件の処理も藤原良房の裁量に委ねられることとなりました。
ここで、藤原良房が、同年9月に伴善男を流罪とした上で藤原良相の政治権力を奪った結果、政敵を全て排除して完全に政権を掌握してしまいます。
藤原良房養女・藤原高子入内(866年)
応天門の変を利用して政権を完全に掌握した藤原良房は、その権力を万全なものにするために動きます。
まずは、藤原良房は、貞観8年(866年)、当時25歳であった藤原長良女である藤原高子を養女とした上で入内させ、清和天皇の女御(皇太后)とします。
多くの子を儲ける
清和天皇は、女御(皇太后)である藤原高子との間に貞明親王(第一皇子・後の陽成天皇)・貞保親王(第四皇子)・敦子内親王(第三または第五皇女)を設けました。
また、藤原高子の他にも多くの女御(藤原多美子・平寛子・嘉子女王・源貞子・隆子女王・兼子女王・忠子女王・藤原頼子・藤原佳珠子・源厳子・源済子・源喧子・源宜子など)・更衣(在原文子・藤原良近女・橘休蔭女・藤原仲統女・棟貞王女・藤原真宗女・藤原諸藤女・藤原諸葛女・佐伯子房女・弁の御息所など)を迎えています。
そして、女御のうちの藤原佳珠子との間に貞辰親王(第七皇子)を、儲けています。
さらに、更衣のうちの藤原仲統女との間に貞元親王(第三皇子)を、棟貞王女との間に貞純親王(第六皇子)を、在原文子との間に貞数親王(第八皇子)・藤原諸藤女との間に貞真親王(第九皇子)を、包子内親王を、藤原真宗女との間に貞頼親王(第十皇子)を、藤原良近女との間に貞平親王・識子内親王を、橘休蔭女との間に貞固親王を、藤原諸葛女との間に孟子内親王を、佐伯子房女との間に源長監・源長頼を、儲けています。
加えて、宮人である賀茂峯雄女との間に源長猷・源載子を、同大野鷹取女との間に源長淵を儲けています。
以上のように、清和天皇は、26人とも言われる多くの妻を娶って、19人とも言われる多くの子を儲けます。
精力的に活動した清和天皇は、皇統の継続という意味では大きな意味を持ったのですが、他方で親王・内親王の急増による朝廷財政の悪化ももたらしました。
清和天皇治世
政治権力のほぼ全てを藤原良房に奪われてしまったため清和天皇は世俗的な権力を有さず、わずかに貞観8年(866年)に最澄に「伝教大師」の諡号を贈るなどの行為がなされただけとなっています。
他方、清和天皇は、大納言・藤原氏宗等(当初は、右大臣藤原良相)に律令の補助法令である貞観格式の編纂を命じ、貞観11年(869年)に貞観格を、貞観13年(871年)に貞観式を完成させていますが、いずれも現存していないためその詳細は不明です。
また、貞観12年(870年)には、皇朝十二銭の9番目貨種・銭貨である貞観永宝(貞觀永寳、じょうがんえいほう)を鋳造・発行させています(三代実録)。
清和天皇の最期
譲位(876年11月29日)
幼帝として践祚・即位した清和天皇でしたが、年齢を重ねて成長をしていくと、次第に藤原良房(貞観14年/872年9月2日に藤原良房が死去した後は、藤原基経)の思い通りに動かなくなっていきます。
そこで、藤原北家の娘である藤原高子が清和天皇の子である第一皇子・貞明親王を出産した3カ月後に同親王を立太子します。
その後、27歳であった清和天皇は、貞観18年(876年)11月29日に9歳となった貞明親王に譲位し陽成天皇として践祚させたことにより、太上天皇となりました。
太上天皇となった清和上皇は、藤原良房邸であった染殿第(現在の京都市上京区一観音町)の南側を御在所・後院(徳治元年/1306年に朝廷より清和院の号を賜っています)とし、同所に入ります。
なお、記録上、陽成天皇即位後に清和上皇が国政に関わったという事実は確認できません。
出家(879年5月)
その後、清和上皇は、元慶3年(879年)5月に出家して「素真」という法名を名乗ります。
そして、理由は不明ですが、清和上皇は同年10月に畿内仏寺巡幸の旅に出ると、元慶4年(880年)3月に丹波国水尾(みずお→みずのお→みのお)に入り同地を隠棲の地と定めて新寺・水尾山寺の建立を始めます。
また、同地において絶食を伴う激しい苦行を始めたのですが、左大臣・源融の別邸棲霞観にて病を発症します。
清和天皇崩御
病を得た清和上皇は、粟田にある円覚寺に移されて療養することとなったのですが症状は改善せず、元慶4年12月4日(881年1月7日)に崩御されました。宝算31歳でした。
陵
元慶4年12月7日(881年1月10日)に大喪儀が執り行われ、その後に清和上皇の御遺体は洛東・上粟田山にて火葬に付され(金戒光明寺墓地に火葬塚が建っています)、清和上皇の生前の希望から遺骨は洛西の水尾に埋葬されました。
宮内庁により京都市右京区嵯峨水尾清和(水尾山腹)所在の円丘・水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)が清和天皇陵に治定されており、その立地から所在がほぼ確実といわれる数少ない陵墓の1つなのですが、嵯峨天皇以来陵墓を設けない埋葬が進められていたため清和天皇が水尾のどこに葬られたかは必ずしも明らかではありません。
なお、余談ですが、清和天皇陵は、数ある天皇陵の中でも屈指の難所にありますので、自動車運転や体力に自信のない方が訪問するのはなかなか骨が折れますので注意してください。
追号
崩御後、譲位後の在所であった清和院にちなみ、清和天皇の追号が贈られました。
また、陵の位置から水尾帝と呼ばれることもあります。
余談(清和源氏について)
子だくさんであった清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しました。
このうち清和天皇の第六皇子である貞純親王(貞純親王自身は貞観15年/873年に親王宣下を受けていますので臣籍降下はしていません。)の子である経基王(六孫王)が臣籍降下して源経基を名乗ります。
源経基の子孫が地方に土着して繁栄し清和源氏と呼ばれるようになりました。
そして、清和源氏から、幕府を開くこととなった源頼朝や足利尊氏が輩出したことから、祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)のうちで最も有名な源氏となりました。
なお、歴史の流れから見ると、藤原氏(藤原良房・藤原基経)によって権力を失った清和天皇でしたが、その子孫である清和源氏が藤原氏を超える力を手にしたという歴史を考えると興味が尽きません。