【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾

16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。

一度目が天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、二度目が慶長2年(1597年)からの慶長3年(1598年)までの慶長の役です。

明国を攻略するための戦争だったのですが、明国までの通り道となった朝鮮半島が主戦場となったため、朝鮮出兵とも言われます。

この2度の戦いは、老害化した豊臣秀吉が、当時の多くの大名の反対を押し切って行われた暴挙であり、豊臣家臣団を武断派と文治派に分ち、兵力を温存した徳川家康によってこの分断を利用されて豊臣政権が失われるに至らしめた愚策であると言われることが多いのですが、そのような事実はありません。

結果的に失敗したために酷い言われようがなされているのですが、他国を侵略するという道義的評価は置いておいて、豊臣政権維持という政策目的からすると本質的には愚策であったとは考え難い作戦です。

本稿では、豊臣秀吉による政権盤石化政策の一環として行われた朝鮮出兵のうちの第一段である文禄の役について簡単に説明していきたいと思います。

豊臣秀吉による明国征服案

豊臣秀吉による日本平定(1590年8月)

天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により、豊臣秀吉は日本全国の武力統一を完成させます。

これは、日本全国が豊臣秀吉の支配下に置かれたことを意味し、日本中から争いがなくなったことをも意味します。

一見すると平和という喜ばしい状況となったとも思えるのですが、必ずしもそうではありません。

なぜなら、争いがなくなってしまうと、それまで腕っぷしで出世を重ねてきた支配階層である大名・その配下である武士・さらにその下層に位置する足軽などの存在価値が失われてしまうからです。

また、争いがなくなって存在価値を失った大名・武士・足軽がリストラされる事態が生じると、そのような事態をもたらした豊臣政権への不平不満が高まり、大規模な反乱へと進展していく可能性が出てきます。

歴史上、武力で国内統一を果たした者は、このような反乱を可能性を未然に防ぐために反乱可能性者を次々と粛清していくか(秦の始皇帝・漢の劉邦など)、政治システムを大転換するか(江戸幕府の徳川家康など)、新たな敵を創設するか(マケドニアのアレキサンダー・モンゴル帝国のチンギスハンなど)などの抜本的な対策を行ってきました。

このうち豊臣秀吉が選択したのは、新たな敵を創設することでした。

豊臣秀吉による徳川家康対抗策

豊臣秀吉が天下統一した時点において、日本国内に250万石もの広大な所領を有する大大名として徳川家康が存在していました。

この徳川家康の所領は圧倒的であり、次点の毛利家や上杉家と比較しても勝負にならない大領でした。

そこで、以降の豊臣政権の安全を考えるのであれば、徳川家を何とかしてしまわなければなりません。

ところが、豊臣秀吉としても、小牧長久手の戦いで敗れている徳川家康と一戦交えるのは得策ではない上、そもそも討伐する大義名分がありません。

そこで、豊臣秀吉が考え出したのは、徳川家康に匹敵する大領の大名を大量に作り出し、徳川家をその中に埋もれさせてしまうことでした。

豊臣秀吉の唐入り構想

以上の新たな敵の創設と、徳川家康対策とを同時に満たす政策が広大な明国の領土獲得(唐入り)だったのです。

すなわち、明(中国)に侵攻してその広大な領土を切り取り、それを子飼い大名に与えることにより多くの大領(100万石以上)を有する大名を作り出し、それらで豊臣政権内における徳川家康の影響力を相対的に低下させようと考えたのです。なお、従来から豊臣秀吉による明及び朝鮮征伐(唐入り)の動機として、様々な説が提唱されてきたのですがいずれも確証に至っておらず、本稿もあくまでも考えらえる1つの説であるとお考えいただければ幸いです。

そして、この案を実現させるためには条件が2つあり、それは、中国大陸(朝鮮含む)に領土を獲得することと、獲得した領土を徳川家康に与えないということです。

なお、豊臣秀吉は、日本を完全統一した天正18年(1590年)よりも以前から海外進出を想定しており、天正13年(1585年)に一柳市介の書状にその構想を記載したり、天正14年(1586年)3月にイエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対してキリスト教布教の対価として唐入りのためのポルトガル大型軍艦2隻の手配を依頼したり(日本西教史)しています。

唐入り構想の評価

今日では、唐入り(朝鮮出兵)は、老害化した豊臣秀吉による多くの将兵の反対を押し切って行われた暴挙であると説明されることが多いのですが誤りです。

当時は日本国という概念が希薄であり(豊臣秀吉による統一によりようやくその概念が生れたに過ぎません)、朝鮮出兵は、四国攻め・九州攻めなどの延長線上に過ぎず、新たな領地を求める武士たちがこれに反対する理由がないからです。

そのため、立身出世を望む武士からすると、望ましい計画だったはずです。

では、なぜ豊臣秀吉による朝鮮出兵が暴挙として語られるのか。

理由は簡単です。

負けたからです。

戦争に負けた場合には、必ず後出しじゃんけんで「実はこの戦争には反対だったのだ」という主張をするものが多く現れてきます。そして、戦争前に開戦に積極的だった者は責任追及を防ぐためにその論拠となりそうな物(書状・日記など)を処分します。

そのため、敗れた戦争については、後世には戦争消極論の資料のみが残存することとなり、これらの資料のみを参照することで誤った解釈に導かれることとなるのです。

そして、このことは朝鮮出兵の際の豊臣秀吉にも同様に当てはまり、本来は、武士達が望んで行われた朝鮮出兵が、豊臣秀吉の老害の結果と語られるようになったのです。

また、このことは、豊臣秀吉に唐入りさせてもらえなかった徳川家康がその後に天下を豊臣家から奪取したことが拍車を掛けます。

唐入り想定ルートの決定

明国への進出を検討していた豊臣秀吉でしたが、船舶用磁気コンパスが存在していなかった当時、「山あて」と呼ばれる船団が沿岸を目視できる範囲を確認しながら位置を特定しつつ航行する方法が主流であり、日本から海を越えて直接明国に上陸する航海技術は存在していませんでした。

また、兵站の観点からしても日本から直接明国に上陸することはできません。

万単位の兵を動員して明国を目指す日本軍としては、その進軍に際して大量の武器や食料が必要となるのですが、これらは1回運んで終わりというわけではなく、戦いが続く間、常に前線にこれらの物資を供給し続ける必要があります。

そして、これらの物資は海路で日本から運ばれて来るところ、またその距離が長ければ長いほど敵襲や自然災害によって少なくない量の物資が失われることとなるため、その距離が短ければ短い必要がある上、陸揚げ地点にはこれを可能とする良港が必要となります。

以上の結果、日本から明国に攻め入るためには、そのルート選択として必然的に海路で最短ルートとなる肥前名護屋→壱岐→対馬南部→対馬北部→釜山を経由し、そこから朝鮮半島南部沿岸を西回りで明国に向かうというルートに限定されることとなりました。

日朝交渉決裂

そこで、豊臣秀吉は、対馬を治める宗家を通じてまずは朝鮮に圧力をかけ、豊臣家に帰服するか、それが飲めなくとも日本軍の通過を許すよう求め、これらを拒否すれば征伐するよう働きかけようとします。

もっとも、朝貢・冊封して明国に服属する形となっていた朝鮮が宗主国たる明国を攻撃するための軍となる日本軍を通すことができるはずがありません。

当然ですが、宗家による交渉は失敗に終わります(朝鮮半島と日本との貿易を収入源として双方に繋がりを持つ宗家としては、そのような対応ができようはずがなく朝鮮半島と日本との関係を修復させようと努力したものの失敗しています。)。

出兵準備

「唐入り」表明(1591年8月23日)

朝鮮半島通過許可を得ることができなかった豊臣秀吉は、武力にて朝鮮半島を強行突破することを決定し、常陸以西の四国・九州・日本海沿いの諸国大名に号令を発して天正19年(1591年)1月20日から、船の建造・水主の確保・糧米集積・通貨鋳造・朝鮮地図作成(なお、朝鮮地図では八道を五色で塗り分け、慶尚道を白国・全羅道を赤国・忠清道・京畿道を青国・江原道・平安道を黄国・咸鏡道を黒国・黄海道を緑国と命名して諸将に配られました。)などの出兵準備を始めていきます。

そして、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)8月23日、あらためて北京遷都を最終目的とする「唐入り」と称する明国遠征への決意表明がなされ、その旨が諸大名に発表されました(このとき五大老筆頭の徳川家康は、関東にいたために不在でした)。

この決意表明に対して宇喜多秀家がすぐさま賛成し、その後に大老・奉行・諸大名の賛同を得て国を挙げての遠征事業が決まります。

そして、このとき、遠征軍は朝鮮半島を経由して明国に向かうこと、その決行時機が天正20年(1592年)春とされることが決まりました。

朝鮮への兵站ルートの整備

前記のとおり、明国に攻め入るためには平坦の確保が必要であるところ、大軍を維持するための兵站ルートは最短距離に決まっていますので、肥前名護屋→壱岐→対馬南部→対馬北部→釜山という兵站ルートの策定・整備が決まります。

そこで、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)10月10日、遠征軍の大本営とするべく名護屋城築造を指示し、築城普請を開始します(縄張・黒田孝高、総奉行・浅野長政、普請・九州諸大名)。

また、豊臣秀吉は、本陣となる名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐と対馬に兵站基地となる城を築くことを命じ、壱岐においては同島を領する松浦隆信に対して壱岐国壱岐郡勝本(現在の長崎県壱岐市勝本町坂本触)に風本城の築城を命じています。

関白職を譲る(1591年12月27日)

豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月27日、関白職を内大臣豊臣秀次に譲ることにより日本の政治を任せ、自身は唐入りに専念することとします。

その上で、豊臣秀吉は、天正20年(1592年)正月、総21軍(隊)に分けられた約30万よりなる征明軍の編成が始められました。

このときは、同年2月に渡海して朝鮮半島に渡り、半島を縦断して明に攻め込む予定でした(このときは、豊臣秀吉は朝鮮が日本軍の半島縦断を許可すると考えていました。)。

その後、吉日である同年3月1日に出陣の儀が予定されたのですがが、豊臣秀吉が眼病を患ったために延期され、同年3月13日に新たな軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが示されることとなり、豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとなりました。

このとき豊臣秀吉により動員された兵力は25~30万人と言われており、当時の日本国内で動員できる総兵力の約半分(当時の総石高2000万石とし1万石当たり250人として試算)と言われています。

そして、この前後から動員された兵(西海道・南海道・山陰道・山陽道からの動員が主力)が、肥前名護屋→壱岐→対馬へと進軍しており、同年3月23日には第一軍が対馬の北端の豊崎に移動して豊臣秀吉の命令を待っている状態となりました。

征明軍陣立(1592年1月)

天正20年(1592年)正月、同年3月に出兵するとした上で、以下のとおりの征明軍陣立てが行われました(なお、この陣立ては通信使来日時の虚偽報告により、朝鮮が日本に服属しているとの誤認に基づきなされています。)。

(1)朝鮮半島出征軍・総計15万8800人

① 一番隊(九州大名・先遣隊)・計1万8700人

先導役である宗義智5000人、先鋒を小西行長7000人とし、その他松浦鎮信3000人・有馬晴信2000人・大村喜前1000人・五島純玄700人

② 二番隊(九州大名)・計2万2800人

加藤清正1万人・鍋島直茂1万2000人・相良長毎800人

③ 三番隊(九州大名)・計1万1000人

黒田長政5000人・大友義統6000人

④ 四番隊(九州大名)・計1万4000人

毛利勝信2000人・島津義弘1万人(琉球与力)・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵・島津忠豊ら計2000人

⑤ 五番隊(四国大名)・計2万5100人

福島正則4800人・戸田勝隆3900人・長宗我部元親3000人・蜂須賀家政7200人・生駒親正5500人・来島通之・来島通総計700人(水軍)

⑥ 六番隊(九州・中国大名)・計1万5700人

小早川隆景1万人・小早川秀包1500人・立花宗茂2500人・高橋統増800人・筑紫広門900人

(なお、この他に毛利家文書では毛利輝元3万人も七番隊であったと記載されているが、松浦古事記等では六番隊と記され行動も六番隊と共にしていたことから、実際の所属は不明)

⑦ 七番隊(総大将・奉行衆)・計1万7200人

総大将である宇喜多秀家1万人(対馬で待機、軍監黒田孝高など)・総奉行である石田三成2000人・その他奉行衆である増田長盛1000人・大谷吉継1200人・前野長康2000人・加藤光泰1000人

⑧ 八番隊・計1万5550人

浅野幸長3000人・宮部長煕1000人・南条元清1500人・木下重堅850人・垣屋恒総400人・斎村政広800人・明石則実800人・別所吉治500人・中川秀政3000人・稲葉貞通1400人・服部春安800人・一柳可遊400人・谷出羽守450人・石川康勝350人・軍目付として竹中重利300人

⑨ 九番隊・計2万5470人

豊臣秀勝(病死後織田秀信に変更)8000人・細川忠興3500人(壱岐待機)・長谷川秀一5000人・木村重茲3500人・牧村利貞700人・岡本重政500人・糟屋武則200人・片桐且元200人・片桐貞隆200人・高田豊後守300人・藤掛三河守200人・小野木重勝1000人・古田兵部少輔200人・新庄直定300人・早川長政250人・森重政300人・亀井茲矩1000人(水軍)・軍目付として太田一吉120人

⑩ 水軍・計8750人

船大将として九鬼嘉隆(志摩鳥羽)1500人・藤堂高虎(紀伊粉河)2000人・脇坂安治(淡路洲本)1500人・加藤嘉明(淡路志知)1000人・来島通之・来島通総(伊予来島・五番隊)・菅平右衛門(淡路岩屋)250人・桑山一晴・桑山貞晴(紀伊和歌山)1000人・堀内氏善(紀伊新宮)850人・杉若伝三郎(紀伊田辺)650人

(2)名護屋城滞陣統監軍・総計10万1315人

以上の他、名護屋城に予備役として、旗本計2万7695人・在陣衆計7万3620人(徳川家康1万5000人・豊臣秀保1万人・前田利家8000人を含む)が配備されました。

天皇に朝鮮出兵上奏(1592年3月26日)

豊臣秀吉は、天正20年(1592年)3月26日、御所に参内して後陽成天皇に対して朝鮮出兵の上奏を行い、大本営となる名護屋城に向かうために京を出立します。

この状況下において、臨済宗中峯派の僧・景轍玄蘇が、朝鮮国王に対して入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するよう求める最後通牒を伝えたのですが拒否され、同年4月7日に玄蘇が対馬へ帰還して朝鮮側による拒絶の意志を伝えたことから開戦が決まります。

文禄の役

釜山攻略(1592年4月13日)

天正20年(1592年)4月12日午後2時、対馬・大浦を出発した小西行長率いる1番隊の軍船700艘が朝鮮半島に上陸し、同日、念のために朝鮮側に再度服従の意思確認を行ったが無視されます。

そこで、翌同年4月13日早朝より釜山城の総攻撃を開始して昼までにこれを落城させると共に、多大鎮・西平浦の両砦を陥落させて上陸地点となる釜山を制圧します。

橋頭保となる釜山を制圧した日本軍は、続けて兵站ルートの確保を図るべく、慶尚道水軍を駆逐し(全羅道水軍による救援拒否により孤立していました)、釜山周辺の制海権を確保します。

後手に回る朝鮮軍

対馬・釜山の兵站を確保した後、朝鮮半島に先行上陸を果たした日本軍一番隊が、天正20年(1592年)4月15日に東萊城を、同年4月16日に梁山城を攻略して漢城を目指して北進し、さらに同日、鵲院関を突破します。

なお、朝鮮側では、同日早朝、釜山から撤退した慶尚左水使・朴泓が朝鮮の首都・漢城府にたどり着いて日本軍襲来を報告したのですが、国王宣祖が面会を許さなかったためにやむなく大臣等で対応を協議したのですが、有効な対応策をとることができませんでした。

快進撃を続ける日本軍

また、天正20年(1592年)4月17日、確保された兵站ルートを利用して日本軍の二〜四番隊(九州大名部隊、ただし四番隊の島津義弘は遅参)も順に釜山に到着します。

釜山に降り立った部隊のうち、二番隊は、そのまま陸路と海路の双方で梁山と蔚山の攻略を目指して釜山から出発します。

また、三番隊はそのまま朝鮮半島南岸を廻航西進して安骨浦を目指し、同年4月18日に安骨浦の海戦に勝利して同地に上陸し、金海城を占領しています(また、同年4月20日には昌原城を攻略し、同年4月24日には星州に達しています。)。

さらに、同年4月19日、五番隊・六番隊も釜山上陸を果たします。

その後、一番隊が、同年4月19日に密陽を陥落させた後、さらに同年4月20日には大邱を占領し(同日、二番隊も慶州城を攻略)、同年4月22日に仁同城、同年4月24日に尚州城を攻略するなどし、朝鮮半島に上陸した日本軍の3隊がいずれも連戦連勝を重ねながら朝鮮首都の漢城を目指して進んでいきました。

豊臣秀吉名護屋城入り(1592年4月25日)

他方、京を出立した豊臣秀吉は、緩々と厳島神社に参拝したり、毛利氏の接待を受けたりしながら名護屋城へ向かう道中をゆるゆると西に向かって進み、天正20年(1592年)4月25日になってようやく本陣である名護屋城に到着します。

名護屋城に入った豊臣秀吉は、次々と届く勝利報告に気を良くし、自らも名護屋城に残る10万人の将兵を率いて朝鮮半島に攻め入ると主張し始めたのですが、周囲の説得により押しとどめられています。

そのため、徳川家康を始めとする名護屋城に控えていた出兵予定の東国諸大名もまた、朝鮮半島への上陸を控えさせられました。

朝鮮国王が漢城放棄(1592年4月29日)

その後も漢城を目指して北進を続ける一番隊は、鳥嶺関所を通過し、天正20年(1592年)4月27日には弾琴台・忠州城を攻略します。

また、昌原城を攻略していた三番隊も、玄風→星州→金山へと進み、同年4月28日には秋風嶺に布陣した朝鮮軍を撃破します。

さらに、このとき二番隊もまた、新寧→比安を進み、同日、忠州に到達します。

この結果、日本軍一番隊~三番隊が漢城に迫まります(なお、このとき一番隊の小西行長と三番隊の加藤清正が、どちらが先に漢城に入るかで大喧嘩となり、鍋島直茂が仲裁に入ることで何とか事なきを得ています。)。

他方、日本軍が迫ってくることを聞いた朝鮮側は大混乱となり、同年4月29日には朝鮮国王であった宣祖が首都・漢城を捨てて平壌に逃れるという事態に至ります。

漢城府占領(1592年5月2日)

天正20年(1592年)5月2日、日本軍一番隊及び二番隊が漢城府に到着し、国王不在となって混乱を極めていた漢城府を占拠します。なお、このとき朝鮮人は、侵略軍であるはずの日本軍に対して反抗の意思を示さず、むしろ日本軍に対して親切に対応したことから、日本軍の側が面食らったとされています(ルイスフロイスの日記)。

朝鮮南部を概ね攻略した日本軍側は、釜山と漢城との間に関所を設置するなどして防備を固めると共に、同日朝鮮支配の行政官となるための七番隊の宇喜多秀家が奉行衆と共に釜山に上陸した後で漢城を目指して北進を開始し、同年5月7日に三番隊と共に同城に入ります。

また、四番隊・五番隊も漢城を目指して進み、同年5月10日頃に到着しています(なお、この頃に、李舜臣率いる朝鮮全羅道水軍91隻が釜山近郊の日本側輸送船団を襲撃し、次々とこれを沈めて全羅道に帰還しています(玉浦海戦))。

漢城攻略の報を聞いた豊臣秀吉は上機嫌となり、自らも漢城へ赴くと言って諫められ、漢城に集った諸将に明国への侵攻命令下します(なお、豊臣秀吉は、同年5月16日、逃亡した朝鮮国王・宣祖については捕え次第保護するよう指示しています。)。

朝鮮半島八道平定作戦

漢城に入った諸将に対し、豊臣秀吉から明国に向かって進軍するよう指示がなされたのですが、現場にいた諸将は、占領直後で不安定な朝鮮半島情勢を置いておくことはできないと判断します。

そこで、漢城に入った諸将は、七番隊の総大将宇喜多秀家と奉行衆に漢城と全体の総指揮を任せた上で、朝鮮半島に上陸しているその他の一番隊から六番隊までの諸将を朝鮮半島全域に展開した上で、以下のとおり朝鮮半島八道の占領作戦を進めることによりその安定化を図ることを決めます。

平安道→一番隊:小西行長・宗義智・有馬晴信・松浦鎮信

咸鏡道→二番隊:加藤清正・鍋島直茂・相良頼房

黄海道→三番隊:黒田長政・大友義統

江原道→四番隊:毛利吉成・島津義弘・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵

忠清道→五番隊:蜂須賀家政・福島正則

京畿道→五番隊:戸田勝隆・長宗我部元親

全羅道→六番隊:小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂

慶尚道→六番隊:毛利輝元・毛利元康

開城府占領(1592年5月28日)

そこで、前記の取り決めに従って、天正20年(1592年)5月10日にまずは二番隊を先行隊とする朝鮮半島制圧作戦が始められ、同年5月18日に臨津江南岸で朝鮮軍を撃破した上、一番隊~三番隊が合同作戦を進めて同年5月28日に開城府を攻略します。

日本軍の快進撃を見た朝鮮国王・宣祖は、逃れていた平壌から義州へ逃亡し、明国に救援を求めます。

開城府を占領した日本軍は、予定通り一番隊・三番隊は北上して平壌へ向かい、二番隊は咸鏡道制圧のため東側へ向かって進んで行くこととします。

なお、以上のとおり、このころの日本陸軍は朝鮮陸軍に対して連戦連勝を重ねていたのですが、他方で日本水軍は李舜臣率いる朝鮮全羅道水軍による輸送船団攻撃に大苦戦していました(同年5月29日泗川海戦・同年6月2日唐浦海戦・同年6月5日第1次唐項浦海戦・同年6月7日栗浦海戦など)

平壌城占領(1592年6月16日)

同年6月14日に平壌南側に迫った日本軍は、翌同年6月15日に大同江で朝鮮軍を破ると、そのまま平壌城に逃げ帰る朝鮮軍を追って平壌城に向かい、翌同年6月16日に平壌城を占領します。

平壌城を制圧した日本軍は、予定通り一番隊は平壌城のある平安道の制圧を進め、三番隊を黄海道制圧に、四番隊を江原道制圧に、五番隊を忠清道・京畿道制圧に、朝鮮半島全域支配作戦を進めることとなりました(なお、遅れて朝鮮半島に上陸した六番隊は釜山から全羅道・慶尚道制圧に向かっています。)。

なお、陸上では快進撃を続ける日本軍でしたが、全羅道・忠清道付近でゲリラ的に輸送船団を攻撃してくる李舜臣率いる朝鮮全羅道水軍に苦しめられた上、文禄元年同年7月7日に脇坂安治率いる水軍が李舜臣水軍に誘引されて撃破されるなど(閑山島海戦)して海戦では苦戦したため、積極的な海戦は控え、守備沿岸に特化することとしました。

また、この頃になると、朝鮮半島各地で義兵活動が活発化していき、同年7月9日には義兵と朝鮮軍との連合軍が全羅道の制圧戦を進める小早川隆景軍を撃退しています(第1次錦山の戦い)。

明国軍参戦(1592年7月16日)

首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、宗主国であった明国に援軍を求めたことにより、天正20年(1592年)7月16日、明国が朝鮮方に付いて参戦します。

明国軍は、平壌城に攻め寄せますが、守備側の日本軍一番隊に撃退されます(第1次平壌城の戦い)。

このとき、日本軍手強しと見た明国側が、日本に詳しい商人・沈惟敬に遊撃将軍の肩書を付して交渉担当者とし、日本側に停戦の申し出を行ったため、小西行長は一旦漢城に戻ってその是非についての協議を行います。

他方、この間の同年7月17日、咸鏡道の制圧を続ける二番隊の勢いは止まらず、朝鮮国咸鏡道城津において韓克諴率いる朝鮮軍を撃破し(海汀倉の戦い)、同年7月下旬には豆満江を渡って満州へと侵攻し、現在の局市街付近にあった女真族の城を攻略するなどしています(オランカイ侵攻)。

なお、母・大政所が危篤であるとの知らせが届いたことから、豊臣秀吉は、同年7月22日に名護屋城を発って京に向かっており、その後の大政所の死去により同年8月1日に大坂で葬儀をとり行った後、同年11月1日に名護屋城に戻っています。

三番隊・黒田長政軍が黄海道制圧のために平壌城を出発したのですが、これを見た朝鮮方は日本軍側が戦意を喪失して撤退を開始したと考え、同年7月29日、平壌城を奪還するために攻撃を仕掛けて失敗します(第2次平壌城の戦い)。

50日間の停戦合意(1592年8月29日)

平壌城攻撃に失敗した明国側は、天正20年(1592年)8月29日、沈惟敬を担当者として日本側に和平交渉が持ちかけます。

この申し出に対し、日本側としても消耗する兵力・物資を再編成する期間が必要でしたので、一番隊による平安道平定作戦を一時中断することとし、明国と日本側で50日間の停戦合意が成立します。

日本と明国との間は停戦中であったものの、朝鮮にはその効力は及んでおらず、同年9月1日、朝鮮水軍が総力を結集して大艦隊を編成し、釜山奪回を目指したのですが、日本軍に撃退されて敗退し(釜山浦海戦)、以降水軍活動の停止を余儀なくされました(活動再開は、翌文禄2年/1593年2月熊川攻撃)。

釜山浦海戦の勝利により釜山の安全を確保した日本軍は、新たに九番隊を釜山に上陸させ、同年9月23日に同隊の細川忠興・長谷川秀一・木村重茲ら2万人に釜山に近い昌原を攻撃して撃破しています(昌原の戦い)。

その後、咸安を経て同年10月4日に晋州城に取り付いてこれを包囲し、同年10月6日から総攻撃を開始したのですが、攻略困難と判断して同年10月10日に城の包囲を解いています(第1次晋州城の戦い)。

また、明国側は、日本側との停戦期間を利用して北西部のボバイの乱の鎮圧を成功させたことにより北西に回していた明国兵を日本対策にあてることができるようになったため、これらの兵力を朝鮮人の血も引く李如松に預け、急ぎ朝鮮半島に向かわせます。

そして、同年12月23日、李如松が大軍を率いて平壌に到着し、平壌城攻撃準備に取り掛かります。

なお、相当の苦戦を強いられていた日本側は、豊臣秀吉自らが、徳川家康・前田利家らの名護屋城滞陣統監軍10万人を連れて援軍として朝鮮半島に上陸しようとして止められています。

平壌城失陥(1593年1月8日)

文禄2年(1593年)1月5日、平壌城が5万人を超える兵(李如松率いる明国軍4万3000人・ 朝鮮軍8000人)に包囲され、第3次平壌城の戦いが始まります。

同年1月7日、1万5000人で平壌城に籠る小西行長でしたが、多勢に無勢で支えきれないと判断して平壌城を脱出したため、翌同年1月8日に平壌城を明国軍に奪還されます。

なお、平壌城を包囲されていた小西行長は、鳳山城にいた大友義統に援軍要請をしたのですが、大友義統は、小西行長が討死したとの誤報を信じて鳳山城を放棄して先に撤退してしまいました(この結果、大友義統は窮地の味方を見捨てたこととなり、軍目付の熊谷直盛・福原直高に詰問され、後にその責から改易処分とされています。)。

明国軍の反転攻勢

撤退する小西行長を追って南進する明国軍は、同年1月18日には開城府を奪還し、その勢いのままさらに南進しながら日本軍に占領された朝鮮都市を解放していきました。

また、一番隊の撤退により、二番隊が咸鏡道からオランカイを突破して明国に攻め入るという作戦も失敗に終わったため、文禄2年(1593年)1月中旬に、先行していた二番隊が咸鏡道から撤退することが決まります。

戦線膠着(1593年2月中旬)

南進してくる明国軍に対応するため、漢城に日本軍将兵が集まって籠城するか打って出るかの軍議が繰り広げられます。

この軍議は最終的には野戦決着との結論に落ち着き、文禄2年(1593年)1月26日に、日本軍先遣隊2万人にて迫り来る明国軍を撃破し(碧蹄館の戦い)、明国軍を開城まで撤退させます。

他方、明国軍を撤退させた日本軍でしたが、同年2月12日の幸州山城攻め(幸州山城の戦い)で大きな損害を被り、再び開城府・平壌城に攻め入る余力はありませんでした。

この結果、明国側は開城府を、日本側は漢城府を前線としてお互いに先に進むことができなくなり戦線が膠着します。

講和交渉の開始(1593年5月15日)

睨み合いを続ける日本軍と明国軍は、共に決め手を欠きいたずらに時間だけが経過して士気が低下していきます。

困った日本側の小西行長と明国側の沈惟敬との間で、講和交渉が始められます。

まず最初に、日本側が釜山までの撤退と捉えていた朝鮮王子を返還すること、明国側が開城まで撤退し日本へ使節を送るという、最初の双方譲歩案が決まります。

そして、この合意を基に文禄2年(1593年)4月18日に日本軍が漢城府から撤収し、明国軍がこれを接収します(同年4月下旬に釜山まで移動)。

その上で、同年5月15日、明国勅使が名護屋城の豊臣秀吉の下を訪れたのですが、同年5月23日に謁見した豊臣秀吉は、同勅使に対して、明国皇女の入内・勘合貿易の復活・双方不可侵の誓紙取り交し・朝鮮南部割譲・朝鮮王子捕虜の返還・朝鮮重臣の日本への忠誠を求めます。

なお、豊臣秀吉は、文禄2年(1593年)5月20日、朝鮮半島南部に、恒久的在陣のための拠点となる倭城建設を指示した上で、抵抗勢力となる晋州城の攻撃を命じます。

そして、同年6月21日、4万3000人もの大部隊を編成して晋州城を包囲して攻撃を開始し、同年6月29日にこれを陥落させています(第2次晋州城の戦い)。

もっとも、豊臣秀吉の要求を明国が受諾するはずがないと踏んだ現場レベルでは、解決の道を探り、お互いの国主に嘘をつくことで戦争を終わらせようと考えます(なお、この講和交渉は日本と明国との間で行われ、継戦を主張する朝鮮の意向は無視されました)。

そこで、同年6月28日、小西行長の家臣であった内藤如安が、「関白降表」という日本が降伏したという内容の偽造文書を明国に差し入れ、明国王には日本が降伏したとすることで戦争終結の判断をさせて戦争を終結させようとしました(他方、日本側の豊臣秀吉には明国が降伏したと言うことにしています。)。

以上のように、お互いに相手方が降伏して自国に都合の良い条件を相手方が認めたと考えた状況の下、同年7月中旬から日本軍と明国軍の祖国帰還が始まり、その後の同年9月3日、朝鮮国王・宣祖が漢城府に帰りついています。

もっとも、日本軍の一部は朝鮮半島南部に駐留を続け、沿岸部に築城した倭城を根拠として明国に対して朝鮮南部の支配権の主張を続けます(なお、倭城は、朝鮮半島の南岸だけでなく、釜山から漢城までの間に1日の進軍距離毎につたいの城が建設されていたため、内陸部にも建てられたはずですが、沿岸部以外は調査が進んでおらずその実態は明らかではありません。)。

講和交渉決裂(1596年9月2日)

日本軍・明国軍の多くが自国に戻った後の文禄2年(1593年)12月から翌文禄3年(1594年)1月にかけて 熊川において日明間の講和交渉が始まります。

もっとも、日本側と明国側のいずれもの交渉担当者が自国側に自国が勝利したと伝えていますので、お互いが相手方に対して高圧的な条件を提示し、なかなか前に進みません。

その後も約3年間もの間、日本側と明国との間で使節の行き来が繰り返しながら講和交渉が続けられていたのですが、文禄5年(1596年)に大事件が起こります。

文禄5年(1596年)9月1日、明国からの使者が大坂城を訪れたのですが、翌同年9月2日に明国使節が持参した国書を見た豊臣秀吉が激怒します。

なぜなら、明国使節が持参した国書には、明国が豊臣秀吉に対して日本国王の称号を与え、金員を授与すると記されていたからです。

すなわち、豊臣秀吉が降伏したと思っていた明国が、明国を宗主国とした柵封体制に日本を組み入れるという内容のものだったからです。

これに対し、明国が降伏したと思っていた豊臣秀吉は、このとき初めて明が降伏などしていなかったことを知り、小西行長にだまされていたことを知って激高したのです。

怒りに震える豊臣秀吉は、明国の使者を追い返して講和交渉を決裂させ、直ちに諸大名に再度の朝鮮出兵準備を命じました。

慶長の役の始まり(1597年1月)

豊臣秀吉は、慶長2年(1597年)1月14日、再び14万人を超える兵を動員して朝鮮半島への上陸作戦を開始し、同年7月15日に初戦となる漆川梁海戦で朝鮮水軍をほぼ全滅させたことを皮切りとして第2ラウンドとなる慶長の役が始まります。

もっとも、慶長の役まで紹介すると余りに長くなりますので、慶長の役については別稿に委ねたいと思います。

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