摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、天正17年(1589年)6月5日に、磐梯山裾野に位置する摺上原で行われた、伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦です。
敗北した戦国大名・蘆名家が滅亡し、勝利した伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦いであります。
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摺上原の戦いに至る経緯
伊達政宗の家督相続(1584年10月)
天正12年(1584年)10月、18歳の若さで伊達家の家督を継いで伊達家第17代当主となった伊達政宗は、旧来の洞による小規模国衆の集合体の長ではなく、自らを頂点とするピラミッド型のヒエラルキーシステムの構築を目指します(伊達政宗の家督相続時の勢力図は、概ね上図のとおりです。)。
そして、そのために軍備増強を図り、消極的な縁戚外交を止め、積極的な対外侵攻作戦(南進作戦)を進めていきます。
伊達政宗による奥州侵攻作戦
伊達政宗は、1585年(天正13年)、大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、岳父・田村清顕と共に南北から侵入して小手森城を囲み、同年8月27日、小手森城を陥落させます(小手森城の撫で斬り)。
敗れた小手森城主・大内定綱は姻戚関係にあった畠山義継を頼って二本松領へ逃れたのですが、伊達政宗は、大内定綱を追って二本松領にも侵攻して行きます。
勝ち目がないと判断した二本松城主・畠山義継は、伊達政宗に降伏を申し出たのですが、伊達政宗はこれを許さず、畠山義継の所領のほとんどを没収しようとします。
その後、伊達輝宗や伊達成実らの斡旋で、畠山義継との講和条件が緩和されますが、この一件で畠山義継が伊達政宗を深く恨むようになります。
畠山義継は、伊達政宗への恨みを晴らすため、天正13年(1585年) 10月8日に宮森城を訪れた際、伊達輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとします。
この話を聞いた伊達政宗は、本拠地へ戻る途中の高田原で、伊達輝宗を連行する畠山義継一行に追いつき、そこで畠山義継一行を伊達輝宗ごと射殺します(粟之巣の変事)。
伊達輝宗の死は、伊達輝宗の存在によりなんとか繋ぎ止められていた伊達家と周辺大名との外交関係を断ち切る結果をもたらし、その結果として、伊達政宗は、複雑な血縁関係で結ばれている奥州や北関東の諸大名(蘆名家・佐竹家など)を敵に回すこととなります。
人取橋の戦い(1585年10月15日)
伊達政宗は、父の初七日が明けるのを待ち、天正13年(1585年)10月15日、伊達輝宗及び岳父・父田村清顕の弔い合戦として、加勢の要請を承諾していた相馬義胤とともに1万3000人を率いて二本松城攻めを開始します。
このとき、二本松から援軍要請を受けた佐竹義重・佐竹義宣は、蘆名亀王丸・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白川義親・義広らと協議を行い、対伊達政宗のための南奥州連合軍を結成し、畠山氏救援のために結集します。しかも、ここに直前まで伊達政宗と共に二本松城攻めをしていた小高城の相馬義胤まで加わります。
そして、天正13年(1585年)11月17日、伊達政宗軍と反伊達政宗連合軍との間で、後に人取橋の戦いと呼ばれる激戦が起こります。
戦いは、反伊達政宗連合軍の大勝に終わったのですが、反伊達政宗連合軍の主力であった佐竹軍の撤退により、伊達政宗は何とか命をつなぎます。
二本松城獲得(1586年7月16日)
その後も、奥州支配の野望を隠さない伊達政宗は、再度南奥に出陣し、相馬義胤の斡旋を受けて、天正14年(1586年)7月16日、二本松勢の会津退去を条件に二本松城を獲得し、以降さらなる領土拡大を目指して蘆名領に狙いを定めます。
なお、天正15年(1587年)、豊臣秀吉から奥州の諸大名宛に私戦を禁じる惣無事令が言い渡されたのですが、伊達政宗は、奥州の問題は豊臣秀吉にとって大きな問題ではないと判断し、豊臣秀吉の政策を無視して領土拡大政策を続けることを決めています。
他方、蘆名家側でも伊達政宗に対する対応が検討され、再度、佐竹家を中心とする反伊達政宗連合軍を編成し、天正16年(1588年)、伊達・田村の分断と二本松攻略を目指して伊達政宗に対して戦いを仕掛けましたが、痛み分けに終わっています(郡山合戦)。
伊達政宗の蘆名領侵攻(1589年5月3日)
天正17年(1589年)4月15日、相馬義胤と岩城常隆が、伊達家の同盟勢力である田村家(伊達政宗の正室・愛姫の実家)の領土への侵攻を開始します。
同盟国の危機を無視できない伊達政宗は、同年4月22日、田村家を救援するために米沢城を出立し、翌同年4月23日、大森城に入ります。
ところが、同年4月24日、蘆名家家臣で片平城にいた片平親綱(大内定綱の弟)が内通してきたため、伊達政宗は、この進軍を蘆名攻めの好機と判断します。
そこで、伊達政宗は、大森城から二本松城へと軍をすすめ、そこで伊達領全域から兵をかき集めます。
そして、伊達政宗は、同年5月3日、2万人にまで膨れ上がった軍を率いて本宮城に入城します。
そして、同年5月4日、伊達政宗は、本宮城から片倉景綱・大内定綱・片平親綱・伊達成実らを出撃させて安子島城を攻撃させてこれを攻略し、さらに、同年5月5日、安子島城の西にある高玉城を攻略します。
相馬軍を排除(1589年5月20日)
その上で、伊達政宗は、本格的な蘆名領侵攻を始めるため、まずは背後を襲われる危険を封じることとします。
具体的には、田村領に進軍している相馬軍を撤退させることとします。
そこで、伊達政宗は、天正17年(1589年)5月18日に本宮城から一旦軍を北に進めて金山城に入り、同年5月19日に駒ヶ嶺城、同年5月20日に蓑首城を立て続けに攻略します。
自領を攻略されて田村領侵攻どころでなくなった相馬義胤は、田村領から撤退します。
こうして、相馬軍が自領に戻ったため、相馬軍の蘆名方への参戦を防止し、また田村家に対する義理を果たした伊達政宗は、戦後処理を亘理重宗に任せ、再度蘆名領への侵攻を進めるため本宮城に戻ります。
猪苗代盛国調略(1589年6月1日)
本宮城に戻った伊達政宗は、隣接する猪苗代城に圧力をかけ、天正17年(1589年)6月1日、今まで態度を明確にしていなかった猪苗代城主・猪苗代盛国を調略し、亀丸を人質に差し出させる形で伊達政宗に恭順させます。
この結果、黒川城の支城であった猪苗代城は蘆名家の本拠地である黒川城と約20kmしか離れていないため、1日で伊達軍が黒川城に迫ることが出来る距離まで到達したのです。
猪苗代城を得た伊達政宗は、会津・黒川城攻めの機が熟したと判断し、天正17年(1589年)6月4日、雨中の夜間行軍まで強行して猪苗代城に入り、また全軍を猪苗代城に集めます。
その上で、米沢城に残してきた原田宗時に命じて別働隊を出させ、米沢街道沿いに南下させて、大塩城を突破して北側から黒川城に迫らせます(もっとも、蘆名方の菅原城に進軍を阻まれています。)。
これにより、北(原田宗時軍)と東(伊達政宗本軍)の二方面から迫られることとなった蘆名軍は、二階堂ら諸氏の軍が合流して2万近くに増大して小倉城まで進出していたものの、やむなく本拠地・黒川城に撤退して体制を整えることとします。
摺上原の戦い
摺上原の戦いの布陣
黒川城に戻った蘆名義広は、天正17年(1589年)6月5日未明、猪苗代城を奪還すべく、佐竹家・二階堂家からの援軍を得て1万6000人に膨れ上がった軍を率いて黒川城を出立します。
そして、蘆名義広は、猪苗代城の約2里に位置する高森山まで進んで魚鱗の陣を敷いって伊達軍を待ち構え、さらに猪苗代城にいる伊達政宗を挑発するために猪苗代湖畔の民家に放火します。このときの蘆名軍の第1陣は富田将監・猪苗代盛胤、第2陣は金上盛備・佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、第3陣は富田氏実と佐竹家の援軍、第4陣は岩城・二階堂・石川・富田隆実らでした。
蘆名軍の動きを見た伊達政宗は,蘆名軍と雌雄を決するため、2万3000人の兵を率いて猪苗代城から出陣し、猪苗代湖北側にある磐梯山麓の摺上原に向かい、摺上原北東の八ヶ森に魚鱗の陣を敷きます。なお伊達軍の第1陣は猪苗代盛国、第2陣は伊達成実・片倉景綱、第3陣は片平親綱・後藤信康・石母田景頼、第4陣は屋代景頼、白石宗実、浜田景隆、鬼庭綱元らでした。
こうして高森山を中心として魚鱗の陣を敷く蘆名軍1万6000人と、八ヶ森を中心として魚鱗の陣を敷く伊達軍2万3000人とが広く緩やかな平地である丘陵地帯である摺上原を挟んで対峙することとなります。
摺上原の戦い開戦(1589年6月5日早朝)
天正17年(1589年)6月5日早朝、伊達軍の先陣を務める猪苗代盛国が、蘆名軍の富田将監を攻撃することで摺上原の戦いが始まります。
開戦当初は、西から東に向かって強風が吹いていたため、東に陣取る伊達兵は前から吹き付ける砂塵によってまともに目を開けていられない状態となって苦戦したため、追い風を受けた蘆名軍が戦いを有利に進めます。
ところが、蘆名軍の第3陣の富田隊や、松本・平田ら重臣衆、援軍による後詰め諸隊は動かずに傍観を決め込んでいたため、蘆名軍は伊達軍を打ち負かすことができずにいました。
そうこうしている間にいたずらに時間が経過し、同日午後になると、風向きが東から西に変わったため戦局が一変します。
蘆名軍総崩れ(1589年6月5日午後3時)
追い風を受けた伊達軍は、伊達成実隊が磐梯山麓を迂回して蘆名義広の本陣がある七ヶ森・不動山方面を側面攻撃したため、蘆名軍の前線部隊で後陣に裏切りが発生したとの憶測が広がり大混乱に陥ります。
こうなると、諸氏連合の寄せ集めであった蘆名軍は戦線を維持できず、それぞれが独断で撤退を開始します。
天正17年(1589年)6月5日午後3時ころには、富田隊に続いて二階堂隊、石川隊も撤退しはじめたところで蘆名軍は総崩れとなり、蘆名義広も黒川城に撤退することを決めます。
摺上原から黒川城に撤退するためには、日橋川を渡る必要があり、蘆名義広・富田氏実らが日橋川を渡り終えると、蘆名軍は日橋川にかかる橋を落としてしまいます。
その結果、遅れた蘆名軍は撤退することができず、日橋川付近で1800人とも言われる蘆名兵が伊達軍に討ち取られます(奥羽永慶軍記)。
摺上原の戦い後
蘆名家滅亡(1589年6月10日)
なんとか黒川城まで逃れた蘆名義広でしたが、摺上原の戦いで蘆名家の重臣であった金上盛備、佐瀬種常・常雄らが戦死し、また5000人を超える戦死者を出したため、黒川城を守るための戦力を確保できませんでした。
そこで、蘆名義広は、天正17年(1589年)6月10日、本拠地・黒川城を放棄して、常陸の父のもとに逃走します。
この蘆名義広の逃亡により戦国大名・蘆名家は滅亡を迎えます。
伊達家による南奥羽平定
他方、摺上原の戦いに勝利した伊達政宗は、天正17年(1589年)6月6日に塩川に至り、翌同年6月7日に菅原城を落とした原田宗時率いる別働隊と合流して周辺を制圧します。
その上で、同年6月11日、伊達政宗は、蘆名義広に代わって黒川城に入城します。
伊達政宗が黒川城に入った結果、蘆名家の旧臣であった富田氏実、長沼盛秀、伊東盛恒、松本源兵衛、横沢彦三郎、慶徳善五郎らが伊達家政宗に恭順を誓うこととなり、会津の大半が伊達家に下ります。
なお、このとき伊達家に下ることを良しとしなかった奥会津の中丸城主・山内氏勝、久川城主・河原田盛次らは、その後も抵抗を続け、また石川・二階堂など親蘆名家の豪族も伊達家に抵抗したため、これらが全てが平定されるのは年末まで要することとなりました(須賀川城の戦い)。
そして、これらの勢力を滅ぼした伊達政宗は、南奥羽を完全平定するに至ります。
旧蘆名領の没収(1590年)
伊達政宗と蘆名家との戦い(摺上原の戦い)は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発令した「惣無事令」を無視する行動であったため、豊臣秀吉から伊達政宗に対して問責の使者が派遣されます。
また、豊臣秀吉は、上杉家・佐竹家に伊達政宗討伐を命じたため焦った伊達政宗は弁明をしますが、豊臣秀吉はこれを認めませんでした。
その後、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して伊達政宗が豊臣秀吉の下に参陣したため豊臣家による伊達家攻撃は回避されたものの、伊達政宗が摺上原の勝利で得た旧蘆名領は全て豊臣秀吉に没収されてしまいました。