刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、 寛仁3年(1019年 )3月27日から4月13日までなされた女真族による壱岐・対馬・九州襲撃事件です。
1019年に起こった、10(と)1(い)の九州(9)襲撃として、日本史上、最も覚えやすい語呂合わせの年に発生し、記録されただけでも死者365人・拉致被害者1289人・牛馬被害380匹・家屋45棟以上喪失という甚大な被害を被った一大事件です。
もっとも、刀伊の入寇は、なぜか教科書などではほとんど紹介されておらず、マイナー事件の扱いを受けています。
そこで、本稿では、刀伊の入寇について、事件発生の経緯からその概略を説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
刀伊の入寇に至る経緯
刀伊の入寇以前の東アジアの情勢
刀伊の入寇について知る上で、まずは事件発生当時の東アジアの情勢を確認しておく必要があります。
延喜7年(907年)に中央アジアに巨大勢力を築き、東アジアにまで強い影響力を及ぼしていた唐が滅亡したため、その周辺で中小様々な勢力が勃興するようになります。
このとき、中国では五代十国といわれる戦乱を経て宋が、朝鮮半島では高麗が、満州では遼(契丹族)が、外満州地域では女真(女真族・日本の書物では「刀伊」)が勢力を強めていきました。
なお、刀伊(とい)とは、高麗語で高麗以東の夷狄である東夷(とうい)を指すtoiに、日本の文字である「刀伊」を当てたと考えられています。
女真族による日本沿岸での海賊行為
元々、外満州地域に部族ごとに分かれて居住していた女真族は、満州地域を領していた渤海を通じて唐などと交易するなどして生計を立てていたのですが、契丹族によって926年に渤海が滅ぼされると(985年には渤海遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も滅亡しています)、女真族の交易ルートが遮断されその生活が苦しくなります。
その後、正暦2年(991年)に契丹族が鴨緑江流域に三柵を設置することにより女真族の西方交易ルートを完全に閉ざしてしまったことにより女真族の困窮に拍車をかけます。
交易ルートが途絶えて生活に困った女真族は、寛弘2年(1005年)ころから高麗沿岸部での海賊行動を行うようになります。
もっとも、女真族が本拠地から遠く離れた日本近海で海賊行為を行っていたとされる記録はほとんどなく、朝廷において何らかの対策が講じられることもありませんでした。
平安時代の外国勢力による日本侵攻
次に、刀伊の入寇発生当時の日本の情勢を確認します。
平安時代には、以下のような朝鮮半島諸国(新羅・高麗など)による海賊行為・侵略行為が繰り返し起こっていたのですが、平安時代に遣唐使が廃止されて以降は日本と外国との交流がほぼ途絶えていたため、度々襲ってくる外国勢力がどこであり、どのような状況にあるのか全くわかっていない状況が続いていました。
①弘仁の新羅の賊:弘仁2年(811年)12月6日
②貞観の入寇:貞観11年(869年)6月
③ 寛平の韓寇:寛平5年(893年)
④ 延喜の新羅の賊:延喜6年(906年)7月13日
⑤ 長徳の入寇:長徳3年(997年)
ところが、朝廷は、このような状況下であったにもかかわらず、外国勢力による海賊行為の被害が中央に波及していなかったこともあって何らの対応もとっていませんでした。
藤原隆家が大宰府へ
藤原家による摂関政治が全盛期を迎えていた長和元年(1012年)末頃、藤原道長の甥であり、一条天皇の中宮・定子の兄弟でもあった中関白家出身の公卿・藤原隆家が、先の尖った物による外傷を原因とした眼病を患います(御堂関白記によると「突目」)。なお、藤原隆家の姉妹であった定子に清少納言が仕えていたことから、藤原隆家は枕草子にも度々登場しています。
眼病によって出仕や交際もできず邸宅に籠居するようになっていた藤原隆家は、大宰府に眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞きつけて大宰権帥への任官を望むようになったことから話が動き始めます。
藤原隆家の大宰権帥への任官希望については藤原道長が異論を唱えたのですが、長和3年(1014年)11月、同じ眼病に悩む三条天皇の配慮により藤原隆家が大宰権帥に任ぜられ、大宰府に赴任することとなります。
大宰府に赴任した藤原隆家は、平安貴族に似つかわしくない荒くれ者として知られており(天下のさがな者と呼ばれていました。)、赴任先の大宰府において善政を敷いたり、ときには武力を行使したりするなどして九州の在地勢力を次々と心酔させていきました。
こうして、藤原隆家が大宰府にて執務を行っていたなかで、生活に困窮した女真族によって引き起こされたのが刀伊の入寇です。
刀伊の入寇
対馬襲撃(1019年3月27日)
寛仁3年(1019年)3月ころ、いつものように高麗周辺で海賊行為を行っていた女真族でしたが、このときはさらに南下を続け、同年3月27日、対馬に来襲します。
なお、このときの女真族の規模は約50隻の船団に分乗した約3000人の兵であったのですが、日本側で襲来の主体が女真族(刀伊)と判断出来ていたかについては不明であり、おそらく襲撃の主体がそれまで海賊行為を繰り返していた高麗であると考えていた可能性が高いと推測されます。
対馬に上陸した女真族は、対馬島内で略奪・殺人・放火などを繰り返し、36人を殺害、346人(男102人・女子供244人)を拉致し、対馬銀山を焼失させる被害を及ぼします。
なお、国司であった対馬守遠晴は脱出に成功し大宰府に逃れてその惨劇の報告をしています。
壱岐襲撃
対馬を荒らし尽くした女真族は、続けて壱岐に来襲します。
海賊来襲の報を受けた国司である壱岐守藤原理忠が、すぐさま147人の兵を率いてその討伐に向かったのですが多勢に無勢で勝負にならずに殲滅され、指揮官である壱岐守藤原理忠も討ち打ち取られてしまいます。
防衛隊を蹴散らした女真族は、続けて防衛拠点となりうる壱岐嶋分寺に向かいます。
襲撃を受けた嶋分寺は、総括責任者であった常覚の指揮の下で応戦し、攻撃を3度撃退したのですがついに陥落し、常覚のみ1人で島を脱出して大宰府に報告しに向かい、寺に篭っていた僧侶は皆殺しにされます。
以上の結果、防衛隊を殲滅した女真族は、壱岐島内で略奪・殺人・放火などを繰り返し、148人(僧侶16人・男44人・女59人・子供29人)を殺害、女性239人を拉致します。
このときの襲撃での壱岐での生存者はわずか35人(諸司9人・郡司7人・百姓19人)であったと言われています。
博多襲撃(1019年4月9日)
対馬に続いて壱岐をも荒らし尽くした女真族はさらに南下し、寛仁3年(1019年)4月7日には九州に上陸して筑前国怡土郡→志摩郡→早良郡を、同年4月8日に能古島を襲撃します。なお、このとき大宰権帥であった藤原隆家は、同年4月7日及び同年4月8日の二度に亘り、外敵によって九州が攻撃されている旨の報告書を朝廷に送っています(なお、この報が京に届いたのは同年4月17日であり、翌同年4月18日には恩賞を約した勅符が発給されたのですがその時点では既に女真族が日本を離れた後でした。)。
そして、その後、女真族は、同年4月9日に那珂郡の博多に上陸します。
もっとも、博多は付近一帯の要衝地として強力な防衛施設(博多警固所)が置かれており、またその背後には大宰府が存在しています。
そのため、女真族がそれまで襲ってきた場所とは防御力が違います。
女真族は、それまでと同様にまずは防衛施設を破壊しようと博多警固所に押し寄せたのですが、藤原隆家が大宰大監・大蔵種材ら九州勢を指揮してこれに応戦しこれを撃退します。なお、九州の武士だけでなく大宰府の文官も武器を持って戦ったとの記録もあり(大鏡)、日本側も総力戦であったことがうかがわれます。
松浦郡襲撃(1019年4月13日)
博多上陸に失敗した女真族は、来たルートを引き返し、能古島・早良郡を経て、寛仁3年(1019年)4月13日に肥前国松浦郡を襲撃します。
もっとも、松浦郡に上陸した女真族は、松浦党の祖と言われる前肥前介源知によって撃退されます。
なお、源知は、このときの戦いで多くの女真族を射殺し、一人を生け捕りにしたと記録されています(小右記)。
刀伊の入寇の後
帰路で高麗沿岸襲撃
松浦郡の襲撃に失敗した女真族は、日本から撤退することとしたのですが、本拠地に戻る途中で朝鮮半島に立ち寄り、高麗沿岸にて同様の海賊行為を行います。
後に高麗から日本に帰国した女性である内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書によると、女真族は、毎日未明に高麗沿岸に上陸して略奪を行い、住民を捕えては強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたと記録されていたそうです(小右記)。
もっとも、女真族は、その後、賊徒征伐のために編成されて現場に赴いた高麗水軍に撃退されます。
このとき、高麗水軍によって女真族に拉致された日本人約300人が解放され、高麗によって保護されます。
論功行賞
寛仁3年(1019年)6月29日、朝廷において女真族撃退(刀伊の入寇)についての論功行賞を決める陣定が行われたのですが、ここで藤原行成や藤原公任が、恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、女真族と戦った者たちに対する恩賞は不要であるとの意見を述べます。
勝手に戦ったのだから恩賞を与える必要はないという驚きの発言です。
この発言に対し、藤原実資が猛反論をします。
恩賞が約された勅符が出された後か否かで恩賞の有無が変わるのであれば、今後外敵が侵攻してきた場合に日本のために戦う者などいなくなってしまうからです。
この藤原実資の反論により、朝廷は、しぶしぶながら功があった者に対して恩賞を与えることとしています(大蔵種材の壱岐守叙任など)。
襲撃者判明
女真族に捉えられた後に脱走し高麗で情報収集に当たっていた対馬判官代である長嶺諸近が、襲撃者が女真族であったこと、女真族が高麗水軍に撃退されたこと、高麗が日本人捕虜300人を救出したこと、長嶺諸近の家族の多くが殺害されていたことなどの情報を得た後に帰国します。
そして、寛仁3年(1019年)7月7日、帰国した長嶺諸近が、襲撃者が女真族であったことを報告します。
また、同年9月、高麗から高麗虜人送使である鄭子良に連れられた日本人捕虜259名が送還されたのですが、これらの捕虜からも襲撃者が女真族であったことが明らかにされました。
なお、捕虜を受け取った藤原隆家は、使者を務めた鄭子良に対し、感謝の意をこめて朝廷の返牒を遣わし、また禄物黄金300両を与えるなどしています。そして、鄭子良は寛仁4年(1020年)2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を受け取って高麗に帰国しています。
その後
刀伊の入寇が女真族によるものであると判明し、高麗が捕えられた日本人捕虜の返還をしてくれたものの、朝廷としては高麗を元敵国である新羅の延長との考えを改めることらありませんでした。
また、女真族撃退に大功を挙げた藤原隆家は、寛仁3年(1019年)12月、大宰権帥を辞して帰京します(後任は藤原行成)。
朝廷内では大功を挙げた藤原隆家を大臣・大納言に推す声が出たのですが、藤原隆家が内裏への出仕を控えていたため昇進が実現することはありませんでした。
そればかりか、翌寛仁4年(1020年)に都に疱瘡が大流行すると、女真族大陸から持ち込んだものが藤原隆家に取り憑いて京に及んだものと噂される有様でした。