後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期に陸奥・出羽(東北地方)を治めていた清原氏の家督を巡って勃発した一連の壮大な内紛(兄弟喧嘩)です。後三年合戦ともいいます。
前九年の役の後に奥羽一帯を支配した清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもあり、源義家が源氏の名声を高めて後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となった合戦ともいわれています(余談ですが、永保3年/1083年から寛治元年/1087年にかけての4年間の戦役であったにもかかわらず、後「三年」という謎のネーミングがなされています。)。
本稿では、この後三年の役について、その発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。
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後三年の役に至る経緯
前九年の役(1051年~1062年)
現在の東北地方は、元々「蝦夷」として「えみし」や「えぞ」と呼ばれる朝廷権力の及ばない土地でしたが、延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の地で蝦夷の指導者であった阿弖利為(あてるい)とその副官であった母禮(もれ)を下したことにより、朝廷権力が東北地方にも及んでいくこととなります。
このとき朝廷が獲得した領土は、陸奥国奥六郡(岩手郡・志波郡・稗貫郡・和賀郡・江刺郡・胆沢郡)を中心とし、さらに出羽国山北三郡(山本郡・平鹿郡・雄勝郡)にもその勢力を及ぼします。
そして、このとき朝廷に下った蝦夷達は、俘囚(ふしゅう)や夷俘(いふ)とか呼ばれ、陸奥国奥六郡には安倍氏が、出羽国山北三郡には清原氏がまとめ役に任じられました【上図の青字が朝廷、赤字が安倍氏、黒字が清原氏の勢力です。】)。
以降、安倍氏や清原氏は、朝廷へ貢租を行うことにより俘囚としての存続を許されるという状態に陥となったのですが、11世紀半ば頃になると、陸奥国奥六郡を治める安倍氏の勢力が大きくなり、各地に柵(城砦)を築いて半独立化していき、1040年頃の安倍頼良の代になると、朝廷への貢租さえも怠るようになります(陸奥話記)。
ここで、安倍氏を捨て置けなくなった朝廷が、源頼義を派遣してその討伐を進め、出羽国山北三郡を治める清原氏の協力の下で合計12年もの長い時間をかけて何とか安倍氏を滅亡させるに至ります(前九年の役)。
清原氏が奥州の覇者となる
安倍氏を滅ぼした戦功によって、出羽国山北三郡を治める清原武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任された上で奥六郡までも与えらた結果として前九年の役は、清原氏の独り勝ちという結果で終わり、清原氏が奥州・羽州の覇者となります。
この後、清原武則は、陸奥国・奥六郡を円滑に治めるため、藤原経清の妻であった安倍頼時の息女(有加一乃末陪)を息子の清原武貞に再嫁させ、藤原経清の遺児(後の藤原清衡)を清原武貞の養子とすることにして清原氏で引き取ります。なお、この時すでに清原武貞には清原真衡という子がいました。
その後、清原氏の家督は、清原武則から清原武貞に受け継がれ、清原武貞と安倍頼時の息女(有加一乃末陪)との間に清原家衡が生れます。
これにより、清原氏の棟梁である清原武貞には、清原真衡・その母違いの子清原家衡・養子である清原清衡という3人の子が出来たこととなったのですが、清原真衡と清原家衡・清原秀衡との仲はとても悪く、紛争の火種が大きくなっていきます。
清原真衡への家督相続
その後、清原氏の家督は、清原武貞から清原真衡に引き継がれたのですが、清原真衡には男子が生まれなかったため、海道小太郎という人物を養子に迎えて清原成衡と名乗らせます。
その上で、清原真衡は、嫡子とした清原成衡の妻に源頼義が遊女又は平国香流の平宗基という人物の娘生ませたともいわれる娘(出羽守となった源義家の異母妹)を迎えて源氏との結びつきを強め、清原氏の家格を高めていきます。
ところが、この結婚に起因して、清原氏を揺るがす一大事件が起こります。
後三年の役(1083年~1087年)
清原真衡と清原清衡・家衡との兄弟喧嘩
この清原成衡と源頼義の娘との婚礼に際して、訪れた清原真衡の叔父である吉彦秀武が祝いのために朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げて清原真衡の下を訪れたのですが、このとき清原真衡が碁に夢中になって吉彦秀武を無視し続けたのです。
この清原真衡の態度に面目を潰された吉彦秀武は怒り、砂金を庭にぶちまけて本拠地である出羽に帰ってしまいます。
ところが、この吉彦秀武の対応を聞いた清原真衡は逆ギレし、吉彦秀武討伐軍を編成します。
兵力に劣るため敗北必至となった吉彦秀武は、清原真衡と不仲であった清原家衡と清原清衡に密使を送って協力を求めたことから、清原氏を二分する大事件に発展しました。
吉彦秀武からの要請に清原家衡と清原清衡が呼応し、吉彦秀武討伐のために手薄となった清原真衡の本拠地を攻略するため、白鳥村を焼き払った上で、清原真衡の館に迫ります。
もっとも、本拠地が攻められていると聞いた清原真衡が急いで引き返したため、清原家衡と清原清衡もすぐに撤退します。
清原真衡の急死(1083年)
清原家衡と清原清衡を退けた清原真衡は、再び吉彦秀武を討つために出撃準備を始めたのですが、永保3年(1083年)秋、この清原氏の内紛に陸奥守を拝命して陸奥国に入った源義家(清原真衡の義理の子・清原成衡の義兄)が介入してきます。
清原真衡は、国府多賀城に赴いて、陸奥国に入った源義家を三日間に渡って歓待した後、再び出羽に出撃しますたのですが、清原真衡が出撃したタイミングを見計らって、またも清原家衡と清原清衡が再び清原真衡の本拠地を攻撃します。
ところが、今回は国府側の源義家が清原真衡に加勢したため、清原清衡と清原家衡は大敗を喫して源義家に降伏します。
こうして、清原氏の内紛は清原真衡により制圧されるかに思われたのですが、事態が急転します。出羽に向かっていた清原真衡が、その途中で病のために急死してしまったのです。
清原清衡と清原家衡との兄弟喧嘩
当主・清原真衡が死亡したことにより清原氏の内紛は強制終了となり、清原氏の家督相続が行われることになりました。
ここで、源義家がこの清原氏の家督相続にも介入したため、さらに話がややこしくなります。
清原氏の家督は、嫡子となった清原成衡が継ぐはずだったのですがその動向は不明となり、源義家が清原真衡の所領であった奥六郡について3郡ずつ清原清衡と清原家衡に分与するという決定を下します。
このときの分与決定は、清原清衡に和賀郡・江刺郡・胆沢郡が、清原家衡に岩手郡・紫波郡・稗貫郡が与えられたのではないかと考えていますが、いまだ確証はありません。
ところが清原家衡は、自分こそが安倍家・清原家双方の血を継ぐ正統な後継者であるとして、裏切者の子である異父兄である藤原清衡と相続を分け合うこととした源義家の裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清原清衡の館を攻撃してその妻子眷族を皆殺しにしてしまいました。
このとき、清原清衡は、妻子一族の全てを殺されながら自身は何とか生き延び、陸奥国府まで源義家を頼って逃れたため、源義家は、自身の決定を反故にした清原家衡を討つため、清原清衡に味方することとなります。清原氏を二分する新たな戦いの始まりです。
沼柵攻略戦
清原清衡と源義家は、沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった清原家衡を攻撃したのですが、季節が冬であったこと、城に籠った清原家衡の準備が充分であったことなどから柵を攻略できずに敗れます。
このとき、清原家衡勝利の報を聞いた清原武衡(清原武貞の弟)が家衡のもとに駆けつけ戦勝祝いをしたのですが、再び清原清衡と源義家が進行してくることに備えて、沼柵から難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めます。
この勧めを受けて、清原家衡は、本拠地を金沢柵に移します。
金沢柵攻略戦(1087年)
体制を立て直した清原清衡と源義家は、寛治元年(1087年)、金沢柵に籠った清原家衡・清原武衡軍が籠る金沢柵に向かいます。なお、源義家は、金沢柵に向かう途中で、西沼にあった丘(横手市金沢中野、後にこの丘は立馬郊と呼ばれます。)を通過しようとした際に上空を見たところ、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいたのを発見し、かつて大江匡房から教わった孫子の兵法を思い出して清原軍の伏兵ありと察知しこれを殲滅したとの逸話が残されています。
金沢柵に辿り着いた源義家は、直ちに柵に攻撃を仕掛けます。
この攻撃に際し、源義家は、剛の座・臆の座(剛臆の座)を設けて指揮を鼓舞するなどし、また源義光の郎党藤原季方などの活躍が見られました。
ところが、金沢柵は、当時最高レベルの防衛力を擁する難攻不落の要塞であったため、源義家軍は、なかなかこれを陥落させることができませんでした。なお、このとき源義家が攻略に苦慮していたことを知ったその弟である源義光が、京の官職を辞して来援したため、源義家は軍を立て直して源義光を副将軍としています。
力攻めでの金沢柵攻略が困難と判断した源義家は、吉彦秀武の提案を採用し、兵糧攻めに切り替えます。
そして、金沢柵を包囲したまま冬となり、飢餓に苦しむ女子供が金沢柵から投降してくるようになります。
ところが、源義家は、金沢柵内の兵糧を早く消費させるために、投降者を見せしめのために皆殺しにして投降者を封じます。
この結果、投降者も出なくなり、金沢柵の兵糧が底をつきます。
後がなくなった清原家衡と清原武衡は、金沢柵に火を付けて逃亡したため、金沢柵は陥落します。
清原氏滅亡
金沢柵から逃れた清原武衡は、近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首されます。
また、清原家衡は、下人に身をやつして逃亡を図ったものの見つかり討ち取られ、清原家衡の死亡により、奥羽に覇をとなえた清原氏が滅亡します。
後三年の役の後
源義家の苦悩
金沢柵を攻略して清原氏を滅亡させた源義家は、朝廷に対して勧賞を求めます。
自らの下で働いた部下にも恩賞を与えなければならなかったからです。
ところが、朝廷は、清原氏との戦い(後三年の役)は、源義家の私戦であるために、朝廷からの勧賞はないとし、そればかりか戦費の支払いすらしないとの回答をします。
その上で、朝廷は、源義家の陸奥守を解任し、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給したとして官物未納を咎めます(源義家は新たな官職に就くことも出来す、10年後の承徳2年/1098年に白河法皇の意向で受領功過定が下りるまでその未納を請求され続けました。)。
以上の結果、源義家は、主に関東から出征してきた武士達に私財から恩賞を出さざるをえなくなります。
以上から結論だけ見ると、後三年の役は源義家がしてやられただけの合戦といえますが、このときの源義家の私財供出が、関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれています。
藤原清衡が陸奥国奥六郡を獲得する
後三年の役は清原氏の内紛とそれに介入した源義家の私闘に過ぎないとされたため、源義家だけでなく、当然清原清衡には官位の賞与もありませんでした。
もっとも、清原清衡は、養子とはいえ清原家一族最後の残存者となったため、清原家の所領奥六郡を領することとなりました。清原清衡32歳のときでした。
ここで、清原清衡は、清原姓から実父の姓である藤原姓に復して奥州藤原氏の祖となり100年の繁栄の始まりを迎えます。
藤原清衡の躍進
源義家と共に戦ったことにより中央の朝廷の力を思い知らされた藤原清衡は、寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命されるなどその地位の向上に尽力し、また寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬するなどして積極的に京の公家たちと交誼を深めて地位の向上に尽力します。
また、本拠地を江刺郡豊田館に構え、勢力の拡大を図ります。
そして、藤原清衡は、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館から、磐井郡平泉に居を移して政治文化の中心都市の建設に着手し、宋から一切経の輸入も行うなど北方貿易を進めるなどして奥州藤原氏4代(藤原清衡・藤原基衡・藤原秀衡・藤原泰衡)100年の栄華の基礎を築いていきます。