五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制時代の日本において、政治の中心地であった都城及びその周辺地域から地方に向かって放射線状に伸びていた道と、そこから派生してその道を含む各国の地方行政区画を指す言葉です。
飛鳥時代の後期から奈良時代の初期頃の天武天皇・持統天皇治世期に、天皇を中心とする中央集権的国家体制確立を目指す律令制度整備の一環として配されました。
日本全国を国に分け、都(難波宮、平城宮、平安宮)周辺を五畿(畿内)、それ以外の地域を七道のいずれかに配置して区分され、後の様々な制度の基礎となっています。
そして、この行政区画としての五畿七道は、江戸時代になっても変更がなされることはなく、その後現在に至る日本各地の地方名の由来となっています。
【目次(タップ可)】
道路としての七道
律令国家の地方統治構造
律令制度が成立する前のヤマト政権は、軍事力を基に豪族を支配する軍事政権であり、その支配構造は地方を支配する豪族を国造に任命し、この国造を通じて地方に中央の支配力を及ぼすというものでした。
すなわち、この頃までは、地方の土地やそこに住む人を支配していたのは地方豪族(国造)であり、いわゆる私地私民制度でした。
この状況下では、大王(天皇)は、地方豪族の顔色を伺いながらでなければ政策決定も軍の動員も出来ませんでした。
そこで、大王家としては、こうした状況を打破するため、中央集権化を志向していきます。
まず、乙巳の変で蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子が、大化2年(646年)に都周辺地域を五畿(畿内)とし、特別行政地域として扱います。
また、各国については、国造による支配構造を廃し、国・郡・里に整備し直して、そこに中央から官人としての国司を派遣してこれを治めさせることとします。
中央から派遣された国司は、国府(現在でいう県庁所在地)に置かれた国衙(現在でいう県庁のイメージ)で勤務し、在地支配者である郡司(在地豪族)・里長(在地首長)を指揮監督するという構造です。
これにより、中央政府(朝廷)が、地方の土地・住民までもその支配下に置くこととなり、いわゆる公地公民制が成立することとなりました。
中央と地方との情報伝達のための七道設置
中央が国司を統制するためには、中央と地方に派遣した国司との意思疎通が極めて重要となります。
情報のやり取りなしに指揮監督などできるはずがありません。
電話やメールなどの科学技術のない時代の情報伝達手段は使者か手紙に限られますので、中央(都を含めた五畿)と地方とを結ぶ情報伝達を出来るだけ迅速・正確・大量に行うことができるよう、そのルートとして日本全国を中央まで繋ぐために整備されることとなったのが道路としての七道です。また、これに合わせて幹線官道も整備されました。
この七道において馬を走らせることにより、中央から国司への命令伝達及び地方からの状況報告をすることとされたのです。
これにより、地方の情報が国司から中央に届けられて集積され、それに基づいてなされた決定が命令の形で国司を通じて地方に届けられる(その後、郡家内を伝馬制にて伝播される)という制度が出来上がりました。
中央と地方との情報やり取りのためのインフラですので(現在でいう電線のようなイメージ)、七道は、都及び畿内から各国に向かって放射状に直線的に設置されました。
七道の整備・運用
道路としての七道は、中央と各国とを結ぶ情報伝達を目的とする道路網であるところ、出来る限り迅速な伝達のため駅使が馬に乗り継いで道を進み文書連絡を運ぶという体制がとられました。
この駅使が通行する官道としての七道を、駅路(七道駅路)とも呼んだのですが、長距離を移動することとなりますので、途中に原則として30里(約16km)毎に馬の交換・宿泊・休憩・食事などをするために駅(駅家)と呼ばれる施設が置かれました。
駅家には、七道の重要性に応じて大路(駅家ごとに20疋)・中路(駅家ごとに10疋)・小路(駅家ごとに5疋)に分けられて当該数の乗り継ぎ用の駅馬が常備されました。なお、大路は山陽道のみ、中路は東海道・東山道、小路は北陸道・山陰道・南海道・西海道とされていました。
そして、駅周辺には、駅を管理する駅長の下で、案内の駅子・乗り継ぎの駅馬の差配などが行われ、駅戸による駅馬の育養などもなされました。
これらの制度を駅制といい、この制度により、中央→地方、地方→中央の各の文書連絡が迅速に伝えられたのです。
なお、余談ですが、中央から地方に対する行政文書の伝達のうち、日常報告的なものについては、道単位を通行する各国を順番に転送されて届けられることを基本としていました(この点については、中央から各州に直送されていた唐の制度とは相違点があります。)。
また、これらの制度は中央政府の地方支配のためのものですので、駅制・伝馬制を使用できるのは官人だけであり、一般人が使用することはできませんでした。
各国に伝えられた情報の国内伝播
また、駅制によって中央からの命令が七道を通って地方国衙に伝えられると、各国内においては伝馬制により国・郡・里へと情報が伝達されていきました。
なお、道・国・郡・里のイメージとしては、現在の行政区画に当てはまるとわかりやすいため誤りを恐れず言うと、道=地方・国=都道府県・郡=市区・里=町村と考えるとわかりやすいと思います。
異質の存在であった西街道
他方、七道とは言っても、五畿から出ている道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道の6本であり、西海道は畿内とは直接接続しておらず、山陽道を通じて間接的に畿内と接続していました。
これは、単純に畿内からの距離が遠いと言う理由もあったのですが、距離的問題だけであれば東山道の先端である出羽や陸奥なども変わりはないことから、むしろ大陸との外交・防衛上の重要性から特別扱いをしていたのです。
すなわち、大陸の脅威にさらされる西海道には、中央政府の命令なしに機動的に動ける必要性が求められますので、中央から独立した統轄機関である大宰府が置かれました(遠の朝廷)。他方、外圧の可能性がほぼ存在しない西海道以外の六道では、道単位の行政機関は常置されていません。
そして、西海道各国では、行政・財政上の報告書(正税帳・調帳・朝集帳・大帳)について、中央の監査を受けることなく大宰府で監査され、上申書(府の解)を添えて中央に送られる扱いとなっていました。
また、他の諸道では国から直接都に送られるようになっていた調・庸も、西海道では一旦全て大宰府に納められ、その一部が京進される扱いとなっていました。
さらに、大宰府に、西海道各国の掾以下の国司および郡司の詮擬権(仮任命権)が認められるなど、他の諸道に比して強い独立性を保持していました。
行政区画としての七道
前記のとおり、七道は、畿内から放射状に伸びる道を意味していたのですが、ヤマト政権の地方政策が道を単位として実施されることが多かったことから、そこから転じてそのルートに所属する国の国府を順に結ぶ行政区画の名称ともなりました。
なお、行政区画としての文言の成立時期は明らかではないのですが、天武天皇治世頃には既に行政単位としていることが明らかとなっており、その名称も中国で用いられていた行政区分に倣って「道」名付けられていました。
以上結果、律令国家としての当時の日本が、道路としての七道の区分に応じて、以下のとおりの五畿と七道という行政区画に分類されることとなりました(なお、この時点では北海道は日本に含まれていません。)。
五畿(畿内)
五畿とは、大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の五国をいいます。
五畿は、天皇の側近地という理由で七道と比べて優遇され、大宝令の規定では人民の租税のうち調の半分と歳役(庸)の全部が免除されると定められていました。
七道
七道とは、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の七つの地域を言います。
もっとも、西海道の大宰府を除いた6道には独立した行政府が置かれていませんので、国の集合地域区分という位置づけに過ぎませんでした。
①東海道:伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
②東山道:近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽
③北陸道:若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
④山陽道:播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
⑤山陰道:丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐
⑥南海道:紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
⑦西海道:筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬
五畿八道
駅伝制衰退
10世紀になって天皇の力が弱まって公地公民制度が形骸化していくと、中央による地方支配も形骸化していき、道としての七道とそこを行く古代伝馬制は廃れていきます。
もっとも、地方行政区画としてのとしての五畿七道区分は維持され続けます。
江戸幕府による街道整備
その後、中世に至ると、力を失った朝廷(天皇)に代わって 荘園領主や 地頭らが居住地と自領を結ぶ伝馬を置きはじめ、 戦国時代には、 戦国大名らが自領内の街道に宿場を設けて本城と支城などを連絡する伝馬を設置しました。
さらに、近世に入って江戸時代となると、江戸幕府が江戸日本橋を起点とする諸街道を整備し、各宿場に伝馬を常設させます。
江戸幕府が整備した街道は、七道とは目的が異なるものの、その道筋の多くが流用されている上、名称も重複するなどしています。
また、江戸幕府は、行政区画としての五畿七道自体には手を入れませんでしたので、江戸時代においてなお、律令制以降の五畿七道制度とその構成国名に変更はなされませんでした。
五畿八道
そして、明治2年(1869年)8月15日に明治新政府により、新たに和人地及び蝦夷地に北海道が新設されると、それまでの五畿七道に一道追加されて五畿八道と呼ばれるようになりました。
その後、明治4年(1871年)に廃藩置県がなされた以降も五畿八道は廃止されることなく令制国も併用されました。
もっとも、明治18年(1885年)以降、公的に五畿八道という表記が殆ど使用されなったため、以降はほとんど使用されることはなくなってしまいました。