【実は伏見幕府だった徳川幕府の始まり】なぜ徳川家康は豊臣秀吉死後に伏見に残ったのか

徳川家康は、三河国衆からのし上がり国替で関東に移された後は江戸に本拠地を置いたことから、その主たる所在地ご東海地方や江戸であったというイメージが強いと思います。

このことは概ね間違ってはいないのですが、江戸幕府の創成期に限って言えば誤りです。

徳川家康は、文禄3年(1594年)9月から慶長5年(1600年)末までの間で2304日中1546日間、また関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの間で2185日中1240日間も伏見に滞在しています。

そのため、徳川家康は、征夷大将軍任命に至る前からその在職期間に至るまで、多くの期間を伏見城に在城して執務しています。

また、江戸幕府初代である徳川家康、2代徳川秀忠、3代徳川家光と3代続けて伏見城で将軍宣下を受け、後に御三家となった9男・徳川義直(後の尾張藩祖) 、10男・徳川頼宣(後の紀伊藩祖)11男・徳川頼房(後の水戸藩祖)が伏見の地で育っています。

以上のことから、江戸幕府は伏見で始まったと言っても過言ではありません。

では、なぜ徳川家康は江戸幕府創成期に伏見にいたのでしょうか。

本稿では、徳川家康がなぜ伏見に残ったのかについて簡単に説明したいと思います。

徳川家康が伏見に入るまで

徳川家康の伏見入り(1594年9月)

安土桃山時代に全国統一を果たした豊臣秀吉は、天正19年(1591年)12月に豊臣家の家督と関白職を甥の豊臣秀次に譲り、外形的には隠居状態となります。

そこで、豊臣秀吉は、終の棲家とするため、京と大坂の中間に位置し南には巨椋池が広がる水運要衝地であった伏見に新城の建築を始め、文禄3年(1594年)にまだ未完成であった指月伏見城に入ります。

当時の豊臣政権では、謀反防止策として、天下統一の過程で傘下に下った諸大名に対し、豊臣家居城本拠地の大坂城や、豊臣秀吉が住まう伏見城の城下に屋敷を与え、その妻子を住まわせることを強制しました。

また、豊臣秀吉は、臣下の中での最大勢力を誇る徳川家康に対しては、本人を伏見に住まわせることを強制したのです。

この結果、同年9月頃から、江戸に本拠を置くはずの徳川家当主が伏見で生活するという構造が出来上がりました。

諸大名の取り込み

豊臣秀吉存命中はその力を恐れておとなしくしてきた徳川家康でしたが、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、隠していた天下獲りの野心を見せ始めます。

豊臣秀吉は、自身の死後、伏見城については前田玄以と長束正家を城番とし、徳川家康は伏見の徳川屋敷において政務を執るようにと遺言していたのですが、徳川家康は豊臣秀吉死後に無理矢理伏見城に入り、事実上の同城主となってしまいます。

伏見城を乗っ取った徳川家康は、伏見城から伏見の地を事実上支配し、同地にて豊臣家の人質として同地に暮らす大名との間で婚姻関係を結び、自分に味方する勢力の取り込みを図っていきます。

具体的には、まず、自身の六男である忠輝に伊達政宗の娘を娶らせたのをはじめとして、徳川家康の異母弟久松康元の娘を養女として福島正則の嗣子・忠勝に、また孫娘の婿女を養女として蜂須賀至鎮にそれぞれ嫁がせるなどしました。

他方、徳川家康は、自身に与しない大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていきます。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

その後、徳川家康は、同じく豊臣政権の五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形で臣従を迫りました。

上杉景勝が徳川家康の挑発を跳ねつけたことから、徳川家康が上杉討伐軍を編成して北へ向かったのですが、このタイミングで石田三成が反徳川家康を掲げて挙兵したことから、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まります。

この後、全国各地で局地戦が繰り返され、最終的には慶長5年(1600年)9月15日に行われた本戦で徳川家康が勝利します。

徳川家が最大勢力となる(1600年10月~)

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら西軍に与した大名の処刑を見届けた後、慶長5年(1600年)10月に大坂城に入り、豊臣秀頼・淀殿らを威圧しながら関ヶ原の戦いの論功行賞を進めていきます。

この際、徳川家康は、豊臣秀頼と淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」としてこれを咎めなかったのですが、西軍に与した諸大名のほとんどを処刑・流罪・改易・減封に処した上でこれらの各大名家の領地と、太閤蔵入地(全国に散在する豊臣家の直轄地)を召し上げて東軍諸将に加増分配してしまいました。

また、徳川家康自身の所領も150万石加増されて400万石となり、さらに堺・長崎・生野銀山などが徳川家の直轄領とされるに至りました。

これらの一連の処置により、豊臣家は摂津国・河内国・和泉国の3か国65万石を治めるだけの1大名に成り下がり、他方で、徳川家康は天下人としての立場を確立するに至りました。

伏見の地での徳川家康の活動内容

豊臣家の家格を引き下げる

以上の結果、軍事的には豊臣家を圧倒するに至った徳川家でしたが、外形的に見ると、摂関家である豊臣家と徳川家とでは段違いの身分さがありました。

また、西国大名が新年の挨拶に大坂城に伺候するなどこの時点ではまだ豊臣秀吉の威光が強く残っており、豊臣家が西国を、徳川家が東国を支配するという二重公儀体制が残されていたのです。

そこで、徳川家康は、この家格差を埋めるための朝廷工作を始めていきます。

まず、徳川家康が朝廷に奏上することにより、慶長5年(1600年)12月19日、豊臣秀次が解任されて以来空位となっていた関白職に九条兼孝を就任させて豊臣家による関白職世襲を終了させます。

これにより旧来の五摂家に関白職が戻ることとなり、豊臣家の特別的地位が失われます(もっとも、この時点では、豊臣家は摂家の1つとされおり、豊臣秀頼の関白職就任が否定されたわけではありません。)。

徳川家康の再度伏見入り(1601年3月)

次に、徳川家康自身が、武家の棟梁である征夷大将軍となるために徳川家の系図の改姓を行うと共に、関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日に大坂城・西の丸を出て伏見城に移ります。

なお、徳川家康が伏見に入ったのは、朝廷工作を行うためには、朝廷のある京に近い位置にいる必要があったのですが、この時点では京に拠点を持っていなかった徳川家康にとって、自由に使える拠点の中で最も京に近く朝廷に圧力をかけやすい場所が伏見だったためです。

伏見に入った徳川家康は、その後の慶長7年(1602年)3月7日に10男・徳川頼宣(後の紀伊藩祖)を、その後の慶長8年(1603年)8月10日に11男・徳川頼房(後の水戸藩祖)をそれぞれ儲け、慶長5年11月28日(1601年1月2日)に大坂城西の丸で儲けた9男・徳川義直(後の尾張藩祖)と共に伏見城で育てたことから、伏見の地が後の徳川御三家の始まりの地ともなっています。

伏見銀座設置(1601年5月)

また,徳川家康は、全国に向けて徳川家の絶対的な力とそれに基づく高い信用力を認めさせるため、伏見の地から金・銀・銭を基本とする貨幣制度(三貨制度、西日本では銀貨+銭貨・東日本では金貨+銭貨)の制定を目指します。

そこで、徳川家康は、伏見に入った直後の慶長6年(1601年) 5月に後藤庄右衛門、末吉勘兵衛に伏見4町の屋敷を与えて銀座取立を命じます。

そして、銀座会所・座人屋敷を並べ、大黒常是が鋳を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨を独占鋳造することで江戸時代初の銀座の運用が始まりました。

もっとも、伏見銀座は、慶長13年(1608年)に中京両替町に移されて廃止されています(後に、江戸や大坂などにも銀座が設置されました。)。

東海道の整備(1601年)

また、朝廷制作のために伏見に居を据えた一方で、徳川家の本拠地は江戸にあったため、徳川家康は伏見と江戸を行き来しながら政務を執る必要がありました。

そこで、徳川家康は、伏見に入った慶長6年(1601年)から京(及び伏見)と江戸とを結ぶ主要ルートとなる東海道の整備を始めます。

具体的には、東海道に伝馬の制度を定めて江戸との間の移動・情報伝達を円滑にし、またその道中の近江大津城・伊勢桑名城・三河岡崎城・遠江浜松城・遠江掛川城・駿河府中城(駿府城)・駿河沼津城に譜代大名を配置して街道沿いを実質的に徳川家の支配下において安全を確保しました。

征夷大将軍宣下(1603年2月12日)

伏見の地から京への圧力を加え続けたことにより朝廷工作に成功し、徳川家康は、慶長8年(1603年)2月12日、右大臣・征夷大将軍宣下・源氏長者宣下を受けました。

これにより徳川家康は、武家の棟梁という地位に基づき全大名に対する軍事指揮権の正当性を確保しました。

すなわち、伏見に居座ることで朝廷に圧力をかけ、その権威を利用することによって豊臣秀吉政権の後継者としての地位をより確固たるものにしたのです。

徳川秀忠に将軍職を譲る(1605年5月)

征夷大将軍となって豊臣家よりも優位となった徳川家康でしたが、この時点ではまだまだ西国を中心とした豊臣恩顧の大名家が全国に残っていましたので、その牽制が必要でした。

また、徳川家康が手にした天下人の地位を、徳川家康死後に豊臣家に戻すのではなく、徳川家で世襲させるシステム構築が求められました。

そこで、徳川家康は、征夷大将軍就任後も伏見に残って西国大名の牽制を続けると共に慶長10年(1605年)5月に将軍職を徳川秀忠に譲ることで徳川家が天下人の地位と将軍職を世襲していくことを内外にアピールしました。

なお、余談ですが、豊臣秀吉が隠居城として伏見城を建築した際に御香宮神社が一旦伏見城内に移されたのですが、慶長10年(1605年)に伏見の町から豊臣色を失わせるために徳川家康の手によって御香宮神社の本殿を建立した上で現在地戻されたという歴史を持っています。

この経緯から、現在の御香宮神社内には、その末社として徳川家康を祀る東照宮と、豊臣秀吉を祀る豊国神社が共存しているという極めて珍しい配置となっています。

徳川家康が伏見を出た後

駿府城に移り住む(1607年)

徳川宗家で天下人の地位と将軍職を世襲していくことを内外にアピールし終えた徳川家康は、朝廷工作がひと段落したと判断し、慶長12年(1607年)に駿府城を修築して同城に移り住みました。

徳川家康が駿府城に移ったことで徳川家の圧力が低下するため、大坂城に残る豊臣家が徳川家に敵対する可能性が高まります。

そこで、徳川家康が駿府に移った後も、伏見城は京と西国の抑えのための将軍家の城として残り、その軍事力の高さから徳川家の拠点としてあり続けました(徳川秀忠の2代将軍宣下や、徳川家光の3代将軍宣下なども伏見城で行われています。)。

二頭政治

他方、駿府城に入った徳川家康は、江戸にいた徳川秀忠を東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸将軍」(御所)と位置付け、自身を朝廷・寺社・西国大名・外交を担当する「駿府の大御所」とする役割分担を定めます。

その結果、徳川家康による朝廷と豊臣家に対する監視はその後も続けられ、慶長13年(1608年)には豊臣秀頼を左大臣にしようとする豊臣家から朝廷に働きかけの兆候を事前に捉え、これを阻止するために左大臣ポストをしばらく空位とした上で、適任者を探して右大臣九条忠栄を関白に推挙することで豊臣家の動きを封じるなどしています。

伏見宿設置(1619年)

その後、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したことにより西国大名監視の必要性が薄れます。

また、征夷大将軍の任命や徳川家康に対する神号・宮号勅許などにより天皇の伝統的権威を利用してはいたものの、禁中並公家諸法度を定めることによって江戸幕府が朝廷を統制するようになり、朝廷工作の必要性も失われていきます。

そこで、軍事よりも経済を重視することとした江戸幕府は、大坂の経済力を取り込むために再建に着手した上で同地を直轄化することとし(実際に直轄地としたのは元和5年/1619年)、それまで江戸と京を結んでいた東海道を大坂まで延伸することとします。

この延伸ルートとして江戸幕府が目を付けたのが、豊臣秀吉が築いた伏見・大坂間を結ぶ文禄堤でした。

江戸幕府は、整備費用を節約するために大坂と伏見を結ぶ文禄堤上に街道を整備し(京街道)、さらに伏見から髭茶屋追分までの間に大津街道(伏見通)を整備することにより東海道を約54km延長します。

東海道延伸に伴い、江戸幕府は、延伸された東海道の道中にある伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿という計4宿の宿場町を整備することとし(東海道五十七次)、元和5年(1619年)に伏見宿を宿駅に指定しました(宿駅制定証文)。

伏見城廃城(1623年)

そして、元和偃武によりもはや徳川将軍家が伏見に残る必然性が失われた結果、元和9年(1623年)に徳川家光が江戸に移ることとなったことをきっかけとして、伏見城が廃城となりました。

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