日本人の多くは仏教徒と言われています。
もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。
なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。
実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。
より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。
これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。
他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。
本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
江戸幕府による宗教政策
仏教寺院と民衆との結びつき
538年(日本書紀では552年)ころに日本に導入された当初の仏教は、一部有力者の独占的思想であり、この時代に建立された仏教寺院は有力氏族の繁栄を願うものでした(氏寺)。
そのため、当初の仏教寺院は、有力氏族の支援により維持され、これら有力氏族のための葬祭供養機関として機能しました。
その後、鎮護国家思想に基づいて仏教が国家的保護を受けるようになると、仏教関係者に免税特権(寺田は不輸祖・僧尼は不課口)が与えられるなどの特別な保護が施されるようになり、旧仏教寺院が荘園を持つに至ります。
その結果、有力寺院の収入源が荘園収入に変わっていき、檀家に依存しない運営が可能となった仏教寺院は世俗化していきます。
もっとも、鎌倉時代になると、仏教寺院の世俗化を嫌った僧侶たちが鎌倉仏教を開いて民間に仏教を広めていきます。
また、室町時代に入って守護大名・戦国大名が成長していくと、これに荘園を奪われていった寺院は、荘園収入による寺院運営が困難となっていきます。
以上の結果、各仏教寺院は、広く一般民衆を信徒として取り込み、そこから布施を徴収して運営していくようになり、安土桃山時代ころになると、一般民衆と直接的な強い結びつきを有するようになりました。
江戸幕府を開いた徳川家康は、一般民衆と強く結びついた仏教寺院を江戸幕府の統治機構に組み込んで、これを民衆を統治するための制度として政治利用することを思いつき、そのための施策を次々と実行していきます。
江戸幕府による宗教団体・僧侶の統制
(1)寺院諸法度(1601年~)
織田信長・豊臣秀吉が宗教団体と長い戦いを繰り広げていったことを目にし、また自らも三河一向一揆などで苦しい戦いを強いられた過去を持っていることから、徳川家康は、主要な宗教団体に対して、直接介入するための法度を発布していきます。
具体的には、慶長6年(1601年)の「高野山法度」への下付をはじめとして、以降、慶長13年(1608年)から元和2年(1616年)にかけて主な宗教団体である天台宗・真言宗・新義真言宗・修験道・曹洞宗・臨済宗・浄土宗・日蓮宗などに対して次々と「個別に」発布していきました。
一般に、これらの各種法度を総称して寺院諸法度ということが多いのですが、定まった呼称はなく、文献によっては諸宗寺院法度や諸宗諸本山法度などの称される場合もあります。
江戸幕府は、この寺院諸法度を用いて各宗教団体の本山に対して介入し、各宗教団体とそこに属する僧侶の統制を行いました。
(2)新寺建立禁止令(1631年)
また、江戸幕府は、寛永8年(1631年)、新寺建立禁止令を発して新寺の創建を禁止します。
これにより、同年時点で存在する寺院の他、新たな寺院を建立することが出来なくなります。
この結果、江戸幕府としては、同年時点で存在する宗教団体を統制すれば足りるようになり、新たに設立される宗教団体を監視する必要がなくなりました。
これは、一般民衆にとっては信仰の自由を奪うことに等しいのですが、既存の仏教寺院からすると囲い込んだ檀家を新興宗教団体に奪われる可能性がなくなりますので利のある政策でした。
(3)本山末寺制度(1632年)
その後、江戸幕府は、前年発布の新寺建立禁止令により確定された寺院の全てを把握するため、寛永9年(1632年)に各宗派の本山に対して「本末帳」の作成を命じて末寺を調査させます(後に、元禄5年/1692年にも本末帳の作成がなされています。)。
その上で、江戸幕府は、宗派毎に改めて本末関係を結ばせるよう命じ、本山の下に末寺を置く序列を完成させました。
そして、本寺に末寺の僧侶の任命・僧階の付与・住職の任免・色衣の着用許可・上人号の執奏などをおこなう権限を与え、また末寺に対する本山行事への出仕命令し・本山費の徴収権を持たせたことから、末寺は本寺に絶対服従を強いられるようになったのです。
これにより、宗派ごとに本寺とか本山とよばれる大寺が、小寺を末寺とよんでその指揮下に置いて保護・統制する制度(本寺末寺の制度)が完成したため、江戸幕府は、本山を寺院法度で統制すれば、各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じてその意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることができ、それにより末寺に至るまでのその宗派を統制することが可能となりました。
なお、元禄5年(1692年)に再度「本末帳」の改訂が行われ、本山から末寺に至る系列が再度明確化されています。
(4)寺社奉行配置(1635年)
関ヶ原の戦い後に成立した江戸幕府では、その勢力の高まりに比例して寺社に対する統制を始め、慶長17年(1612年)に以心崇伝及び板倉勝重を社寺に関する職務にあたらせていました。
もっとも、寛永元年(1624年)4月29日に板倉勝重が、寛永10年(1633年)1月20日に以心崇伝がそれぞれ死去したことにより社寺担当者が不在となったため、江戸幕府は、寛永12年(1635年)に新たに寺社奉行を創設し、これにより全国の社寺や僧職・神職の統制などを行うこととして、正式な寺社統制体勢を整えました。
寺社奉行は、有力寺社に対して将軍の判物・朱印状を下して寺社領を安堵・付与したりするなどし、また寺院の規模・運営などに関する統制、僧尼の心得・人事などに関する統制、祭礼・法会・仏事行事に関する統制などを行いました。
また、これを真似て同様の行為を大名や旗本などが行い始めた結果、在地領主による寺社統制権は強化されていき、各仏教寺院が各地方領主による民衆支配の行政機関的な色彩を強めるようになっていきました。
宗教団体を通じた民衆の統制
(1)キリスト教弾圧
開幕当初の江戸幕府では、布教貿易二元主義をとっていたのですが、幕府の統治権を拒否して従わず教会にのみ服従し領土的野心を持って布教を強行するカトリック教会諸会派に対して幕府は次第に態度を硬化させていき、慶長17年(1612年)3月21日、岡本大八事件をきっかけとして江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じる禁教令を布告します。なお、禁教令は、翌慶長18年(1613年)に拡大されています。
この禁教令は幕府直轄地に対するものだったのですが、諸大名が「国々御法度」として受け止めて各領国で同様の施策を実行したため、全国各地に波及していきました。
元和4年(1618年)には、キリシタンを見つけた者に懸賞金を与える制度である懸賞訴人の高札が始まり、徹底したキリシタン捜索が始まります。
この結果、全国各地でキリシタン弾圧(教会破壊・キリスト教棄教強制・国外追放など)が行われていき、有名なものだけでも、京都の大殉教(元和5年/1619年10月6日)や元和の大殉教(元和8年/1622年8月5日)などが知られています。
(2)宗門改め(1640年)
その後、江戸幕府によるキリスト教禁教政策は、寛永15年(1638年)に発生した島原の乱の後更なる強化がなされ、寛永15年(1638年)には「切支丹制札」を各地に掲示させ、懸賞金をつけてキリスト教徒を密告させることを奨励していきます。
また、江戸幕府は、キリスト教徒を断絶させるために一般民衆の所在や思想の調査まで行い始めます。
そして、江戸幕府は、寛永17年(1640年)に宗門改役を設置して、庶民1人1人の宗教をチェックした上でその調査結果を宗門改帳に記載していきます。
なお、寛文11年(1671年)には宗門改帳と人別改帳が統合され、毎年1回の申告に基づく宗門人別改帳が作成されるようになり、これが現在の戸籍簿や租税台帳の役割を持つ民衆調査資料として使用されました。
また、その後も江戸幕府は、キリシタン取り締まりを制度化し、享保4年(1687年)に始まった切支丹類族戸籍帳により檀家の義務として男子は6代、女子は3代先までの一族が監視されることとなりました。
(3)寺請制度
この宗門改めに際し、江戸幕府は、一般庶民がキリスト教徒とならないようにするための画期的な策を編み出します。
それは、宗門改帳により把握した一般庶民「全員」を日本全国にあるどこかの寺院の所属させて(檀家にして)その変更を禁止し、当該寺院の住職に当該人物が当該寺院の檀家であることを証明させ、住居移動や旅行の際には寺院に配された宗門改帳(後に宗門人別帳)に基づいて当該寺院の檀家であること=仏教徒であることを証する「寺請証文」を必要とするという制度でした(檀家制度)。
これは、「仏教徒=キリスト教徒ではない」という考えから仏教を国教として、民衆全員を仏教徒とするという個人の信仰を完全に無視したとんでもない制度なのですが、労せずに広く檀家を集めることができる仏教界からも歓迎され、一気に制度として確立してしまいます。
この寺請制度により、民衆が特定の末寺の檀家として固定化され、各末寺が、末寺に所属する檀家の葬祭供養を独占的に執り行うこととなり、その結果、末寺が、檀家から寺院伽藍の新築改築費用・講金・祠堂金・本山上納金などの様々な名目で経済的負担を強制できるようになったのです。
他方で、檀家は、経済的負担のみならず、常時の参詣・年忌命日法要の施行・祖師忌・釈迦の誕生日(灌仏会)や涅槃日・盂蘭盆会(お盆)春秋の彼岸の寺院参詣や墓参などの人的負担も強いられました(今日における彼岸の墓参りやお盆法事の原型)。
これらの檀家に課された負担は相当なものだったのですが、檀家がこれらの負担を拒否すれば末寺が寺請を拒否してキリシタンのレッテルを貼られて処罰することに繋がるため、檀家としてはこれらの負担を免れることはできませんでした。
すわなち、広く一般民衆が寺院の経済的な支援者となり、誤りを恐れずに言うと、圧倒的な力の差による寺院による檀家の人身支配が行われるに至ったのでした。
江戸幕府も、この寺請制度による人身支配制度を容認し、これを民衆統制手段として利用します。
具体的には、面倒な民衆の管理を仏教寺院に押し付けることができ、江戸幕府としては、仏教寺院の本山のみを管理し、そこから挙がってくる情報を受け取れば足りることとなったからです。
こうして、幕府の統治体制の一部となって幕府の出先機関化した仏教寺院は、何もしなくても檀家が減ることがないことに胡坐をかいて本来の宗教活動がおろそかにしていき、また世俗化(僧侶の乱行・僧階の金銭売買など)した僧侶たちは汚職にまみれていくようになりました。
江戸幕府の宗教政策に対する反発
世俗化・形骸化への抵抗(諸宗寺院法度)
前記のとおり、江戸幕府による宗教政策は、寺院に民衆との関係での優越的立場をもたらし、何もしなくてもお布施として多額の上納金が上がってくるという特権を与えた結果、寺請の主体となった末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむようになって日本の仏教信仰が形骸化していきます。
自由競争がないために日々研鑽する必要はなく、どんなに邪険に扱っても改宗できない檀家が逃げることがないため、また、多くの僧侶が、偉くなったと勘違いして立場を利用して檀家を奴隷化して檀家から際限ない収奪するようになったのです。
このような世俗化トラブルが全国各地で頻発するようになり、界儒者・神道家・国学者など幅広い層から批判がなされました。
また、檀家からの仏教に対する信頼もまた失われていきます。
仏教寺院が民衆の信頼を失っていくことを危惧した江戸幕府や諸藩は、その改善を指向して仏教寺院に対する指導が求められます。
そこで、江戸幕府は、寛文5年(1665年)7月11日、それまで個別の宗派を対象に発布してきた寺院諸法度を整備し直した諸宗寺院法度を発布し、本山による末寺への圧迫・末寺による檀家への圧迫を禁止するなど、仏教諸宗派・寺院・僧侶の統制を命じます。
もっとも、江戸幕府の発布だけで仏教寺院が得た既得権を奪い取ることができるはずもなく、その後も、仏教寺院の世俗化・形骸化は続いていきました。
廃仏毀釈運動(明治初期)
明治維新により江戸幕府が滅ぶと、明治新政府は、慶応4年(1868年)3月13日に太政官布告(神仏分離令・神仏判然令)発布、同年5月20日に寺社奉行廃止、続けて明治3年(1870年)1月3日に「大教宣布」を発布するなどして、本山→末寺→檀家という仏教寺院からの民衆負担軽減策を次々と打ち出します。
そして、明治4年(1871年)、寺請制度が氏子調(国民に対して在郷の神社の氏子となることを義務付ける宗教政策)に引き継がれて廃止されました。
明治新政府により行われたこれらの負担軽減策は、元々は神道と仏教の分離を目的として行政改革であり仏教排斥を意図したものではなかったのですが、江戸時代を通じて仏教に圧迫されてきた神職者・民衆によって好意的に受け入れられます。
ここで、神職者・民衆は、江戸時代を通じて培われた仏教界に対する嫌悪感から、平田派国学者の神職や民衆によって寺院・仏像・仏具を破棄するという廃仏毀釈運動が全国的に発生することとなりました。
この廃仏毀釈の動きは、激しい破壊的行動として全国的に波及し、明治4年(1871年)をピークとして次第に沈静化し、明治10年(1877年)の教部省の廃止によってようやく終了します。
江戸時代の宗教政策が現在に及ぼす影響
仏教界の反省
明治初期に起こった廃仏毀釈運動により江戸時代に特権を得て繁栄した寺院の多くが喪失してしまいました。
これは、仏教寺院に大ダメージを与えたのですが、他方で仏教界に反省を促し、仏教各宗派から改革を進める動きが出てくるようになりました。
江戸時代に各人が末寺の檀家として組み込まれたことにより多くの人の一族の墓が末寺内に存在しているため、この寺墓を通じてそのまま寺と繋がっている(檀家制度自体は残っている)という事例が多いのですが、一度失われた信頼を取り戻すことは容易ではなく、仏教を信頼しなくなった国民はと寺院との接点が薄れていき、葬式や法要以外で寺院と接することがなくなっていきます(いわゆる葬式仏教化)。
寺離れの加速
この傾向は、戦後の高度経済成長に伴って農村部から都心部への人口流入が起こったことによりさらに加速し、寺と檀家との関係は次第に希薄化していくこととなりました。
檀家制度によって確立した年忌法要・定期的な墓参りなどは文化として根付いているものの、それらを寺院に委託したり業者等に代行させたりする例が表れ始めます。
また、少子高齢化により将来を見据えて墓じまいをする人が増え、そこまでいかなくとも檀家自体が減っています。
その結果、主に地方では、経営を維持できなくなった寺院が廃寺となるケースが目立つようになっています。
これが現在の檀家制度です。
最後に
以上のように、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えたことにより、日本人のほぼ全てが仏教徒となることとなりました。
もっとも、これに胡坐をかいた仏教界の堕落により、仏教に対する民衆の信仰心が薄れます。
そして、その傾向が時間の経過によって加速した結果、他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰しか持たない仏教徒が出来上がってしまったというのが今日に至る経緯です。