日本三大土塀とは、日本全国に点在する土塀の中で、歴史のある3つの土塀をいいます。
誰が・いつ・どういう根拠で定めたのかは不明ですが、古来より「三大・・」が好きな日本人は土塀についてもランク付けをしており、太閤塀・信長塀・大練塀が日本三大土塀とされるのが一般的ですので、それぞれ簡単に紹介したいと思います。
【目次(タップ可)】
土塀とは
土塀(どべい)は、粘土質の土や泥に石灰とフノリに加え、菜種油・水・藁などの素材を組み合わせて造られる単純な造りの塀です。
日本を始めとする高温多湿のアジア諸国でよく見られます。
日本三大土塀
太閤塀(京都・三十三間堂)
太閤塀は、三十三間堂(蓮華王院、京都市東山区三十三間堂廻り町657)にある、南大門に接する高さ約5.2m・桁行約92m木骨土造・版築仕上げの築地塀です。
「天正十六年八月大ふつ殿瓦」のヘラ書きがある瓦があり、また軒平瓦に太閤桐の文様が用いられていることから太閤塀と呼ばれます。
造営の経緯は、以下のとおりです。
徳川家康を臣従させ、また関白・太政大臣の官職を得て日本統一事業を進めていた豊臣秀吉は、天下を統べる者の責務として、消失した東大寺大仏に代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地内に高さ20mの大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。
そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社・京都国立博物館・妙法院・智積院そして三十三間堂をも含む広大な寺域を有する方広寺を完成させます。
このとき、豊臣秀吉の寄進により三十三間堂の南端(方広寺の南限)の南大門近辺に整備されたのが太閤塀です。
もっとも、豊臣秀吉が整備した太閤塀は慶長伏見地震で倒壊しており、現存する塀は豊臣秀頼が再建したものと言われています。
信長塀(愛知・熱田神宮)
信長塀は、熱田神宮(名古屋市熱田区神宮1-1-1)にある、長さ約120mの土塀であり、瓦を土と石灰を油で固めて積み重ねた構造で造られています。
名称から明らかなように織田信長により造られました。
造営の経緯は、以下のとおりです。
永禄3年(1560年)5月、駿河・遠江・三河を治める大大名であった今川義元が、尾張国への侵攻を開始したのですが、同年5月19日明け方に織田信長が居城であった清洲城を出立し、その迎撃に向かいます。
同日午前8時ころに熱田神宮に入った織田信長は、同地で軍を整えると共に、戦勝祈願をしました。
その後、織田信長は、今川義元本陣を攻撃して見事これを討ち取り大勝利を収めます(桶狭間の戦い)。
この後、織田信長は、戦勝の礼として、熱田神宮境内に400mに及ぶ土塀を寄進します。
このとき寄進された土塀の一部が残されており、それが信長塀として日本三大土塀の1つに数えられています。
大練塀(兵庫・西宮神社)
大練塀(おおねりべい)は、全国に約3500社ある蛭子神社(えべっさん)の総本社として有名な西宮神社(兵庫県西宮市社家町)にある、版築技法に62基連ねた全長247mの練塀です。
西宮神社の境内を囲む表大門(赤門)がある東側から、南門がある南面にかけて存在しており、築土の中から発見された古銭から室町時代に建造されたものと推定されており、現存最古の築地塀と言われています。