【千葉常胤】源頼朝に父と言われた鎌倉幕府創立の立役者

千葉常胤(ちばつねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて、下総国の有力在庁官人として、下総国・千葉荘を本拠地として勢力を誇った武将です。官途名は千葉介(ちばのすけ)です。

千葉家の家督相続後に、相馬御厨・橘庄を失い、一時は千葉荘のみを有するに至るまで落ちながら、源頼朝の挙兵を援け、鎌倉幕府有力御家人となって20か所以上の所領を有するまでに勢力を拡大させた千葉家中興の祖でもあります。

本稿では、安房国に逃れた源頼朝をいち早く援け、源頼朝から師父とまで評された千葉常胤の生涯について見ていきたいと思います。 “【千葉常胤】源頼朝に父と言われた鎌倉幕府創立の立役者” の続きを読む

【上総広常】源頼朝の窮地を救うも最初に粛清された房総平氏総領

上総広常(かずさひろつね)は、平安時代末期に房総半島一帯に大きな勢力を誇ったいわゆる房総平氏です。上総介広常(かずさのすけひろつね)とも言われます。

石橋山の戦いに敗れて安房国に流れ着いた源頼朝の下に2万騎とも言われる兵を引き連れて参陣し、その再起のきっかけを作った人物でもあります。

もっとも、鎌倉幕府御家人の中で突出した力を持っていたために、猜疑心の強い源頼朝に警戒され、ついには暗殺されるという悲しい最期を遂げています。

本稿では、そんな源頼朝再起のキーマンとなった上総広常の生涯について見ていきたいと思います。 “【上総広常】源頼朝の窮地を救うも最初に粛清された房総平氏総領” の続きを読む

【木曾義高(源義高・清水冠者)】悲劇的な死を遂げた大姫の許婚

木曾義高(きそよしたか)は、平家を都から追放し、一時は武家勢力の頂点に立つまでに至った木曾義仲の嫡男です。

もっとも、木曾義高の人生は悲惨であり、木曾義仲に源頼朝の機嫌取りのために鎌倉に人質に出され、木曾義仲がクーデターに失敗したことに連座して12歳の若さで暗殺害されるという悲しい最後を迎えています。

本稿では、そんな若きプリンス・木曾義高の人生について振り返ってみたいと思います。 “【木曾義高(源義高・清水冠者)】悲劇的な死を遂げた大姫の許婚” の続きを読む

【北条宗時】源頼朝の挙兵を主導した北条時政の嫡男

北条宗時(ほうじょうむねとき)は、北条時政の嫡男であり、北条義時の兄でもあります。

伊豆に流された源頼朝に付き従い、その挙兵を主導した人物でもあります。

挙兵直後の石橋山の戦いに敗れて逃亡中に討ち取られたため、あまり記録が残されていないのですが、源平争乱の端緒として大きな役割を果たした人物ですので、残された記録を基に北条宗時の人生についてできる限りわかりやすく紹介したいと思います。 “【北条宗時】源頼朝の挙兵を主導した北条時政の嫡男” の続きを読む

【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事

三善康信(みよしのやすのぶ)は、初代問注所執事として鎌倉幕府内での裁判実務を一手に引き受けた有能な文官です。

有能ではあったのですが、性格はおっちょこちょいであり、京で下級役人をしていた時代に、早とちりのせいで源頼朝に誤報を届け、対平家の挙兵を決定させるという歴史的一大事件の引き金を引いた人物としても有名です。 “【三善康信】誤報で源頼朝を挙兵させた初代問注所執事” の続きを読む

【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人

安達盛長(あだちもりなが)は、伊豆国に流された源頼朝の最初の家人となった人物です。

比企尼の命により、罪人として家臣を持つことを許されなかった源頼朝の事実上の世話回りをし、後に鎌倉幕府の上位御家人となっています。

本稿では、最終的には13人の合議制の1人になるにまでに出世をし、鎌倉時代に繁栄した安達氏の祖となった人物となった安達盛長の生涯について見ていきたいと思います。 “【安達盛長(小野田盛長)】伊豆に流された源頼朝の最初の家人” の続きを読む

【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉幕府執権・北条義時討伐のための兵を挙げたものの敗れて隠岐に流された上皇として有名です(承久の乱)。

このことだけ聞くと、無謀な挙兵をした人物であるかのように感じられますが、実はそんなことはありません。

朝廷から武士に権力が移行していく時代に抗い、鎌倉殿・源実朝を取り込んだり、鎌倉幕府御家人に官位を与えるなどして朝廷の権威を取り戻そうと尽力したとても有能な上皇でした。

実際、後鳥羽上皇は、文武両道であったとされ、新古今和歌集の編纂でも知られています。

もっとも、結果的には幕府軍の数の暴力に屈して隠岐島に流され、失意のうちに崩御されるという悲しい結末を迎えています。 “【第82代・後鳥羽天皇】承久の乱で北条義時に敗れ隠岐に流された上皇” の続きを読む

【牧の方】北条家と鎌倉幕府の実権簒奪に失敗した北条時政の継室

牧の方(まきのかた)をご存じですか。

鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の継室であり、北条時政を取り込んで、息子を2代目執権(北条家当主)にしようとしたり、娘婿を第4代鎌倉殿にしようとしたりするなど、権力への執着を見せた女性です。

最終的には、北条時政の先妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局ら)に敗れて出家させられたのですが、そこに至るまでの経緯が波乱万丈です。

本稿では、権力に魅せられた女性である牧の方の人生について見ていきましょう。 “【牧の方】北条家と鎌倉幕府の実権簒奪に失敗した北条時政の継室” の続きを読む

【平賀朝雅】北条家の内紛に翻弄され第4代鎌倉殿になり損ねた御家人

平賀朝雅(ひらがともまさ)は、鎌倉幕府の最上位御家人の1人であり、北条時政と牧の方に担がれて第4代鎌倉殿になる寸前まで出世した人物です。

牧氏の変により後ろ盾であった北条時政が失脚したため、連座して北条義時に処刑されるという悲しい最期を迎えた人物でもあります。

本稿では、北条家のお家騒動に巻き込まれ、天国から地獄に突き落とされた平賀朝雅の人生について見ていきたいと思います。 “【平賀朝雅】北条家の内紛に翻弄され第4代鎌倉殿になり損ねた御家人” の続きを読む

【今川義元】今川家の全盛期を築いた海道一の弓取り

今川義元(いまがわよしもと)と聞いてどんなイメージが浮かびますか。

大大名今川家の第11代当主でありながら、桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られたという最期から、今日においては、公家のようにお歯黒をつけて置眉・薄化粧をしている貴族趣味に溺れたとか、合戦の際に輿に乗っていたことをもって騎馬に乗れなかったなどというダメなイメージがつけられているようです。

もっとも、実際の今川義元は、堅実な領国経営・合理的な軍制改革・巧みな政治手腕などによって、父・今川氏親からの領土拡大政策を引き継ぎ、最終的には駿河国・遠江国・三河国を治めるに至ったという今川家の最盛期を築き上げた武将です。

当時から「海道一の弓取り」として高く評価されており、全くダメなイメージもありません。

本稿では、不当なイメージをつけて貶められることの多い今川義元の実際について見ていきたいと思います。 “【今川義元】今川家の全盛期を築いた海道一の弓取り” の続きを読む