元号は、古代中国(漢の武帝時代)から中国で用いられた紀年法の一種です。
この古代中国の元号が日本で独自の進化を遂げ、大化元年7月1日(645年7月29日)に始まった元号制度は、現在においてなお続いています(現在公的に元号の制度を用いている国は日本だけです。)。
以下、日本で用いられた元号について、順に元号名・始期・終期・改元理由について紹介していきたいと思います。 “【日本の元号一覧】” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
元号は、古代中国(漢の武帝時代)から中国で用いられた紀年法の一種です。
この古代中国の元号が日本で独自の進化を遂げ、大化元年7月1日(645年7月29日)に始まった元号制度は、現在においてなお続いています(現在公的に元号の制度を用いている国は日本だけです。)。
以下、日本で用いられた元号について、順に元号名・始期・終期・改元理由について紹介していきたいと思います。 “【日本の元号一覧】” の続きを読む
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸の日本橋から京の三条大橋まで続く東海道に置かれた53箇所の宿場町です。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し、それぞれの街道上に宿場町を整備していきました。
そして、東海道には当初40宿が整備されたのですが、その後53宿にまで増加されます。
また、その後、元和5年(1619年)、滅亡させた豊臣家が治めていた経済都市・大坂を直轄地とし、大坂と東海道に直結させ、大坂と京を繋ぐ京街道を東海道とした取り込んだ結果、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備したことにより、最終的な東海道の宿場町は57宿となっています。
そのため、東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあるのですが、本稿では、この追加された4宿を除く53宿について、浮世絵なども取り上げつつ簡単に紹介していきたいと思います。 “【東海道五十三次】当時のルート紹介と各宿場町概略” の続きを読む
天皇(てんのう)は、 倭と呼ばれた古代以来の日本において、男系の血統を受け継ぐ君主の称号です。
元々は「大王」と呼ばれていたのですが、7世紀頃に中国王朝への朝貢・冊封体制から脱却するために王の称号を廃することとしたのですが、このときにそれまでの呼称であった「すめらみこと」に「天皇」という字をあてることにより称されて現在に至ります。
奈良時代までは天皇となることを即位(=践祚)と言っていたのですが、桓武天皇が即位に際し受禅の後に日を隔てて即位の儀を行ったことからこれが先例となり、先帝から行為を引き継ぐことを践祚(譲位による践祚を受禅践祚・先帝崩御による践祚を諒闇践祚と言います。)、皇位を引き継いだことを諸神や皇祖に告げた上で天下万民に宣する儀式を即位と言うようになりました。
そのため、天皇の在位期間は践祚に始まることとなります。
他方、現在の皇室典範は、践祚と即位を同一のものとしており、即位の礼は即位(従前の践祚に相当)直後ではなく1年以上後に行うこととされています。
また、現在の皇室典範では譲位及び受禅践祚が制度化されておらず、践祚は今上天皇崩御時の諒闇践祚に限られています(第125代天皇による譲位の際には、受禅践祚をするために特例法が制定されています。)。
世界では、これまでに多くの文明が誕生しては滅んでいき、アメリカの国際政治学者であったサミュエル・ハンチントンによると、世界で生き残った文明は欧米文明・イスラム文明・中国文明・インド文明・日本文明の5つだけであると述べられています。
このように古くから歴史に名を残す日本文明の中心にあったのが歴代の天皇であり、以下、初代天皇とされる神武天皇から順に簡単に紹介していきたいと思います。
平安時代の末期に伊勢平氏の棟梁となった平清盛が、平安時代の末期に多くの知行国・荘園を獲得するとともに日宋貿易の利益を独占して莫大な経済的利益を手にした上、保元・平治の乱の後に後白河上皇(のち法皇)と協力して政敵を駆逐し、また姻戚関係をも利用するなどして異例の出世をしていきます。
平清盛は、永暦元年(1160年)に武士初の公卿となる参議就任を経て、仁安2年(1167年)には律令官制最高官である太政大臣にまで上り詰めた上(なお、太政大臣は名誉職であるため、慣例に従って約3カ月で辞職しています。)、ついには治承4年(1180年)2月、ときの天皇であった高倉天皇に対して圧力をかけてその皇子である言仁親王を安徳天皇として即位させ、その外戚として権力の頂点に達します。
この結果、一族からも増長する者が続出し、全国各地で反平家の動きが高まっていきました。
本稿では、この反平家の動きの高まりから平家滅亡までの流れを、一気に説明していきたいと思います。 “【平家滅亡】栄華を極めた平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡するまで” の続きを読む
大永5年(1525年)ころに甲斐国を統一した武田信虎の嫡男として生まれた武田信玄(武田晴信、本稿では便宜上武田信玄の名で統一します。)は、天文10年(1541年)6月14日、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、武田信虎を駿河国追放し、武田信玄が武田家の第19代目の家督を相続します。
もっとも、このときのお家騒動のゴタゴタで、武田家は、武田信虎時代に獲得した信濃国・小県郡・佐久郡を失います。
そのため、武田信玄は、甲斐国一国から勢力拡大を始めていきます(武田信玄死亡直前の最大版図時の主要な城は概ね上画像のとおりです。)。
本稿では、武田信玄のここに至る領土拡大の軌跡を、時系列に沿って地図(航空写真)を追いながら見ていきます。 “【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯” の続きを読む
和歴と西暦の対比について、年ベースのものはよく見かけるのですが、年月日ベースまで詳細に対比してある表はあまり見かけません。
そこで、最初の年号の「大化」から順に西暦→和暦を年月日ベースで対比した表を作成いたしましたので参考にして下さい。
“【和暦西暦早見表(年月日対比版)】最初の元号「大化」から現在まで” の続きを読む