【平家滅亡】栄華を極めた平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡するまで

平安時代の末期に伊勢平氏の棟梁となった平清盛が、平安時代の末期に多くの知行国・荘園を獲得するとともに日宋貿易の利益を独占して莫大な経済的利益を手にした上、保元・平治の乱の後に後白河上皇(のち法皇)と協力して政敵を駆逐し、また姻戚関係をも利用するなどして異例の出世をしていきます。

平清盛は、永暦元年(1160年)に武士初の公卿となる参議就任を経て、仁安2年(1167年)には律令官制最高官である太政大臣にまで上り詰めた上(なお、太政大臣は名誉職であるため、慣例に従って約3カ月で辞職しています。)、ついには治承4年(1180年)2月、ときの天皇であった高倉天皇に対して圧力をかけてその皇子である言仁親王を安徳天皇として即位させ、その外戚として権力の頂点に達します。

この結果、一族からも増長する者が続出し、全国各地で反平家の動きが高まっていきました。

本稿では、この反平家の動きの高まりから平家滅亡までの流れを、一気に説明していきたいと思います。 “【平家滅亡】栄華を極めた平家が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡するまで” の続きを読む

【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯

大永5年(1525年)ころに甲斐国を統一した武田信虎の嫡男として生まれた武田信玄(武田晴信、本稿では便宜上武田信玄の名で統一します。)は、天文10年(1541年)6月14日、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、武田信虎を駿河国追放し、武田信玄が武田家の第19代目の家督を相続します。

もっとも、このときのお家騒動のゴタゴタで、武田家は、武田信虎時代に獲得した信濃国・小県郡・佐久郡を失います。

そのため、武田信玄は、甲斐国一国から勢力拡大を始めていきます(武田信玄死亡直前の最大版図時の主要な城は概ね上画像のとおりです。)。

本稿では、武田信玄のここに至る領土拡大の軌跡を、時系列に沿って地図(航空写真)を追いながら見ていきます。 “【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯” の続きを読む

【和暦西暦早見表(年月日対比版)】最初の元号「大化」から現在まで

和歴と西暦の対比について、年ベースのものはよく見かけるのですが、年月日ベースまで詳細に対比してある表はあまり見かけません。

そこで、最初の年号の「大化」から順に西暦→和暦を年月日ベースで対比した表を作成いたしましたので参考にして下さい。
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