【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。

戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。

三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。

本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦” の続きを読む

【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦

島津の退き口(しまずののきぐち)は、慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ケ原合戦で、島津義弘が味方した西軍が敗れ総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊が、突然行った敵中突破による前進退却です。

戦場からの退却は、通常、敵の最も少ない場所を狙って行われるものなのですが、島津の退き口では、敵が最も多い徳川家康本陣に向かって突撃する形で始まるという極めて異質な作戦でした。

しかも、多大な犠牲を払いながらも大将の島津義弘を薩摩に帰国させることに成功したこと、その途中で「捨て奸(すてがまり)」や「座禅陣」と呼ばれる足止め隊の活躍があったことなどから、現在にまで語り継がれる退却劇となっています。

本稿では、世に名高い「島津の退き口」について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【島津の退き口】捨て奸を駆使した前進敵中突破による撤退戦” の続きを読む

【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日、豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で勃発した黒田如水(黒田官兵衛)軍と大友義統(吉統)軍の合戦です。

同年9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として九州で勃発したため、「九州の関ヶ原」とも呼ばれます。

本稿では、黒田家大躍進のきっかけとなった石垣原の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【石垣原の戦い】黒田官兵衛が天下取りの野望を見せた九州の関ヶ原” の続きを読む

【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣

海ノ口城の戦い(うんのくちじょうのたたかい・うみのくちじょうのたたかい)は、後に戦国最強とうたわれた武田信玄の初陣である奇襲戦です。

父・武田信虎が8000人の兵で36日間かけて落とせなかった城を、武田信玄が300人の兵をもって僅か一夜で攻略するという、武田信玄の軍才を余すところなく見せつけ戦いなのですが、実は甲陽軍鑑以外の当時の資料に記録がありません。

言うまでもなく甲陽軍鑑は、武田信玄を英雄化して盛に盛った記載がなされているため、資料としての信用性が高くないため、海ノ口城の戦いでの奇襲戦や、敵将・平賀玄信の存在は、架空のものであるとする説も有力です。

もっとも、話としては有名ですので、本稿では、伝えられている範囲において、武田信玄の初陣である海ノ口城について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【海ノ口城の戦い】300人の奇襲で城を乗っ取った武田信玄の初陣” の続きを読む

【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、天正17年(1589年)6月5日に、磐梯山裾野に位置する摺上原で行われた、伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦です。

敗北した戦国大名・蘆名家が滅亡し、勝利した伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦いであります。 “【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い” の続きを読む

【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)8月9日に起こった北陸地方における前田利長(東軍・前田利家の子)と丹羽長重(西軍・丹羽長秀の子)の戦いです。

慶長5年(1600年)9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として北陸で勃発したため、「北陸の関ヶ原」とも言われます。

局地戦として発生した戦いは、3000人の丹羽長重軍(西軍)が、2万5000人の前田利長軍(東軍)を破るという戦術的勝利に終わったのですが、その後の関ヶ原の本戦の結果により違った結論となっています。 “【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原” の続きを読む

【長谷堂城の戦い】北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦のクライマックス

長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた上杉景勝軍(西軍)と最上義光・伊達政宗連合軍(東軍)の戦いであり、「北の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦の中の主要な戦いの1つです。

長谷堂城を囲み、最上家の居城・山形城まであと一歩に迫った上杉軍が、関ヶ原の戦いで石田三成軍(西軍)が敗れた余波により敗れ、東北地方最大の大名家から一地方大名に成り下がるきっかけとなった戦いでもあります。

長谷堂城の戦いに至るまでに、上杉家と最上家には長い因縁がありましたので、本稿ではその辺りから紐解いて長谷堂城の戦いについて見ていきたいと思います。 “【長谷堂城の戦い】北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦のクライマックス” の続きを読む

【第二次上田合戦】真田昌幸が徳川秀忠を下した戦略的大勝利

第二次上田合戦(だいにじうえだかっせん)は、上田城主・真田昌幸が、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川主力軍を上田城で足止めし、関ヶ原の戦いに参加させないという大戦果を挙げた戦いです。第二次上田城の戦いとも言われます。

徳川家康が、主力軍なしに関ヶ原の戦いを勝利してしまったためにその評価が埋もれがちですが、この第二次上田合戦は、その後の歴史を大きく変えてしまう可能性を有していた歴史の転換点となるはずの戦いでした。

本稿では、そんな第二次上田合戦について、発生の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第二次上田合戦】真田昌幸が徳川秀忠を下した戦略的大勝利” の続きを読む

【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦

備中高松城水攻めは、織田軍・中国方面軍司令官として毛利攻めを行っていた羽柴秀吉が、天正10年(1582年)に毛利家配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略した戦いです。

位置づけとしては、毛利家に服属する周辺国衆を駆逐した羽柴秀吉が、毛利直轄領に攻め込む初戦であり、堤防を築いて水攻めにしたことから、備中高松城の水攻めと呼ばれています(忍城の戦い、紀伊太田城の戦いとあわせて日本三大水攻めの1つに数えられています。)。

織田家の一軍団長に過ぎない羽柴秀吉が総力を挙げた毛利家を圧倒するという織田家の力を見せつける戦いとして始まり、途中で本能寺の変が起こって危機に陥った羽柴秀吉が巧みに戦を終了させて撤退し後の天下取りへつながる転換期となった戦いでもあります。 “【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦” の続きを読む

【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦

羽柴秀吉の四国攻めは、戦国時代末期に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下統一事業の一環として行った長宗我部元親軍との一連の戦いです。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれます。

長宗我部元親が、織田信長時代から羽柴秀吉と敵対していたこと徳川家康と接近していたことなどから羽柴秀吉との関係は従前から劣悪だったのですが、天正13年(1585年)に伊予国の河野通直を降伏させたことにより四国をほぼ統一した時点で、羽柴秀吉が長宗我部元親に自身への服属を命じます。

ところが、長宗我部元親がこれを拒否したため、羽柴秀吉が10万人を超える兵をもって三方面から四国に侵攻し、長宗我部元親を降伏させたというのが羽柴秀吉による四国攻めの概略です。小牧・長久手の戦いに際して徳川家康と結んで後方を脅かしたことに対する報復でもありました。

この戦いにより、敗れた長宗我部元親が四国全域支配から土佐一国20万石に減らされて豊臣政権下の一大名に成り下がり、他方羽柴秀吉方としては四国平定により次に九州征伐に向かうという天下統一戦の終盤に差し掛かるという転機となる戦いでした。 “【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦” の続きを読む