【三方ヶ原の戦い】若き徳川家康が武田信玄に大惨敗した一戦

三方ヶ原の戦いは、徳川家康と武田信玄が密約により共同で今川領へ侵攻し、徳川家康が遠江国を、武田信玄が駿河国を切り取った後に勃発した徳川家康と武田信玄との直接対決です。

圧倒的な戦力差・若き徳川家康と老獪な武田信玄との経験値差などにより、戦術的に見ると戦い自体は武田軍の圧倒的勝利に終わります。

徳川家康にとっては、多くの兵のみならず、腹心をも多数失い、自らも死を強く意識したほどの大敗だったのです。

もっとも、戦略的に見ると、大敗したとはいえ所領の主要部分を死守し、武田軍をやり過ごした徳川家康は、必ずしも負け戦であったとは言い切れない結果ともなっています。

本稿では、徳川家康の戦術的大惨敗により人生最大の危機に陥ったともいえる三方ヶ原の戦いについて、その発生の契機から順に説明します。 “【三方ヶ原の戦い】若き徳川家康が武田信玄に大惨敗した一戦” の続きを読む

【徳川家康の西三河平定戦】国衆調略と吉良義昭討伐戦

桶狭間の戦いの前哨戦として大高城兵糧入れを成功させた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていましたが、便宜上本稿では、徳川家康の表記で統一します。)は、大高城で桶狭間の戦いの結果を聞かされます。

その後、大高城から決死の退き口を成功させて岡崎城に戻った徳川家康は、当初は今川家の将として織田軍と戦い、しばらくした後は、今川家から独立して一国衆として三河国平定を目指して今川軍と戦っていくようになります。

そして、岡崎城に入った後、西三河平定→三河一向一揆鎮圧→東三河・奥三河平定の順で三河国平定戦を戦い、苦労を重ねた後に約5年の歳月をかけて永禄8年(1565年)にようやく三河国平定を達成しています。

本稿では、この三河国平定戦のうち、もっとも初期の一連の戦いである西三河平定戦について、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【徳川家康の西三河平定戦】国衆調略と吉良義昭討伐戦” の続きを読む

【小牧・長久手の戦い】もう1つの天下分け目の合戦

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、織田家家臣団を吸収して勢力を拡大する羽柴秀吉と、これに対して織田家当主として争った織田信雄とこれに同調した徳川家康とが戦った一連の合戦です。

この戦いは、羽柴軍が、織田信雄の本拠地であった尾張国に攻め込む形で行われたため、尾張国を中心としておこなわれたのですが、反羽柴方において秀吉包囲網が形成されたことから、全国に波及し、連動した戦いが北陸・四国・関東など全国各地で行われています “【小牧・長久手の戦い】もう1つの天下分け目の合戦” の続きを読む

【徳川家康の遠江侵攻】旧主今川家からの遠江国切り取り

徳川家康は、三河国の統一を果たし、また徳川姓に改めて三河守に任官することにより戦国大名の仲間入りを果たします。

もっとも、その後も領土的野心がおさまることはなく、次にかつての主君である今川家が治める遠江国の獲得を目指して侵攻を開始します。

この徳川家康の遠江侵攻作戦は、武田信玄との共同作戦であり、今川家が治める遠江国・駿河国のうち、徳川家康が遠江国を、武田信玄信玄が駿河国を切り取るとの約束で始まります。 “【徳川家康の遠江侵攻】旧主今川家からの遠江国切り取り” の続きを読む

【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦

桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、吉良義昭・鵜殿長照らを制圧して西三河を勢力下に勢力下におさめ、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。

こうして三河国西部を傘下に治めるに至った徳川家康は、今川方の国衆達が割拠する東三河への侵攻を開始します。 “【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦” の続きを読む

【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。

徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。

そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。 “【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定” の続きを読む

【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い

大高城兵糧入れは、「海道一の弓取り」と言われた今川義元が「尾張のうつけ」と言われた織田信長の奇襲により討ち取られた桶狭間の戦いの際、今川方に属していた松平元康(後の徳川家康)が、今川方の拠点となっていた大高城に兵糧を運び入れた兵站作戦です。

単なる兵糧運搬のように見えますが、鷲津・丸根・正光寺・氷上・向山の各砦によって囲まれた織田軍を突破して足の遅い小荷駄隊を運び入れるという困難な作戦であり、若き日の松平元康の軍才にて成功させた奇跡ともいえる軍功です。

また、この困難な作戦を成功させた功績により桶狭間への参集を免除されて大高城に留まることを許されたため、松平元康が、織田信長に討ち取られることなく一命をとりとめることにつながった作戦でもあります(この作戦に失敗していれば、松平元康は桶狭間へ参集を命じられ、そこで織田信長に討ち取られていた可能性が高く、後に江戸幕府が成立することもなかったと思われます。)

本稿では、マイナーではありつつも、実は大きな歴史的意味を持つ大高城兵糧入れについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い” の続きを読む

【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。

戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。

龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。

本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦” の続きを読む

【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い

郡山合戦は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて安芸国の毛利家の居城であった吉田郡山城付近において勃発した、尼子対大内という二大勢力の覇権を巡る一連の戦いです。

大内家方で主に戦ったのが毛利元就であり、合戦が毛利元就の居城であった吉田郡山城の近くで行われたため、この名が付けられました。なお、尼子軍が吉田郡山城を攻めた事実はありませんので、厳密には吉田郡山「城」の戦いと表記するのは誤りなのですが、一般に吉田郡山城の戦いと呼ばれることが多いので、本稿の表題にもカッコ書で吉田郡山城の戦いと付記しておきました。

この戦いによって、毛利元就の軍略によって尼子家の勢力が安芸国から一掃されることとなり、勢力拡張を続けていた尼子家に待っがかかるというターニングポイントとなった重要な一戦となりました。 “【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い” の続きを読む

【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦

久米田の戦い(くめだのたたかい)は、十河一存が死亡したことを好機と見た畠山高政が岸和田城を包囲するために出陣し、これに対応するために派遣された三好実休軍との間で、永禄5年(1562年)3月5日に発生した合戦です。

戦いは、和泉国八木郷の久米田寺周辺にある貝吹山古墳(現大阪府岸和田市)に布陣した三好実休軍に対して、畠山高政軍が攻撃をしかけたことによって始まり、畠山高政軍の奇襲により三好実休が討ち取られて三好軍が敗北するという形で終わっています。

三好政権を支える三好実休が死亡したことにより、三好長慶政権が凋落するきっかけとなった原因の一つともいわれる合戦でもあります。

本稿では、そんな三好政権の転換点となった久米田の戦いについて、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【久米田の戦い】三好実休が討死し三好家凋落のきっかけとなった合戦” の続きを読む