豊臣秀吉が死去した後、その後釜を狙う徳川家康と、豊臣政権の維持を目指した石田三成が対立し、全国の大名がこのいずれかに与することで全国を二分する対立構造が出来上がります。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として両陣営が激突する大戦に至りました。
あまりにも有名なこの戦いは徳川家康方の勝利に終わり、敗将となった石田三成は、戦後に同地からの逃亡したのですが、その後捕縛され斬首処分となっています。
もっとも、逃亡後から斬首までの経緯については余り知られていません。
これは、二次資料により様々な経緯が記載されているのですが、必ずしも確定的に明らかなものではないこともその一因となっていると考えられます。
本稿では、関ヶ原の戦い後の石田三成の行動について、諸説あるその逃走経路をかいつまみつつ、その概略を簡単に説明していきたいと思います(なお、一次資料による確定的なものではないため、あくまでも推測的な概略として見ていただければ幸いです)。 “【石田三成最後の2週間】関ヶ原の戦い後の逃亡・捕縛・斬首の経緯について” の続きを読む